サンダルウッド

「熱」

「休憩いただきます」

 そう言って、私はそこから離脱した。相方の女性職員は何も答えない。

 

 今日も失敗した。尽日じんじつ、部屋中に響き渡るヴォリウムでうなり声を発する重度知的障害者の彼を寝かしつけるのは、口で言うほど簡単ではない。 

 勤めて二年になるが、未だ一度も成功していない。他の職員も苦戦はしているはずだが、全敗者は私だけだ。


 いつものように、屋外の喫煙所へ行く。煙草はわないが、外気を浴びる必要がある。

 冷やさねば、気ぜわしく張りつめた中の温度により、熱発や眩暈めまい惹起じゃっきしてしまいそうだった。たかだか九十分、彼の向かいの部屋で横になるよりはずいぶんとましな気分転換だ。

 

 二月の夜気は、肌に刺さるように冷たい。空は、いつもの濁った漆黒色をしている。

 星屑の一つ二つでも見えれば、郷愁じみた逃避に拍車をかけることも出来ようが、都会の空は冷たく黙するだけだ。相方は今ごろ、時折居室から出て来る彼と、精彩を欠いた表情でもって持久戦を展開しているだろう。


「あんたには熱を感じないのよ」

 かつての恋人が口にした台詞は、確かに正鵠せいこくを射ていた。

 

 事を進めるための気概や情熱や豪胆さのようなものが、私には不足している。努力を怠っているつもりはない。自分なりに考え、工夫して日々を生きてはいるが、届かないのだ。

 気ぜわしさや煩わしさの波をかいくぐるだけの熱を、私は持っていなかった。まんじりともせずにいる彼は、そんな私の胸中を見透かしているのだろうか。


 イヤホンをつけ、古内東子ふるうちとうこの『星空』を再生する。

 感傷にふけるほどの恋はしてこなかったが、彼女の儚げな歌声に、私はいつも慰撫いぶされる。星のない濁った空を仰ぎながら、不意に涙を落とした。


 休憩時間が終わる五分前、喫煙所を出て、熱を帯びた部屋へと向かう。

 彼女の言葉に、負けたくはないと思った。

 私の心は、まだ冷えきってはいない。


 廊下に出ると、休憩前よりもいっそうの熱を湛えた彼のうなり声が聞こえた。

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