第4話 どうしてギブズは笑ったか
どうして此処にいるのだろうか――。
それは別に哲学的な袋小路に行き着いたとかそんな高尚なものではない。
なんとなく今自分が置かれている立場に疑問を持っているぐらいのものだ。
私は舟越こよみ。女性ながら工学部の三回生でガリレオでは数少ない理系である。そして部長の神田川良一と共に数少ないガリレオ創設当時のメンバーでもあるのだ。
実を言うと私はそんなことはこの際どうでもいいのだ。ガリレオも科学研究会を名乗ってはいるものの、その実さほど理系サークルでもない。ただの暇人の集まりみたいなものだ。だから私はサークル活動よりもサークルのメンバーが好きだから入っている程度なのだ。その好きは気に入ったとかそういうものじゃなく、白状してしまうと恋愛感情だ。ちなみに相手は決して神田川良一ではないと思って欲しいです。自分の名誉のため。
まぁ、そういうわけだから私に理系であることを求められても困るし、意見を求められても実際のところどうでもよいと感じている。
「……と、言うわけで今年の大学祭の出し物は『新世紀科学喫茶』にしようと思います。」
いつものファミレスでのミーティングで部長の神田川が言った。
「ちょっと待って下さい。せっかく科学研究会なんですから公開実験みたいなことをやろうってこの前言っていたじゃないですか!」
新入りの堀川君が手を挙げながら言った。
「あれ?そうだっけ。」
「そうですよ。」
「じゃあ、どんな実験がいいというの?」
「それは例えば液体窒素とか……。」
「液体窒素って何?」
神田川が小首を傾げながら言った。この顔は多分、彼は本当に液体窒素を知らないのだ。
「液体窒素はそのまま液体になった窒素のことです。だいたい摂氏マイナス百七十度くらいの液体ですのでいろいろ面白いことができるんです。ねぇ、舟越さん。」
堀川君がこちらを向いて力説してきた。
「そうねぇ、詳しく取り扱ってるわけじゃないケド、バナナで釘が打てたりするみたいね。」
「そうなんですよ!」
堀川君が得意げに言った。
「でもマイナス百七十度ってむちゃくちゃ冷たくない?」
神田川がまだきょとんとした表情で言った。
「そりゃ冷たいですよ。」
「危なくないかなぁ?」
「ちゃんと取り扱い方をしっかりすれば大丈夫ですって。」
「でもなぁ……。」
「ほんといろいろできるんですよ。ほら消しゴムが爆発するんですよ?」
「爆発って……、本当なの?舟越さん。」
「そうねぇ、聞いたことはあるけど。」
確かに聞いたことはあるが、私は実際には見たことがない。ただ、爆発といってもゴムの弾性や空気の膨張などを考慮してどれくらいの規模かは想像がつく。恐らくは小さく破裂して四散する程度だろう。だが、きっとこの男はチェルノブイリ原発事故のような爆発を想像しているのだ。消しゴム程度のものがそんな爆発を起こすわけがない。起こすとしたら消しゴムの構成原子の一部をそのままエネルギーに変換しなければいけないだろう。
「それは……とっても怖いね。やっぱりやめておこう。」
ほらな。やっぱり想像しているんだこの人は。
「と、いうわけで、やっぱり出し物は『新世紀科学喫茶』にしようと思います。」
「だったら、せめて『新世紀科学喫茶』って名前はやめませんか?」
堀川君が食らいついた。何故こうもむきになるのだろう。この男はどちらかというと流されやすいタイプのはずだ。その男がこの件に関してはしつこく食らいついているのだ。
「なんで?いい名前じゃないの。ねぇ、舟越先輩?」
堀川君の横で茜音さんが咎めるように言った。
「そうねぇ、なんだか新世紀の科学喫茶って感じがするわ。」
私は小さくため息をつきながら答えた。堀川君の気持ちがわからないでもないが私は意外にこの『新世紀科学喫茶』って名前が気に入っている。
「そのままじゃないですか!そもそも『科学喫茶』ってなんなんですか!」
「それはね。科学の粋を凝らした喫茶店だからだよ。」
神田川が人差し指をひとつ立てて教授を気取りながら説明した。
「何が『科学の粋を凝らした』ですか!紙コップに『びぃむ』とか『ふらぁれん』とか書いてあるだけじゃないですか!科学への冒涜だぁ。」
堀川君はそう叫ぶとそのまま頭を抱えてうずくまってしまった。気持ちはわかるがここはそういうサークルなのだ。諦めた方がよい。
私は軽くため息をついて窓の外を見た。今日は『彼』は講義のためミーティングには参加していない。今頃『彼』はどうしているのだろうか。そして今日、私はなんでこんな所にいるのだろう……。
『彼』は私より一歳年上だが今は三回生だ。付き合い始めたのは三年前、つまり私が入学してしばらくしてからということになる。出会いはと言うと、このガリレオだった。当時はまだできたばかりだったからと言うことで、何の気は無しに見学に行ってみたら偶然同じ日に見学に来ていた彼と意気投合したというわけだ。
で、まぁ彼が入ってみたいと言うから、私も彼に近づきたかったから入るということにして、後はずるずると今に至る。こう見えても私は情熱的なんです。愛のためには手段は選びませんの。
しかし、実を言うと今はちょっと喧嘩中なのだ。
理由はそんなに大したことではない。ちょっとした行き違いってところだ。だけど、私にだってちょっと意地がある。彼から電話してくるまでこちらからは電話してあげない。
