第2話 マクスウェルに会いに行こう

 どうして此処にいるのだろうか――。


 それは別に哲学的な袋小路に行き着いたとかそんな高尚なものではない。

 ただちょっとだけ理不尽な境遇に対する愚痴をこぼしただけのことだ。


 私、大沢和乃(おおさわ かずの)は大学の正門の前にいる。

 もうかれこれ三時間も待たされているのだ。正直もう何度も放っていこうかとも思ったが何故か私は律儀に待ち続けている。そりゃ『どうして私はここにいるんだろう』とか呆けた愚痴も言いたくなってくる。

 ―― あと十分経っても来なかったら先に行こう。

 私はお気に入りのピンクの腕時計を見ながら思った。

そのまま私は腕時計の長針と短針にあしらわれている親金魚の周りを秒針の子金魚が楽しそうに泳ぎまわるさまを見ながら暇を潰すことにした。何度見ても金魚はかわいらしい。

「うわぁ。ゴメンねぇ、大沢さん。待った?」

 来やがった。

 私が入っているサークルの部長をやっている経済学部三回生の神田川良一が悪びれた様子もなくのったらのったら歩いて来た。

「いいえ、私も今、来たところですから。」

 私は『待ったに決まっとるだろうが、このスカタン』という心の声を、苦笑という便利な蓋を使って抑えつけた。額に青筋が浮かんでいるのが自分でもわかるが、それ以外はうまくいっただろう。寧ろそれぐらいの方が普通の感性の人なら反省してくれるはずだ。

「あぁ。よかったよ~。先に行っていたらどうしようかと思っていたんですよ~。」

 どうやら彼は私の表情に気が付かなかったらしい。そんなんだからいい歳こいてまだ童貞なんだ、この男は。

「何言ってるんですか~。私が先輩をほっぽらかして行くわけがないじゃないですか。」

 私はあくまで笑顔で答えた。あまり持ち上げすぎるとこの男は調子に乗りそうなのでそのあたりの計算がなかなか難しい。

「で、今日、下見に行くところはどうやって行くの?」

 神田川がすっとぼけた表情で聞いてきた。どうやら部長の癖に下調べすらしてこなかったらしい。

 この男は一見すると中肉中背で顔も良いわけでも悪いわけでもない、特徴のないのが特徴という感じの男なのだが、こういった、なんと言うのだろう普通の感性というのを持ち合わせていないようなのだ。こんな男が、なぜ部長をやっているのだろう。

 そういえばこの『ナイト・オブ・ガリレオ』には変わり者が多い気がする。親友の茜音にしたって相当の変わり者だ。先月に入部した堀川も一見まともそうだが、どうもすぐ空想にふけってしまう癖があるらしい。ここは変人ばかりが集まっている。多分、一番の変人が部長をすることになっているのだろう。こいつの変人ぶりは日常生活に支障をきたすまでに根深いものなのだ。

「それにしても、ガリレオの人達って変わっているよね。」

 突然、神田川が人差し指を唇につけて上を向きながら言った。こいつは読心術でも会得しているのか?

「まぁ、一番変わっているのは大沢さんだよね。」

 面と向かってそれを言うか。しかもお前がそれを言うか。私もお前らの種族の一員なのか。

「そ、そうですか?」

 例によってにこやかに答える。

「だって、待ち合わせ時間から三時間も遅れているのに今来たところなんだよ?僕がもし時間通りに来ていたらどうするつもりだったの?」

「そ、そうですね。それは困りますよね。」

 こいつ!殴ってやろうか。

 私は作り笑顔を崩さずに力強く歯軋りした。ここ最近(こいつと関わるようになって)身につけた能力だ。相手に悟らせないようにするにはなかなかテクニックがいる。

 そうは言ってもこいつ相手にしか使わないが。

「ところで、早く下見に行かないと日が暮れますよ?」

 私は半ば強引に本題に移した。

 下見、というのは民宿の下見である。今度、ガリレオで合宿に行こうということになったのだ。あろうことかその幹事に私が選ばれてしまった。おかげでこのとうへんぼくと顔を合わせる機会が増えてしまった。

「そうだね。」

 神田川が同意したので、彼が何か余計なことを言う前に私はさっさと用件を言って彼の先を歩くことにした。

 


