第?話 アインシュタイン思考論
「え~と、これで終わり?」
茜音が顔を上げて聞いてきた。
「そうだよ。」
僕は彼女の顔を見ながら頷いた。
「なんだかメタなオチだなぁ。ガリレオのみんなをモデルに小説を書いてみたって言うからどんなのかと思ったが、まさか実名出してくるとはな。うん。まぁ、悪くないんだけど・・・。」
茜音が珍しく言葉を選ぶように天井を見上げた。
「悪くないけど?」
僕が相槌を打つ。
「この最後の片山兵吾ってうちの大家さんの名前だよね。」
「そうだけど?」
「この文体をやたらと崩そうとしてるように見えるのはわざと?」
「その方が日常っぽいかなぁと。」
「なるほど。それで、一番気にかかるのはこの部分なんだが。」
茜音が少し半眼になって原稿を僕に見せて指を差した。第1話「友達はシュレディンガーの猫」の部分だ。どうでもいいが今日の茜音の服は小説の茜音と同じジャージとTシャツだ。
「あたしってこんなに変なキャラか?」
「そうだよ。」僕は即答した。
茜音は大きなため息をつくと、僕の脳天にチョップを入れた。痛い。
「おい。コラ。堀川哲哉よ。」
茜音がジト眼で僕を見てくる。
「怒るなって。事実なんだからちゃんと認識しろよな。それに第一章の出来事は去年実際にあったじゃないか。覚えてないかもしれないけど。」
「どういうことよ。あたしは『おののしのまち』なんてわけわかんないこと言った覚えがないぞ。」
茜音はあくまで訝しげだ。
「言ったじゃないか。自分に都合の悪いことを忘れるな。」
「わかったわ。じゃあそういうことにしておきますよ。でもなんか納得いかないな。哲ちゃん、ちゃんと説明しろ。」
茜音が睨むように言った。
僕はひとつため息をついて頭をかいた。
「なんつぅかな、嬉しかったんだよ。本当に。だからどうしてもこの時の出来事を小説にしたかったんだ。この小説の中の堀川哲哉はやっぱり僕なんだよ。」
茜音は一瞬、瞳を大きく見開いた。そうして今度は悪戯っ子のような目で僕を見つめてきた。本当に猫のように表情が変わる。
「結局、何が言いたいのだ?堀川哲哉殿?」
僕はまたため息をつく。急に煙草が吸いたくなってポケットを探って箱を取り出すが、中身がもう無かった。昨日吸ったのが最後だったことを忘れていた。
茜音は軽く微笑みながら、僕の答えをじっと待っている。
僕はそんな彼女の視線を避けるように天井を見上げる。僕の部屋の天井にはカビが生えている。去年のあの時もそうだった。
今更、何を僕は迷っているのだろう。僕はこの小説を誰に見せたくて書いた?
僕はこの小説を―――
茜音へのラブレターのつもりで書いたのだ。
格好悪い淡い恋物語をフランクにだらだらと書き綴り、最後にメタなオチをつけて小説の体を取っているが結局、僕が一番に書きたかったのは第1話の出来事での僕の気持ちだったのだ。他は全て核を覆い隠すための肉付けに過ぎない。だからこの小説を彼女に読んでもらった時点で、こんな展開になるのは予想ができたではないか。
「結局、僕は君が好きだって言いたいんだ。」
言い切った。自分の顔が紅くなり、熱を帯びていくのがわかる。
少しの静寂。
正直、この展開で静寂なんてしんどい。時間が経つごとに自分の心臓の音がうるさくなっていく。
当の茜音はなんだか嬉しそうに眼を閉じて、この静寂を楽しんでいるかのようだった。
がたんと窓の外で大きな音がした。僕は立ち上がってそれを窓から確認する。近所の子供の自転車が倒れた音だった。
茜音も立ち上がって窓際の僕の方へ来た。
「哲ちゃん。今から一緒に飲もうか。」
突然何を言い出すのだろう、この女は。やっぱり何を考えているのかわからない。でもそんな彼女を好きになったんだから仕方がない。
「哲ちゃん、お酒ある?あたしの部屋の分も持ってくるよ。」
茜音はそう言うと玄関の方へと歩き出した。僕は堪らす彼女を呼び止めた。
「何?」
彼女が振り返る。
「結局、君の答えは?」
「え?答えがいるの?」
茜音が意外そうに答えて続けた。
「あのね。気の許せない奴の前で平気でこんな格好しているわけがないだろう?」
それは、いったいどういう意味だろうか。僕が思案しているにもかかわらず、彼女の中ではそれで解決したように頷いて、また玄関に向かおうとする。
