第3話 今日はヘルムホルツな気分

 どうして此処にいるのだろうか――。


 それは別に哲学的な袋小路に行き着いたとかそんな高尚なものではない。

 例えば、それは予期しないことが起こったときに思わず口にしてしまいそうな言葉に近い。


 オレは自転車に乗ってガリレオのミーティング会場である大学の近くにあるファミリーレストランへと向かっていた。

 風を切る音が好きなのでオレはどこに行くにも自転車を使っているのだが、今日の場所取りはオレということなので今日は特に急いでいる。

 レストランに着くと少し混んでいたので名前を順番待ちのために書かされた。

 オレは名簿帳に『水橋 一郎』の名を書き記す。オレの名だ。単純でありふれた名だが、あの大スター選手と同じ名なのでオレは気に入っている。

 正直に言ってこのファミリーレストランはオレのような貧乏下宿生にとっては高級料理店みたいなものだ。たかがポテト一皿ごときで、もうその日一日分の食費の七十パーセントに相当しそうな勢いなのだ。ガリレオのミーティングが無ければ好んで来ることも無いだろう。来たとしてもドリンクバーだけで五時間は過ごすのだ。店員にはいい迷惑だろう。だから個人的にはミーティングはせめて他のファストフード店あたりでやりたいところなのだが、あのボンクラの神田川部長の意向もあってこのところずっとこのファミレスだ。今月もピンチである。

 そんなことを考えているうちに部長をはじめ、大沢先輩や舟越先輩、篠町先輩などいつもの面子がそろって入ってきた。その中に一人、堀川先輩と篠町先輩の間に隠れるように、"ガリレオでは”見慣れぬ顔が混じっていた。高校生ぐらいの女の子だ。

 そしてオレはその女の子を良く知っているのだ。

世話焼きで小姑みたいに口うるさいあいつ。

今はオレの田舎にいるはずの――

 ――妹の、水橋 美沙緒だ。

「やっほ~。お兄ちゃん♪」

 美沙緒がこちらを見つけて手を振った。

「ど、どうして此処にいるんだぁ!」

 そういうわけだから、オレは周りの視線も気にせずに思わず叫んでしまったのである。



 ファミレスの奥にある一番大きなテーブルでオレ達は腰を落ち着けて手ごろな料理とドリンクバーを注文した。堀川先輩が篠町先輩に引き摺られて飲み物を取りに行った。きっとまた二人してトリッキーな飲み物を持ってくるのだろう。

 美沙緒もガリレオのテーブルの中にちょこんと座っている。

「まったく。お兄ちゃん。昨日、わたし『明日そっちに行くよ』ってちゃんとメールで連絡入れていたでしょうに。仕方ないんだから。」

 またこいつの説教が始まった。しかしそのことを完全に忘れていたのだから仕方が無い。

「本当、この人達に声かけられなかったら、わたしずっとお兄ちゃんの家の前で待ちぼうけ食らうところだったわ。ありがとうございます。神田川さん。」

「あはは。いやぁ僕もちょうど彼に用事があったんだけど、彼に場所取りを頼んでいたのをすっかり忘れていてね。彼に会おうと家に行ってしまったところに君に出くわしたんだよ。」

