さくら、さくら。


 ――四月。今年もまた、この季節がやってきた。


 吐く息からは白さが抜け。永い眠りから覚めるように、芽吹めぶいた命が動き出す。おとずれを、少女は待ち望んでいた。自分の誕生日が近いこともある。


 少女の名前は一花いちかという。天皇てんのう陛下の御名ぎょめいから一文字。両親の大事な人で、彼女が大好きな人の名前から、餞別せんべつに頂いたもう一字。一花は自分の名前が、この季節と同じくらい――あるいはもっと、好きだった。


 よく晴れた日曜日の朝。行儀作法に勉学と、しなければいけないことはたくさんある。名家の子女として恥ずかしくない振る舞いを、どんどん身に着けていかなければならない。


 慶永けいえい十年――かの大霊災、【霊境崩壊】の二年後に、彼女は祝福を受けてこの世に誕生した。


 自分が生まれるまでの二年、それはそれは大変な道のりだったのだという。いま、こうして一花が笑って生きることのできる世界の営みは、当時元に戻そうと奮闘する人々が、多くの嘆きの中に在り、それでも諦めずに勝ち取った『宝』なのだと。


 家族みんなでった朝食を終え、部屋着から洋服に着替える。姿見すがたみの前でくるりと回転ターン……良し。さっそく見せに行こう。




とうさま、今日の一花はどうでしょう?」


 屋敷の二階。書斎しょさい日曜きゅうじつだというのに朝の仕事を始めようとしていた父親に、そんな仕事モノ無粋ぶすいですというかのようにすそを摘まんでお辞儀じぎなどしてみせる。


「今日も変わらずに可愛いよ、一花」


 柔和にゅうわ微笑ほほえみ。うーん。一手まだ、足りないか。このままでは書類に視線を横取られてしまう。もう少し、強硬きょうこうに出るべきだ。


「父さま」


「ん、何だい。何かあるなら言ってごらん?」


「では失礼して――」


 近づき、そのまま父のいる作業机も通り越し、窓へ。


 しゃあ、と勢いよく窓布カーテンを開けた。朝日が書斎へ差し込む。窓のかせを上げる。


「あ、こら一花」


勿体もったいないと思います。ほら!」


 小さな両手で窓を全開にした。とたん、まだ少し冷たくもやわらかい春の風が、待ってましたとばかりに閉じた部屋へと舞い込んだ。書類の束が踊るように舞い上がる。


 呆気あっけに取られる父親に、一花はしてやったりと笑ってみせた。


御覧ごらんください父さま! こーんなに良い、春の朝ですよ! こんな日に可愛い娘をっぽり出して、書斎に閉じこもって、窓布も締めてお仕事なんていけないと思います。不孝者ふこうものだとそしられますよ! ほら!」


 見てください、と急かすように窓の外に顔を向ける。


 この二階しょさいから見下ろせる、庭の景色が大好きだった。四季折々に顔を変え、一花の心を満たしてくれる。


 強制的に入れ替えられる空気に、父はとうとう観念したようだ。彼の仕事はこの夕京ゆうきょうの、ひいてはこの世界の運用に大きく関わっているが、娘のこともそれと同じくらいに重要な案件でもある。仕事を理由に、娘との時間を諦めるのは、確かに間違っているのかもしれない、と。