しかしすぐに「あ、そうだ。」と茜音が何かに気が付いたようにまた振り返った。
「哲ちゃん、牛乳たくさん用意しといてよ。うちにはカルーアの原液が四瓶もあるんだ。」
牛乳で割ってカルーアミルクにするつもりか。茜音はソーダ割りも好きだからそれも仕入れたいところだ。しかし、何故こいつは四瓶もカルーア原液ばかり溜め込んでいるのだろう。
「それなら、今から一緒に買出しに行くか?つまみが無いし。」
僕達は近くのコンビニで今日の夕飯とソーダとお茶とスナック菓子と焼きうるめを大量に買った。煙草の自販機でメビウスを買おうとすると持ち合わせが無いことに気が付いた。
「悪い。茜音、お金貸して。」
僕は隣にいる茜音に目配せする。
「ごめん。今あたしも手持ち使い切ったところ。」
なんだか今日はとことん煙草に縁が無い。今日はもう煙草を諦めることにした。特にヘビーなわけではないから気にはしないし。
僕達はそれぞれ両手にパンパンに張ったビニル袋を引っ提げて家路に着いた。軽い方を彼女が、重い方を僕が持つことになった。どう考えても彼女の方がパワーがあるのに、これは男女差別ではないだろうか。そもそもこんなに二人だけで食べられるのだろうか。
そんなどうでもいいことを考えていると前には見事な夕日が沈んでいた。もうすぐ夜だ。
夕日の中を茜音と二人で並んで歩く。意識してみるとなんだか楽しい。
僕が茜音を見ていると彼女がこちらを見て軽く微笑んだ。僕は慌てて眼を逸らす。
結局、今日の僕の告白は僕の中ではこのままうやむやになりそうだ。実のところ彼女にとって僕はなんなのだろうか。
僕にとって彼女が魅力的であるのと同じように、物事は全て相対的でしか測ることができない。長さや温度やそんなもの話ではなく、時間ですらそれぞれにとって違うものなのだ。それぞれが見ている世界はまるで違う。絶対的なものを考慮することは極限まで境界条件を狭めていかなければならない。結局、『僕にとって』『私にとって』の世界しかこの世には存在しないのだ。
今日の出来事は彼女の世界と僕の世界の相対距離を縮めてくれたのだろうか?
僕は軽く眼を閉じる。この相対距離は、いつかはゼロになるのだろうか。
「哲ちゃんの小説ね、やっぱあたし好きだわ。」
茜音がため息の混じった口調で言った。
「ありがとう。」
僕は素直に心からのお礼を言う。
夕日は赤く僕らの頬を染め上げる。
「また書いたらあたしに見せてね。」
茜音はこちらを向いて微笑んだ。
「お願いするよ。」
僕は控えめに答える。
別にしゃべることも無くなりゆっくりと坂道を歩く。
僕は時々、ちらりと茜音を見てはまた眼を逸らす。
その度に彼女は横でくすくすと笑いを堪えたような仕草をするのだ。
西日もだんだんとその力を弱めて、夕刻の涼しい風が頬を凪いでいく。茜音の短めの髪が風で揺れて、その風に運ばれてきた彼女の匂いがそっと僕の鼻先をくすぶった。そのちょっとしたくすぐったい感触の幻想に僕は魅入っていた。
急勾配の大きな坂を登り終えて二人は高井荘にたどり着いた。
道で水を撒いていた大家の片山兵吾が、こちらをなんだか意外そうな表情で僕らを見ている。
「君達、付き合うことにでもなったの?」
片山が声をかけてきた。
「えと、そう見えます?」
茜音が愛想笑いで微妙な返答をした。
「あはは、まぁ、がんばれ。」
片山の方も微妙な返答で切り返してきた。
僕達は彼と適当に挨拶をして二階に上がった。
茜音は僕の部屋に荷物を置くと酒を取りに自分の部屋に向かった。そして扉を開ける直前、ふと思いついたように立ち止まり、曖昧な笑みを浮かべた。
「哲ちゃん。今、あたし達がこうしているのも、誰かが書いた小説だったりしてね。」
彼女はそう言うと部屋の中に入った。
寸刻後、茜音は大量のカルーアを両手に下げて僕の部屋に入ってきた。
僕はつまみ類を適当にどけて彼女の座るスペースを確保する。
茜音は紙コップに二人分のカルーアミルクを注いだ。
「ようしそれじゃあカルーアパーティといきますか。かんぱーい。」
二人して酒を飲む。胸の辺りから熱が発生してだんだんと陽気になってくる。
「こうやって二人で呑むのは久しぶりだね。」