 つまりオレと美沙緒はよりにもよって部長の無能に助けられたのか。なんだか嫌な気分だ。

「神田川さんって面白い方ですね。」

 美沙緒が軽く笑って言った。多分、部長の言ったことを冗談だと思ったのだろう。しかし美沙緒は知らないのだ。部長が素でこういう人物であると言うことを。

 だが、ふと『大事な用を忘れて他の事をしていた。』という点において今回のオレは部長とさほど立場的に変わらないような気がしてなんだかブルーになった。

「けど、水橋君にこんな可愛らしい妹がいるなんて知らなかったわ。」

 舟越先輩がホットコーヒーを片手に穏やかに微笑んだ。この何気ない上品な仕草が彼女の魅力の一つなのだ。

「そんな、舟越さんの方がずっと可愛らしいですよぉ。」

 美沙緒が照れるように頭をかきながら言った。どうも美沙緒はここに来るまでの間でガリレオのメンバーの名前を殆んど覚えてしまったようだ。

「ところで美沙緒。いったい何しに来たんだよ。」

 オレはぶっきらぼうに言う。自分に会いに来たはずの美沙緒がガリレオの面子とばかり話しているのを見ていると何故か虫の居所が悪くなったのだ。

「駄目人間でヘタレのお兄ちゃんがちゃんと人並みに学生生活を送れているのかどうか確かめに来たのよ。」

「余計なお世話だ。」

「だってそうお母さんに頼まれたのよ?」

「お袋は心配しすぎなんだよ。っていうか家族にまでヘタレとか言われたらオレはどうすればいいんだ。」

「と言うことは、こっちでも言われてるんだ。」

 そう言って美沙緒は仰々しくため息をついた。オレ達のやり取りをガリレオの面子がいかにも微笑ましそうに見ている。

なんだか気恥ずかしくなってきたのでオレはドリンクバーの飲み物を取りに行くことにした。

「あ、待ってよ。わたしも行く。」

 美沙緒がオレの後ろをとてとてとついてくる。オレはそんな彼女を不機嫌そうに睨み付けるとそのまま彼女を無視してオレンジジュースをコップに注いだ。

「もう、お兄ちゃんってば。」美沙緒が軽くむくれて抗議をした。

「鬱陶しいなぁ。オレにかまうなよ。」

「何怒ってるのよ。」

「怒ってない!」

「それが怒ってるって言うのよ!」

 美沙緒は口をつんと尖らせると、そのままテーブルの方へ戻っていってしまった。

 オレはひとつ小さくため息をついて、氷をコップの中に放り込んだ。

 テーブルでは美沙緒が楽しそうにガリレオの面子と話をしている。オレはなんだか見ていられなくなって暫く氷を入れるふりをしていた。


 

 ミーティングも終わり、それぞれが挨拶も適当に帰っていった。オレと美沙緒も一緒に自分の部屋に戻ることにする。

「お前、ここにはどうやって来たんだ?」

「歩きだよ。自転車なんかあるわけ無いでしょ。」

 そういえばそうだ。美沙緒は今、田舎からこちらに遠出している身だ。久しぶりに彼女の顔を見て、同じ家に住んでいるような感覚に陥ったのだ。

「美沙緒、後ろに乗っていくか?」

 オレは駐車場に留めてあった自転車を引っ張り出した。

「お、ラッキー。お願いするね。」

 美沙緒は鞄から六角を取り出して自転車に取り付け、足場にした。

「それじゃあ、行くか。」オレはサドルに腰掛ける。

「運転手さん、安全運転でね。」美沙緒はオレの肩を支柱にして自転車の後部に乗った。

「わかってるよ。しっかりつかまってろよ。じゃあ出発!」

 いつもの倍近くの力を以って自転車は始動した。車体が重くなった分、加速が遅いが、しっかりと地面にタイヤがグリップする。数秒後には風を感じられるほどに速度を上げることができた。

「気持ちい~ね~。」美沙緒が楽しそうな声をあげる。

 オレ達は風を身体中で目一杯感じながらアスファルトの道を走り抜けた。

 やがて大学近郊の急な坂道を一気に下り降り、自転車は一気に加速した。より強い風がオレ達を包み込んだ。

 そういえば昔もこうやって二人で自転車で走っていた。妙に胸が温かい感じがした。

 これが懐かしいという感情なのだろう。

 ちらちらと舞って落ちてきた鳩の羽をかわし、オレは何故だか意味も無く愉快な気持ちになって吹き出しそうになった。犬の散歩をしている主婦を悠々と追い抜き、ひと時のトップランナー気分を味わう。

 もう日が傾きかけてきているようだ。夕刻の赤い雲が自転車と同じ速度で駆け抜けていく。

「今日は、どうするんだ?」

「お兄ちゃんの部屋に泊まる。」

「お前、学校は?」

「創立記念日と合わせて連休なんだよ~。」

「高校どこだっけ?」

「お兄ちゃんと同じ高校だよ。」

 それはどこだっただろう。と、不可解な思考が脳裏を過ぎった。が、オレはすぐにそれを忘れて前方に見える急カーブを曲がりきることに専念した。きっとど忘れというヤツだ。

 そうこうしているうちにオレの住んでいるアパートが見えてきた。オレはゆっくりとブレーキをかけて美沙緒の負担にならないように停車させる。いつもなら後部の軽量を利用してドリフトをかけているところだ。

「着いたぞ。」

 促されて美沙緒が自転車から降りたのを見計らってオレは自転車を駐輪場に停車させた。

「ところで、美沙緒。今日は、本当は何しに来たんだ?」

「だから、お兄ちゃんの様子を見に。」

 美沙緒が少し、神妙な顔でこちらを見つめてきた。昔からそうだ。こいつは何か言いたいことがあるときも素直に口に出さずに表情だけで訴えてこちらが声をかけるのを待つのだ。