「仕方がないな……」


 小さな背中。寄り添って景色を見る父の気配に、ふふんと一花は満足げに鼻を鳴らした。


 そして。


 庭の中間、屋敷の正門へと向かう短い道の上で、母と誰かが話しているのを見つけた。紳士服スーツ姿の男性だった。


 母は手を差し出している。客人は、だが小さく首を横に振っていた――いけない。。肺いっぱいに春の空気を吸い込んで。


ーーーーー!!!」


 窓から身を乗り出して手を振る。


「あれ、来たのか?」


 確か今日は、と少女の背後で父が首を捻っている。なんて悠長な。


 大声で自分の名前を呼ばれた客人が顔を向ける。そして、少女とその後ろに見つけた父親に、小さく手を上げて見せた――よし。


「すぐお迎えに上がります! お待たせは致しませんので!」


 くるりと転身。少女の姿が窓際から消えた。



 /


「あら。おはようございます。お早いですね」


 出会って早々、彼女は頭を下げた。使用人もいるだろうに、こんな朝っぱらから庭の掃除か。せいが出ることだ。


 お手荷物を、と手を差し出されるが、軽く断った。


「いいよ、出がけにちょっと寄っただけだ。行ってくる、とアイツに伝えておいてくれ」


 言伝ことづてを頼んできびすを返そうとしたところで、上から自分を呼ぶ声が降ってきた。見上げればそこには、花のような笑顔でこちらに手を振る少女と、その後ろにおや? という顔の親友の姿。


 見るべきものは見た。うん、もう戻っていいな、と彼は思い。


「すぐお迎えに上がります! お待たせは致しませんので!」


 と、窓から姿を消した少女に、困ったように笑った。


「……一花は貴方様が大好きですから。お会いになって差し上げてください」


 なんて、強くはないが甘えるような引き留めの言葉。どうしたもんか、という逡巡しゅんじゅんより先に――彼の体は決断をした。


「悪ィ、やっぱりちと持っててくれ」


 カバンを押し付ける。


 書斎の奥に消えた少女、一花は階段を駆け下りて扉を開ける――なんて迂遠とおまわりな選択をしなかった。


「あっこら!」


「一花!?」


 部屋の隅まで助走をつけて、


 目標までの。傘のように広がる洋服の裾を片手で押さえながら、短い放物線を描いて飛び降りる。どう考えても飛距離が足りない。けれど少女には落下の不安など微塵みじんもない。よく知った相手なのだ。その確信。


 果たして、彼はその強迫しんらいにきちんと応えた。


 練り上げられた気が、常人の身体能力を超えて駆動する。予測される落下地点に先んじて到達し、両手を広げながら嘆息たんそくする。いったい誰に似たのやら。


 ――放られた祝福の花束を受け止めるように、男は少女を抱きとめた。


「あのなあ一花イチカ


「ふふふ! ごきげんよう、つくもさま。言ったでしょう? 一花は殿方を待たせません。立派な淑女しゅくじょになるのですから」


「立派な淑女は二階から飛び降りたりしねェわ」


 下ろそうとすると、首に両腕を回された。それは嫌だ、という声なき抗議こうぎだった。


「ね、ね。つくもさま! お茶をご用意致します! だから少しだけ、いいでしょう?」


「次の便で遠江とおとうみく。それ言いに来ただけなンだが、マジで」


「少しだけ! ねっ?」


 そんな遣り取りをしていると、とうとう家の主が下りてきて、扉を開けた。


「おはよう。そういうわけで、僕も今日は仕事にならなそうなんだ。君も一花の我儘ワガママに付き合ってくれないか? 『つくもさまは次はいつおいでに?』って最近毎日言うんだよ」


「おはようさん。つっても節分の時も同じこと言われた。ンで雛祭ひなまつりの時に顔出したじゃねえか。まだ一か月だぞ」


一か月です!」


「…………はァ。灰皿あるか」


 紙巻タバコ二本分。紅茶一杯分の時間で手打ちだと、ついに彼は観念した。列車は一本遅らせ、仲間をその間待たせてしまうことになるが、昼飯をおごることで勘弁してもらおう。


「はい! つくもさま専用です!」


 即座に返る少女の言葉。


 甘えるように寄せられる頬を、彼は――百鬼なきりつくもはそっと撫でた。



 ――余談だが。この家を含むごく一部では、節分の時にという風習が発生していた。福も鬼も、一緒に内に。なんのゲン担ぎなんだか。



「こんなに良い日なのですもの。みんな休んだって良いと、神様たちもおっしゃります! ほら見てくださいつくもさま! こんなに綺麗に咲いたんですよ!」



 春風に揺れる満開の薄紅色うすくれない



 一花が指を向けた先には、彼女の生まれた日に植えた桜が。それは見事に花開いていた。


 