僕は軽く微笑んでつまみのポテトチップスを開ける。
「そうだよね~。ほらほら、コップが空いておりますわよ社長。」
茜音はへらへらと笑うとまた僕のコップにカルーアミルクを注いだ。
「お前も空いてるだろ。」
僕もそう言って彼女のコップに注ぎ返す。今日は初っ端から二人ともペースが速い。このペースで時間が持つのだろうかと一瞬考えたがこういうときは気にしないのが一番と思い直した。
「それじゃあ、今日という日にかんぱーい♪」
茜音が再び僕のコップに自分のコップを当てると、ぐいっと一気に飲み干した。
「おい、一気に飲んで大丈夫か?」
「へ~き、へ~き。こら、哲ちゃんも呑め~。」
「わかってるよ、もう。」
「えへへ、夜はまだまだこれからだからね~♪今夜は寝かさないぞ~♪」
僕もまたコップを空にして互いに酌をする。カルーアミルクばかりでは甘ったるくて仕方ないのでうるめやポテトチップスなどで時折、口の中をリセットしてはまたカルーアを呑む。
そうこうしているうちに僕もだんだんと頭がぼぅっとしてきた。時計を見るともう十一時だ。かれこれ五時間以上も呑み続けていた計算になる。もうそろそろ寝ようかなとか思うと茜音がタイミングを計ったかのように酒を注いでくるので僕はまたどうでもよくなって陽気に騒ぐのだ。茜音も大声で歌など歌ってみたり、今日はいつも以上に陽気に騒いでいる。
ふと、茜音が酒に浸食された座りきった眼で僕をじぃっと見つめてきた。
僕ももう既に意識が不確かになってきている。
「哲ちゃん。口のところ、ポテトチップスがついてるよ。」
茜音がふにゃふにゃと笑いながらのっぺりとした口調で言ってきた。
「え?どこ?」
僕はおぼつかない手で口元を探る。
「あ~だめ。だめ。全然だめだ!取れてないよ。」
茜音はけらけらと笑いながら言う。
「じゃあ、とってくれよ。」
僕は少しムッとなった。
「わかったわよ!」
茜音も少しムッとしたように答えた。
「とってあげるから顔をこっち出すんだ!」
僕は言われるがままに茜音に顔を近づける。
そして茜音の顔が間近にきた瞬間――
――茜音は僕に軽くキスをした。
茜音は一瞬、上目遣いで僕を見ると、からからと笑い出した。
「やぁい。ひっかかった~♪ひっかかった~♪こいつ馬鹿で~。」
「てめぇ、やりやがったなこのやろう!」
僕はもう自分でも何がなんだかわからない反論をして茜音のコップに原液のカルーアを大量に注ぎ込んだ。茜音が面白そうにそれを口に含む。
「うはぁ!甘い!濃い!強い!勘弁して!」
「参ったか。」もうどうにでもなれといった感じだ。
「口がもわもわする。哲ちゃん吸い出してよ~。」
僕は勢いで言われた通りに彼女に口付けしてそこからカルーアを口に含む。
その行為になんだか耐えられなくなって二人して大声で笑い合った。
ひとしきり笑ったあと、それぞれのコップにまたカルーアミルクを注ぎあった。
「哲ちゃん。次の小説は考えてるの~?」
「いや。まだ何にも~。」
二人してのべ~っとした口調で会話を始める。
茜音は時折、思い出したかのように突然、歌などを歌いだす。
そしてまた二人は酒を注ぎ会い、のぺ~っとした会話を始める。
ふと自分の足元に置いた、今日茜音に見せた小説が眼に入った。
もし今日の出来事を小説に書き下ろしたとしてもまたこの小説のようにだらだらとした文章になるんだろうなぁ、などととりとめもないことを考えて、僕は茜音の入れてくれた、夜のように甘ったるいカルーアミルクに口をつけた。
アルコールがもういい加減に回っているから体中が空中に浮いているような不思議な感覚だ。僕は少し落ち着いてこの浮遊感を楽しむ。
なんだかもう浮遊感が強すぎて全てに現実感が乏しい。
あぁ、やっぱりなんだかどうでもいい。
ただもう既に不確かな意識による、乏しい現実感と強すぎる浮遊感の中で僕の脳の一部にほんの一瞬だけ、やっぱりなんだかどうでもいい思考が通り過ぎて行ったのだった。
そういえば、僕は
どうして此処にいるのだろうか――と。
創造主のスクリプト シュガーリン @syugasyuga
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