「本当にか?何か、言いたいことがあるんじゃないのか?」

 オレは軽くため息をついて声をかけてやる。

「なんで?」

美沙緒が瞳を大きく見開いて聞き返してきた。

「顔に書いてある。」

 オレは小さく微笑んで答える。

 美沙緒は軽く眼を閉じた。

 夕刻の西日が赤くアパートの窓に反射している。

 近くで子猫の鳴く声。

 それに応えるように鴉が鳴いている。

 自動車がどこかで発車した。

 近所の犬が通りがかりの人間に吠えている。

 帰宅中の子供達がゲームの話題で盛り上がっている。

 どこかで空き缶の転がる音。

 風が、美沙緒の髪をさらった。

「わたしね、お兄ちゃんに言いたいことがあったの。お母さん達には内緒ね。」

 美沙緒が眼を開けてモナリザのように微笑んだ。そして少し俯いて夕焼けよりも赤く頬を染めた。その姿をオレは可愛いと思った。

「お兄ちゃん。わたし……。」

 緊張したように話を切り出した美沙緒の姿を見て、オレもまた動悸が激しくなってきた。まるで心臓だけを残してオレの身体が西日に溶けてしまったようだ。

 美沙緒が意を決したように顔をこちらに向ける。


「わたし、彼氏ができたんだ。」


 動悸の激しくなっていたオレの心臓に、銀のナイフを突き立てられたような衝撃があった。その衝撃は神経を通じて全身に伝播し、鼓膜を破るような鋭い痛みとなり、やがて足の爪が剥がされるような鈍い痛みとなって地面へと拡散していった。

「そ、そうなのか。」

 オレはやっとの思いでその言葉だけを口にした。

「うん。」

 美沙緒は真っ赤な顔で頷いた。

 風が二人の間を駆け抜けていく。

 オレは呆然となって美沙緒を見つめていた。

「同じ高校の、ひとつ上の先輩なの。」

 美沙緒がこちらを見ずにつとつとと話し始めた。

 そうだ。美沙緒はオレの妹で、それ以前に女の子だ。もういい年だ。恋のひとつだってするだろう。何を、オレは動揺しているのだろう。いつまでも、彼女がオレの元にいるとでも思っていたのだろうか?それ以上の感情でも持っていたとでも言うのだろうか?

 オレは美沙緒にばれないようにため息をついた。

「どんなヤツなんだ?」

 兄として、祝福しなければいけないんだと思う。だが、銀のナイフは相変わらずオレの胸に刺さったままだ。

「正直、だめ人間で、わたしがいないとどうしようもない情けない人かな。」美沙緒はなんだか照れたような嬉しそうな顔で言った。

「だけど、優しくて、いざって時に頼りがいがあって・・・。」

 目の前の美沙緒はもう少女ではない。

彼女の成長を本当なら喜ぶべきなんだろうケド。

「えっと、誰かに似てるな~って、ずっと思ってたんだ。今日わかった。」

 美沙緒はオレに軽く微笑みかけた。

 オレはその女の表情に思わずたじろいた。

 美沙緒は瞳を閉じる。

 この先の言葉を、彼女は閉まっておきたいのだろうか?

 だけど、オレは聞かずにはいられなかったのだ。

 それが多分、兄としての責務だと自分に言い聞かせたかったのだ。

「誰に、似ているって?」

 オレは何故か上擦った声で美沙緒に問いかけた。

 美沙緒は口に手を当ててくすくすと笑い出した。


「お兄ちゃんに似てるんだよ。」


 瞬間、胸に刺さった銀のナイフが深く胸に沈んだかと思うと、次の瞬間にはその傷口から得体の知れない不可解なものが一気に放出されていった。

 ようやく、オレは美沙緒に微笑んだ。風がまた二人の間を駆け抜けた。

 きっと、美沙緒はこの風のように、気が付いたらもう、オレの元から遠くへ離れていってしまうのだろう。

 オレは軽く眼を閉じる。昔の、オレの後ろばかりをちょろちょろと付いて回っていた美沙緒の姿が目蓋の裏に浮かんできた。

 少し感傷的になっているな、とオレは自分を鼻で笑う。

 将来、自分に娘ができたとして、それを嫁に出すことになった時も、オレはこんな気持ちになるのだろうか。

「今度、二人で来いよ。」

 オレは眼を開けてまた軽く微笑む。

「うん。」

 美沙緒も微笑み返した。

「そいつに伝えとけ。美沙緒を泣かしたらオレが行ってぶん殴ってやるって。」

「うん。伝えとく。」

 美沙緒が、またくすくすと笑う。

 辺りが少しずつ薄暗くなっていく。オレは美沙緒を促して部屋の中に入った。

 オレはなんだか開放されたような気がして大声で笑った。美沙緒も何故か一緒に笑う。

 少しだけ自由になったオレの感覚はこれからどうするのだろうか。限られた条件の中で、一瞬だけ現れた自由な部分はまた次の瞬間にはもう既に別の感覚に置き換わっている。

 そんななんとも言えない自由と不自由の狭間でオレは美沙緒の笑顔を目に焼き付けた。

 時は流れていく。だんだんと美沙緒はオレという存在から解放されていく。

 だけど、今はこのときを大切に思おうと、オレは思うのだ。






                       今日はヘルムホルツな気分 完

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