第0話 だから、朝葉

「名前?」


 カタカタと、キーボードを軽快に叩く音がする。

 訊かれて、それがぴたりと止む。白く綺麗な指先の持ち主は、ふと顔を上げた。


「ああ。そろそろ考えないとね。君が待ち望んだ女の子じゃないか」


 優しそうな声の主は、キーボードの隣にカップを置いた。お茶が淹れてある。

 キーボードを叩いていたその手で、それを口まで持っていった。


「……そうね」


 そして逆の手で、自らの腹を撫でた。まだ産まれてくるまで期間がある。だが、もう妊婦だとひと目で分かるくらいの大きさだった。


「あれ、真ちゃんは?」

「眠ってるよ。お昼寝中だ」


 この日の昼下がりはとても静かで、窓を開ければ穏やかな風がそよそよと入ってきそうな、心まで自然と落ち着いてきそうな日だった。

 お昼寝日和と言えるだろう。


「あなた、お仕事は?」

「あのね楓。僕は今、会社の福利厚生を使ってお休みしてるんだ。この子が産まれて1年まで。何度も言った……と言うか、真也の時もそうだったろうに」

「あはは。ごめんごめん。なんか最近よく休んでるな~と思って」

「まあ、真也と4歳違い、になるのかな。すぐだったからね」

「元気だよねえ、彰夫くんは」

「……からかわないでくれよ」


 からからと、楽しそうに笑う。まだ少し、新婚気分が残っているような空気感だ。


「うーん……。『朝葉』って、どうかしら」

「『あさは』? 可愛いけど、なんで?」

「私の、初めて書いた小説のヒロインだから」

「へ? 初めてって『STARLIT KNIGHT』じゃないのかい? ヒロインは確かステラ姫の」

「いやいや、そりゃ発表の処女作はそれだけど。私が子供の時に書いてた、殆ど落書きみたいなやつ」

「知らないなあ」

「教えてないからね」

「見せてよ」

「嫌よ。面白くないもん」

「どうして?」


「あのね。『朝葉』は異世界に転生するの。ありきたりでしょ? この世界にちょっとだけ不満があって、ある日神様が現れて、転生させてくれるの」

「それで?」

「転生した後は、もう。それはそれはうんと幸せに暮らすのよ。片田舎に生まれて、頼れる仲間と出会って、世界中を旅するの。楽しい旅。何度か危険な目には遭うんだけど、いつも乗り越えて、先に進む。『朝葉』の青春はその旅の中に全部あるの。色んな大陸や島に行ったり。色んな見た目、考え方の面白く楽しい種族なんかとも仲良くなったり」

「楽しそうじゃないか」

「文章とか設定はダメダメだよ? ……最後はね。とびきり格好良い人と出会って、熱い熱い恋に落ちて。紆余曲折を経て、結ばれるの。それで、故郷に戻ってきて。いつまでも幸せに暮らすのよ」

「王道だね」

「でしょ? ……まあ、小説書き始めたばかりの少女の、ヤマもオチも無い妄想なんだけどさ。『そんな』人生を、リアルに歩んで欲しいなって。うんと幸せになって欲しい。だから、『朝葉』。どう?」


 いつ見ても。彼女は小説を語る時、彼女自身がその冒険を体験してきたかのように語る。身振り手振りをして、目をキラキラに輝かせて。彼女の中にはキラキラの物語が、星のように無数に浮かんでいるのだ。それを文章に起こして、皆に教えてあげる仕事。彼女の天職だ。


「勿論賛成だ。僕達でうんと、幸せに育てよう」

「えへへ。大丈夫よ。私達の稼ぎなら、ふたりでも3人でも、大学まで行かせられるわ」

「おいおい、もう3人目のこと?」

「えへへ……」


 そんな彼女の才能を見いだしたのが彼だった。WEBサイトで投稿されていた、誰も見向きもしないページの片隅に。光る原石を発見したのだ。


「で、その小説の『朝葉』はどうしてそう名付けたんだい?」

「えっとね。……その時確か『アーサー王』にハマってたから、かな」

「……なるほど」

「いーの。そんなことは。ねー朝葉」


 話し掛け、両手で撫でる。彼女の宇宙から、もうひとつの生命が誕生するのだ。

 彼も寄り添って、撫でてみた。


「……この子は、どんな世界から来るんだろうね」

「えっ?」


 また、彼女がおかしなことを言い出した。


「どんなキラキラの冒険を終えて、この世界に来たんだろうね。ねえ朝葉」

「……良いね。前世の記憶がもしあったら、貴重な取材対象じゃないか」

「あははっ。彰夫くんが乗ってくれた。うん。私は信じてるよ。もう子供の時から。異世界転生は、真実だってね」

「……小説家でなけりゃ危ない発言だね」

「あはははっ。ねえ、もっと撫でてあげて。話し掛けてあげて。朝葉も喜ぶよ」


 うんと、幸せに。

 父と母と、兄と。既に幸せな空間に、またひとり幸せの仲間が増えるのだ。

 今か今かと、待ち遠しくなる。


「きっと君に似て美人になるよ」

「ありがとう。じゃあ真ちゃんは彰夫くんに似て男前になるね。どんな綺麗な子を連れてくるんだろう」

「……気が早すぎないかい」

「えへへ。だって幸せなんだもの。ねえ、肩揉んで。彰夫くん」

「はいはい。……あ。真也が起きたみたいだから、また今度ね」

「あちゃー。じゃ真ちゃんここ連れてきて。朝葉を撫でて貰うー」

「はいはい……」

「んぅ。……ままぁー」

「きゃー。真ちゃん可愛いぃぃ! もー結婚してぇー!」

「あはは。お似合いだよ」

「えへへへっ」


 いつまでも。

 幸せでありますようにと。

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少女は転生を願った。 弓チョコ @archerychocolate

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