わたしの欠片

藤光

わたしの欠片

 今日こそ、書きはじめなければならない。

 わたしは文芸部へ急いでいた。


 抜けるような青空と澄み切った陽光、駆けてゆくわたしの息の白さ。第三校舎は冷え切っていた。


 本館を出てテニスコートを左手に見ながらイチョウ並木の坂道を上ると、やがて煉瓦塀の向こうに見えてくるのが第三校舎だ。


 いまは葉を落とした木々に囲まれている昭和の趣きの残る校舎は、今ではもう使われなくなった教室棟であり、半分は校内行事で使用される机や椅子、看板や集会用テントなどが納められた倉庫、もう半分は部室棟に部屋を割り当ててもらえなかったクラブの部室に当てられている。


 元々この高校で『本館』と呼ばれていたのはこの第三校舎で、いまの本館は十年前に建てられた『新本館』らしい。煉瓦塀や前庭の造作が残っていたり、やたらと立派な玄関があるのは、ここが『本館』だったころの名残ということだけれど、真偽のほどは定かではない。


 ともかく、かさかさと鳴る落ち葉を踏みつけながら前庭を横切り、第三校舎の玄関をくぐったが、校舎内のあまりの寒さにわたしは身震いした。


「冷たっ」


 寒いというより足元の廊下を通して、冷気が体に染み込んでくるようだ。なぜ、こんな思いをしなければならない? 第一校舎脇にある部室棟は、ここよりずっと新しい上に冷暖房完備だ。


「差別だ。侮辱だ。人権侵害だ」


 小さく恨みごとを呟きながら薄暗い階段を上ると、窓から差す光にほこりが舞い上がった。文化部を中心に各部の部室が入っている第三校舎。そういえば今週の掃除当番はウチだったっけ。


 第三校舎、二階の突き当たりが、ウチ――文芸部の部室だ。


 ガラリと音を立てて年代を感じさせる木製引き戸を開けると、意外にも中からは春のような暖気が流れ出てきた。入ると白くて大きなストーブが部室の真ん中に据えられており、その中で赤々と炎が揺らめいているのが見えた。


「おおっ。ストーブ」


 思わず駆けよって手をかざすと、熱気にあぶられてむずむずと手のひらがこそばゆい。至福、至福。できるものならこの暖かい物体に抱きつきたい。


「桐原、喜び方がおおげさだ」


 部室の奥から冷静な声が飛んできた。わたしと同じ古めかしい紺色のセーラー服、無造作にひっつめた髪、分厚い本を広げた長机に頬杖をついてこちらを見ている。


「この寒さだよ。おおげさにもなるって」


 わたしはストーブの上で湯気を立てているやかんを見つめた。うん、しゅんしゅんいってるやかんすら愛おしいぞ。


「リアクションにはちょっと引くが、喜んでもらえるとうれしい」

「グッジョブ、莉奈。でも、ストーブなんてウチの部室にあったっけ」


 いくつかのロッカーと長机が並んでいるだけで、がらんとした文芸部の部室には、昨日までストーブなんて魅力的なものはなかったはずだ。


「ちょっと探した」


 そう言って読みかけの本に視線を落としたセーラー服の袖口がほこりで白く汚れている。確かに第三校舎の半分は倉庫だ。どこかの教室にしまってあったこのストーブを見つけて無断拝借してきたのだろう。


「灯油も?」

「ポリタンクに五本くらい見つけた」


 でかした莉奈。でも、いったいいつからそんなことしてたんだ。また授業をサボって部室にこもっていたのだろうか。


 莉奈は毎日学校には出てくるものの、よく授業をサボっている。わたしのイメージではずっと部室にいるといっていいくらいだ。


 部室で本を読んでいるか、パソコンに向かって小説を書いている。保健室登校ならぬ部室登校だ。教室には単位取る上で最低の日数しか顔を出していないのではないかと思う。


 それでいて莉奈の学業成績は常に学年トップだ。のみならず全国模試でも並みいる進学校の秀才を押しのけてトップクラスの成績を納めるものだから、教師たちも莉奈を腫物でも扱うかのようにそっとしている。