 /



 慶永八年、四月。その沙汰さたは下された。


 帝都夕京ゆうきょう五大霊脈――山郷さんごう迫間はざま深山みやまかこい朝霞あさか。その五点を線で結び、五芒ほしの結界として桜路おうじ皇宮こうぐうを守護する。結界の再構築が成され、およそ半年を経て戻って来れたこの皇居の中。今上きんじょう天皇依花よるかが開いた会議に、五人の花守が列席した。


 労いの言葉。落ちる涙。果たした使命と、果たせなかった約束の数々。


 そしてこの先――日ノ国という現世うつしよの未来を、どうやって守り通すか。


『ンなもんはだろう』、と。迫間家の名代みょうだい、百鬼終世しゅうせい椿はばっさりと切って捨てた。


『陛下。開国をて時代は延寿えんじゅへと移り、この国は豊かになりました。貧富ひんぷの差は完全に無くすことなど、人の世には難しいことでしょう。しかし、確かに日々は豊かになりました』


 だから、そのを皆が忘れた。


。そうでなければ生きられなかった時代が生んだ信仰の根幹ですが、外国よそと違ってほら――日ノ国ウチには


 万物万象に神が宿る、極東の島国。その神秘性は時代が慶永へと移った今も、変わっていないのだと。


 根付いた習慣。食事の前後には手を合わせ、新年には多くの民が鳥居とりいくぐる。


 敬意けいいを。新しきが手に入ったら古きは捨てる。そんなことが容易にできてしまえるようになった時代は、確かに素晴らしいとしたうえで。


 朝霞神鷹じんようが続ける。


うしなうモノは多くございました。けれどその経験をかてに前へと進む。他にできることはないでしょう』と。


 ともすれば一本の刀が世をくつがえす程の呪いをはぐくんでしまうような、危うい土地なのだ、と。


 ――だから、することは最初から変わらず、変えなくてもいい。


 神々ばんぶつへのいのりが。日々をうたうことが。いのちまもることに繋がるのだと。


 子を産み育て、懸命に生きる。今までそうしてきたから今が在るのだ、と。


 そんな、当たり前を彼らは口にした。






 そして。この未曽有みぞうの大霊災を防ぎきった花守たちには、等しく恩賞を与えなければならない。


 無償でのはたらきは時に崇高と思われることもあるが――


 どれだけの損害を出しても、役目を完遂した者。その報酬がこの取り戻した日常で、それはとっくの昔に貰っていたものだと言っても納得はされない。


 百鬼が迫間とした契約は『百鬼はまつりごとに関わらない。世の趨勢すうせいが誰の手に渡ろうが構わない。権謀術数けんぼうじゅつすうねたみにそねみ。そういったは請け負わない』と。その契約を結んだ迫間が滅びてしまった。そして今更、関わっていないとも言えない。


 ならば、と椿は落としどころを提案した。


『では、今回の件は内々に。古谷こたに百鬼ウチがしたことなど、ここの連中くらいしか知りませんので。、で済ませてくださいませ』


 後世に遺すような名ではない。その家名の威を向けるのは、現世に生きる人々ではなく――その領分を脅かす、別の世界の存在だけでいい。


 不認知という名の報酬を、椿は望んだ。それから。


『……陛下。。おれも、まあそれに努めます。『椿』は父、煉慈れんじの刀霊、祖父〈長久ながひさ〉のめいもってその連作を打ち止めとします。それでも何かたまわれるというのでしたら――。すっかり切らしてしまいました』


