第3話「口は耳らに寄う 上」

 突然の囁きに、脳内が荒れ狂う濁流の如き怜次はなるべく平静に小声で答える。


「……そうだね。でも、ここって俺たちしか生徒いないから、普通に話しても良いんじゃ……」


 怜次の言葉に、三紗希は少しはっとするも慌てたように切り返す。だが、耳元に囁くのを止めることなく。


「……私たち図書委員だよ?決まりはしっかり守って静かにしないと……」


 ね?と最後に息を吹きかけるように囁かれ、怜次はもうこのままで良いか、と欲望に負けた。


(俺には……無理だ。有代さんの声で「ね?」って囁かれたら、誰でもそうなるわ絶対。こうなったら心頭滅却しかない。こんな魔唱のクラスメイトに興奮する姿を晒してはいけない、素数を数えるんだ……)


 若干声を震わせながらそうだね、と同意する。すると……


「……あ、ごめん。くすぐったかったよね……」


 顔を少し赤らめた三紗希が、少し距離を置いた。それでも、一般的な図書室の1人1人の感覚よりはかなり近いことに変わりはない。しかし、そんなことは怜次にはどうでも良かった。重要だったのは……


(あからめて、はなれながらささやくの、やめてもらってもいいかな?おれにすごくきく……すごくいい)


 もう、怜次には一般的な判断能力が欠如していた。既に脳はゲル状になっているのではないかと思う程度には。だが、ここを離れるという選択肢は怜次には存在しない。こんな幸福を得るためならば、彼は悪魔の誘惑にも決して屈することは無いだろう。


「……郷森くん?」


 先ほどの言動に意識を持っていかれていたためか、放心していた怜次を心配するように三紗希が見つめている。精神を平常に戻そうとするも、自分を含めた2人以外の物音が一切しない静寂が怜次の興奮を否が応にも加速させた。このままではナニカが不味い。考えられない脳みそを可能な限り回した結果、怜次は


「う゛……ごめん、トイレ!」


 その場からエスケイプを決めた。怜次は廊下へランナウェイする自らにこのヘタレ、と心中で毒づきながら頭を冷やすためにトイレへと走った。途中、教師に見つかり軽い説教を喰らったお陰で、少し心に余裕を持てたことが幸いだった。





「……」


 怜次が図書室を去り、手持ち無沙汰になった三紗希は再び本を手に取る。ぴらりぴらりと頁をめくり、文字に目を通していく。だが、内容が一切入ってこない。


「……可愛かったな、郷森くん……」


 ぽつりと零れたその一言は、窓から見える運動部の掛け声に消えた。そう呟いた三紗希の顔は、少し赤い。それは仕方のないことだ。誰だって、気になる異性と近くにいれば顔が赤くもなるのだろう。少なくとも、有代三紗希は側にいるだけで拍動が早くなり顔が朱に染まるほどに、郷森怜次のことが気になっていた。


「……好き……」


 怜次の走っていった先へそう呟くと、また顔が熱くなる。しかし、三紗希はこの熱さがたまらなく好きだった。お年頃とか恋する乙女云々ではなく。


「……やっぱり、あの顔にあの声よね。最高の組み合わせをありがとう、神様……」


 “推し”に対する恋だった。神様が仮にいたとしても、これには素直に喜べないのではないだろうというぐらい、三紗希の相貌は先程までの純情乙女よりも崩れていた。まるで、小動物の仕草に頬を緩ませて言動も幼くなっていく飼い主のような。確かに、無性に怜次の頭を撫でたくなる衝動に襲われるのは三紗希の秘密の1つである。


 男子の中でもそこまで大きくない身長。特徴は無いが、そこそこ整っている顔立ち。クールでありながら温かさを感じる、全てを包み込むような黒い瞳。とは思っているものの、自身が思うほど怜司の見目は麗しいわけではない。怜司よりも見目が整っている男子はそこそこ学年に存在している。だが、三紗希は何故か怜司の顔がその見目麗しい異性よりも魅力的に思えて他ならない。


 だが、それよりも三沙希を心中を激しく揺らすものが怜次。どうしようもなく人を安心させる、陽だまりが柔らかく差し込む木の洞の中にいるような、あの声を。


 つい先ほどまでの近づけていた。互いの口、肩、耳。そこで紡ぎあった言葉。そのやり取りを思いだし、三沙希は怜次が出ていった扉を眺める。もう少し話をしていたかったと呟き、頬を朱に染めながら。





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君の声で僕の名前を呼んで欲しい。 拠草 漱 @uma_sv

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