子供みたい。そう言って笑っている彼の姿が脳裏をちらりと過ぎる。私だって本当は仲直りしたいんだ。もう少し素直になれたらって思う時だってあるんだけど。
私はミーティングの内容も半分くらい聞き流してしまうくらいに、ハンドバッグの中のスマートフォンばかりを気にしていた。
ヴァイブレータの音が鳴って、私は砂漠でオアシスを見つけたかのような思いでバッグから携帯を探り当てた。ディスプレイには「新着メール一件」の表示。
開いてみれば傍迷惑なチェインメールだった。オアシスはただの蜃気楼だったようだ。
私はばれないように小さくため息をつくと、スマートフォンをバッグに仕舞い込んだ。
「どうしたんですか?舟越先輩。なんだか元気が無いみたいですけど。」
隣で大沢さんが公文書を整理しながら上目遣いに聞いてきた。
「何でもないのよ。心配してくれてありがとう。」
「そうなんですか。ならいいですけど……。」
大沢さんはそこまで言うと、私の方へ顔を近づけ、耳打ちするようにそっと続けた。
「……もし、あの馬鹿部長が原因ならいつでも言ってくださいね。力になりますから。」
私は苦笑しながら「ありがとう。」と言った。大沢さんが時代劇によくある「悪代官と越後屋の密会」で越後屋が見せるようなあくどい微笑で、私とアイコンタクトをとってきた。
よっぽどストレスが溜まっていたんだろうな。大沢さんもかわいそうに。
「何の話だい?」
空気の読めない神田川が話に割り込もうとする。
「さすが部長だなって話です。」
すかさず大沢さんが爽やかな笑顔で対応した。この芸当は私には真似できそうに無い。もしかしたら、近い将来このサークルを影で牛耳っているのは彼女かもしれない。
「そ、そうかなぁ。」
神田川が照れたように頭をかいた。
多分、大沢さんが言ったのは、彼が考えているのとは全く別の意味だと思うのだけれど。
私は紅茶を一口含むと、片手を頬にあて、はぅとひとつため息をついた。最近になって気が付いたのだが、どうやらこの仕草は私の癖らしい。
「そう言えば、和乃ってこないだ部長と二人きりでお出かけしてたみたいだけど、あたしに黙ってどこに行ってたの?」
茜音さんが奇妙な色をしたドリンクを片手に大沢さんに言った。
「なんで私が茜音に断りを入れないといけないの。今度の合宿の下見に行ってたのよ。」
大沢さんがジト目で答えた。
「へぇ、どこに行くんだっけか?いいところだった?」
「え~と、どこだったかな。ちょっとド忘れしちゃったみたい。のんびりしててよかったよ。」
大沢さんが軽く微笑んだところで空気の読めない神田川がまたも割って入った。
「そうそう、いいところだったよ~。僕が降りた駅なんかド田舎でさぁ。」
「あれ?和乃とは別の駅で降りたんですか?」
鋭いツッコミだった。神田川がちょっと眼を逸らして小さく呻き声をあげた。
「え~と、実はねぇ。」
「あ、ごめんなさい。なんだかオチが読めました。」
茜音さん、堀川君、水橋君、そして私の四人が声を揃えて言った。隣で大沢さんが必死で笑いを堪えている。
「ところで、ミーティングはしないの?あなたの見せ場なんだから。」
私はなんだか落ち込んでいる神田川をとりあえず励ましてあげた。
「う~ん、もう話すこと無いんだけどなぁ。」
やっぱりこの人は空気の読めない神田川だった。「だったらとりあえず〆ろよ。」と、隣で大沢さんが私にだけ聞こえるぐらいの小声で呟いた。昔はこんな子じゃなかったのに。まぁ、私も結構、同感なのだけど。
その時、またスマートフォンのヴァイブレータが鳴った。
私は慌ててバッグの中を捜す。
通話着信の文字。
相手は彼だ。
私は大急ぎで席を立ち、電話に出た。
「もしもし、舟越ですけど。」
私は努めて他人行儀な声で応対した。
『あ、こよみ?え~と、俺。』
彼の声だ。二日ほど声を聞かなかっただけなのに、なんだかとても懐かしい気がする。
どちらからともなく、気が付くと私達は互いに謝っていた。
それから少しの間、たわいの無い会話をした。
あぁ、なんでだろう。何でこんなに、
安心できるのだろう。
ときめきとか、そんなものはもう無いけれど、彼は私にとって空気のような存在なのだ。
彼にとって私も、そうでありたい。
楽観的かもしれないけれど、きっと互いにそう思っているから、私達は今、付き合っているのだろう。
物事には全て、より安定な状態というものが存在する。
物事は全て、より安定な状態へと移行したがる。
それは、人の心とて同じこと。なんて言ったら昔の科学者は哂うだろうか?
でも結局、今の私達にはそれが全てなんだ。
目新しい話題性も無いけれど、一緒にいて特別だなんて思えることも少なくなったけれど、
今の私には彼と共にあることが安定な状態なのだ。
この感情は将来変わっていくのだろうか?
できれば変わらないで欲しい。そして変わらないためには変わる強さがいる。
前に進もう。二人で。
私はスマートフォンに向って小さく微笑んだ。
「今日の夜、暇かなぁ?」
ぎゅっと目を閉じて彼の返答を待つ。
実は私からというのは今まで一度も無かった。
妙にすっきりした頭とは裏腹に、心臓の鼓動は速い。
これが私のひとつの勇気だ。
進めるだろうか、次のフェイズへ。
どうしてギブズは笑ったか 完
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