 薄く笑う。


 依花も笑った。


『はい。それらを下賜かしとします。でも百まで生きて、わたしたちに仕えてくださいね。……それで、椿のことはこれからなんと呼べばいいのでしょう』


『百はいくら何でも長すぎます。神鷹に子が生まれたらくれてやりましょう。差っ引いて『ツクモ』とお呼びください』


 十二の時に捨てた名前だ。今更拾って、果たして馴染なじんでくれるものか。


『あぁでも。『椿』が入用いりようでしたらいつでも。御身おんみの刃となりましょう。〈魔〉を斬るくらいしか取り柄の無いはななのは、弁解のしようもありませんが』




 /



【霊境崩壊】による〈幽世かくりよ〉の侵攻を防ぎきった慶永八年。その二年後、一花が生まれた慶永十年。そして現在――にも、こうして桜は花を咲かせたのだ。




 在りし日に見た夢の話題を思い出す。


 比べるまでも無い。。そこに優劣が存在するのであれば、それを見る者の心ひとつだけだろう。


 それがかれの持論だった。


 一生を懸けてでも追い求める価値がある――その、未来という美しさ。






「一花も大きくなったなァ」


「はい。今年でとおになります、つくもさま」


殿とは仲良くやってるかい」


「もちろん! 朝霞の娘として恥じないように努めております!」


 抱きついたまま、降りる気がなさそうな神鷹の娘と一緒に、しばし桜に見惚みとれていた。


「桜は好きか」


「はい、とっても! 毎年が楽しみです! 一花はでも、椿の花も好きですよ。ほら、あそこにも」


 指が示した先には、落ち頃をのがしたかのように咲いている花が一輪。みてェだった。


「冬のさみしい間、ずっと見守ってくれていて。梅や桃が花を開くのを見届けて、こうして桜が咲いたら、安心したようにそっと落ちねむる。そんな優しいお花ですもの」


「そうかい。そいつは何よりだ」


「百鬼様?」


「あァ、悪ィ。いま行くよ」


 かけられた声に足を向ける。


 よく笑う女に育ったなぁ、母娘ともども。


「少し驚きました。このカバン、軽くて」


 証明するように上げ下げをする。


「いいンだよ、


「お戻りになられたらお土産と、お話をしに寄ってくださいね、つくもさま?」


「あァ。お前さんの誕生日までには戻るさ」




 。世界はめぐり、こうしてまた春に咲く。



 ――あぁ。これが幸福しあわせか。


 何度目かの確信をして、彼は屋敷――朝霞あさか邸へと招かれた。






 /ある線路レイルの向かう先。



「悪かったな、待たせちまって」


「それも百鬼殿のお勤めの一環いっかんなれば。姫君も喜んだことでしょう。私もこうして、ご相伴しょうばんあずかれて言う事も無し」


 危うく昼飯まで引き延ばされそうになった朝霞邸での歓談を打ち切って、結局二本遅れた列車の席で車内弁当を二つ買い、二人で食う。


「それに、三食さんしょくついて寝床まである。お給金も弾むとなれば是非もなしですとも。……ご馳走様でした」


 対面といめんで両手を合わせて空になった弁当箱のフタを閉める旅仲間――御影みかげ瑞己みずきを軽く見る。存外ぞんがい付き合いいいよな、コイツ。


 日々の見回りに加えて迫間の霊脈の管理と花守の補充。やらされる仕事は多く、あの世の連中には、と言われたが。生きてる間はそうそうゆっくりするにも手が必要だ。連れまわすにはこういう、名は売れてないが腕の立つ野郎は実に便利がいい。


 互いの近況報告を兼ねて他愛のない話をしていると、列車は隧道トンネルを抜けた。



 かたん、ことん、と身を揺らす列車が、東海道の沿線えんせんを西へ西へと走っていく。


(つばき。)


 その名前でおれを呼ぶのは、もうこいつくらいだろう。


「うん?」


薄氷うすらい〉の声に、軽く寝ようとしていた頭を上げる。















(海が見えるよ。)












 /禱れや謡え花守よ・異聞―功勲在らねど首は存野― 劇終。

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功勲在らねど首は存野―禱れや謡え花守よ・異聞― 冬春夏秋(とはるなつき) @natsukitoharu

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