 さすがに合宿ということで少し遠出をしなければならない。というわけで選ばれたのは、特急で一時間ほど乗った後、鈍行に乗り換えてまた一時間という微妙な場所だった。

 だが実際に電車に乗ってみると、車窓から見る景色はなかなかのもので、現代人が忘れかけていた田舎の情景が走馬灯のように駆け抜けていった。

 こんなに広々とした空気に満ちているのなら、きっと心も広くなることだろう。

 ところで。

 科学研究会であるガリレオが、こんなところでいったい何をするつもりなのだろうか。

「あのぉ。合宿では何をするのですか?」

 鈍行電車の中で私は向かいの席で冷凍みかんを貪り食っている神田川に尋ねた。

「天体観測だよ。」

 意外にもまともな返答が帰ってきたので私は少し驚いた。確かにこういう場所なら都会よりも綺麗な星空が見渡せそうだ。合宿する意味もある。

 しかし、なんで幹事の私が知らなかったんだろう。

 その時、一瞬にして車内が暗くなった。電車がトンネルに差し掛かったのだ。

「大沢さん、大沢さん。」

 神田川が冷凍みかんを膝に置いて私を呼んだ。

 やがて先頭車両に近い方から明るくなり出すと神田川はにやりと笑って呟いた。

「国境の長いトンネルを抜けると――。」

 神田川が両手に力を込めてボディビルダーのようなポーズをとった。

「――ムキムキであった!」

 川端康成に土下座して謝れ。

 ちょっと真剣に話を聞こうかなとか思った私がバカみたいじゃないか。

「あ、あの~・・・。」

 私は努めて『悲しいほど美しい声』でリアクションをとった。

「え?大沢さんって文芸でしょ?わからないかなぁ。これはね、『ムキムキ』と『ゆき――。」

 さすがに気まずい空気を感じたバカが恥を上塗りするように揚々と渾身のネタの説明を始めたので私は無視を決め込んで窓の外を眺めることにした。

 窓の外は景色が走っている。

 しかしそのどれもが同じように走っているわけではなく、遠い程に止まって見えるのだ。

 遠くの山は先程から動かない。

 それ以外は一面の畑だ。代わり映えのしない風景がとつとつと流れている。

あまりに変化がないのでもしかしたら世界は静止してしまったのかもしれない。

 自分だけ取り残されたような気がして不安になる。

 すると思い出したかのように人家が流れてくるので私はなんだか安心する。

 たまによくわからない趣旨の看板が人間社会のエゴを象徴するようにけばけばしく自己主張しながら流れてくるので私は見ないふりをする。

 人間ってなんて勝手なんだろう。

 私は意味もなく自嘲的に微笑んでみた。


 腕時計を見るともう既に午後三時を回っていた。

 次の停車駅を告げる車掌のアナウンスが聞こえる。

「大沢さん。次だよ。降りる準備しなきゃ。」

 神田川はもう四つ目になる冷凍みかんを一気に平らげて私をせかしてきた。

「そうですね。」

 私も降りる準備を始める。

 電車が駅に止まった。かざりっけひとつない質素な駅だ。落ち着いた紳士のおじ様のような雰囲気が、都会の小うるさい姑のような駅とはまた違っていて新鮮だ。

 到着を告げるアナウンスの声。

 私は神田川が余計なことをする前に小走りで電車を下りた。

 神田川が例によってのったらのったらと追いかけてくる。

 私はそれを無視して大きく深呼吸した。空気がおいしい。

 またアナウンス。

 電車のドアの閉まる音。

 私は後ろを振り返って神田川を確認する。

 神田川は、


 まだ電車の中にいた!


 電車の扉の前で彼は情けない顔でガラスに張り付いていた。

 ごうんごうんと妙に派手な音を立てて電車が出発する。

 私はそれをただ唖然として見送っていた。

 やがて電車が遠く地平線の彼方に消えていく。

 私は空を見上げる。

 雲は無気力にふわふわと流れている。

 明日は晴れるだろうか。

 晴れたら買い物にでも行こうかなぁ。

 そういえばレポートの〆切が近かったなぁ。

 なんだかあの雲、ソフトクリームに似ているなぁ。

 ソフトクリーム食べたいなぁ。

 ‥‥‥。

 あ、そうだ。

 駅員さんにあのバカがいつ戻ってくるのか確認しなくちゃ。

私は現実に引き戻されてため息をついた。


あのデクの坊はうまくいけば三十分後に戻って来られるそうだ。

お気に入りの腕時計で時間を確認する。

一時間に一度しか会うことを許されない夫婦金魚は午後三時十五分を指している。

よかったね、もうすぐ会えるよと金魚に言い聞かせてなぜだかふと寂しくなった。

三十分か。待って待てないことはない。

私はあのデクの坊を待つことにした。

 これが一時間と言われていたら私はどうしたのだろうか。

 やっぱり待ったのだろうか?

 私はため息をついて思考を切り替えることにした。

 そういえば。

 奇妙な悪魔の話を思い出した。

 その悪魔は部屋にいて唯一の出入り口の窓を管理しているのだそうだ。そして速い分子を通して、速度の遅い分子は窓を閉めて通れないようにしてしまうらしい。

 まるで今の自分たちのようではないか?

 神田川はとてつもなく「おそい」分子なのだろう。

 だとしたら悪魔は神田川を閉め出そうと躍起になっているのだ。

 あいつは悪魔に魅入られている。


 ありえないことだろうが、

もし、将来――

 あいつに恋人ができたとしたら彼女は大変だろうな。


 そんなことを考えているとどういうわけか自分があの男と付き合っている姿を想像してしまい、背筋が寒くなった。

 私はその一連の瘴気を身体から総て取り去ってしまうために――

 もう一度、大きくため息をついた。


 





                      マクスウェルに会いに行こう 完

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