 そんな莉奈と出会ったのは、この高校に入学してきた春。わたしと莉奈は同じクラスだった。新しい学校、初めて会うクラスメイトたち。影の薄いやせっぽちな女の子にわたしはしばらく気づけないでいた。


「桜が散ってしまう」


 声をかけてきたのは莉奈だった。窓際の席、読みかけの文庫本をおいて、ぼんやりと校庭を見下ろしていたときだった。休み時間でクラスに生徒はまばらだった。視線を戻すとわたしのそばに莉奈がいて、校庭の桜を見ていた。


「桜が散ってしまう」


 莉奈は繰り返した。

 これってわたしに話しかけているってことかな。ちょっと変わった人だと思った。


「そうだね」


 その日は風が強く、校庭を取り巻いて並ぶ満開の桜の木々は風になぶられ、その雪のような花弁を地面に舞散らしていた。


 なにかを試されるかのような会話からわたしたちの関係ははじまった。


 いつも教室の一番静かなところにいて、なにに対しても興味なさげでいながら、教室で起こることはなんでも知っている。莉奈は不思議な人だった。


 これまで莉奈のような人と話したことがなかったわたしは、どうしてわたしに話しかけようと思ったのか聞いてみた。


「あなたが本を読んでいたから」


 『あなた』と呼ばれて、目が醒める思いだった。


 ――あなた。


 なんて神秘的な二人称だろう。どこか遠くからくる敬意のこもった呼びかけ。中学の同級生たちがそう呼ぶ紗季ちゃんでもなければ、桐原さんでもない。わたしは、あなた――なのか。


 莉奈は机の上に伏せた文庫本を指差した。綿矢りさの『インストール』そして自分の持っている本を指し示した。それも『インストール』


「同じだ」


 高校生の女の子が書いた小説だから。この小説を手にした動機は同じだったけれど『インストール』に対して抱く、わたしと莉奈の感想はずいぶん異なった。


「ちょっと引く」


 高校生の女の子が学校をサボって、知り合った小学生とともに風俗チャットを始める――という小説の内容に、わたしは正直、読まなきゃよかったと感じていた。


「柏崎――さんは」


 そう、莉奈は「柏崎莉奈」というのだ。わたしは「桐原紗季」


「私は――」


 文庫本の表紙に視線を落として言葉を切った。そして目を伏せたまま、ひとこと。


「叫びたくなった」


 莉奈のことだ。実際に大声で叫んでいてもおかしくない。


 その時の教室は暖房も効いていて暖かかったけれど、わたしの腕には鳥肌がたった。怖かったからではない。莉奈という触媒を介してこの小説の異なる顔に触れたように感じたからだ。




 こんな莉奈に誘われるまま、入部した文芸部は驚くほど居心地が良かった。先輩たちは優しくて、文芸のことなどなにも知らなかったわたしを馬鹿にすることもなかった。


「マンガだって、ラノベだって、紗季ちゃんの好きな本を読めばいいのよ」


 珠樹先輩は、自身は筋金入りの文学少女で純文学しか読まないにもかかわらず、新入部員の読書傾向には寛容だった。文芸部ってどんな本を読まされるんだろうと、国語の授業で読まされる文芸作品にうんざりしていたわたしは、心の底からほっとしたっけ。


 あと、中村さんには「文芸ってなんですか」と聞いたことがある。野球部の野球や、美術部の美術は聞くまでも分かるのだけれど、文芸部の「文芸」をわたしはイメージできないでいたから。


「本を通して自分と世界に向き合うことよ」


 おおう。

 アニメおたくで、腐女子を自認する中村さんがそう口にすると、なんだか深遠な含蓄のある言葉に思えて、思わず頷かされた。


「毎朝、紗季ちゃんだってやってるんじゃないの。鏡を前にして、歯をみがいたり、髪を整えたり、お化粧をしてみたり――」


 自分の外見にはいかにも無頓着そうな中村さんは、真面目な口調でこう言い切るのだ。


「鏡の代わりに、ここじゃ本をのぞき込むのよ」


 マジか。

 でも、おもしろい。

 文芸がなんなのかは、結局いまに至るまでわかっていないのだけれど、文芸部の人たちは個性的でいい人たちだ。文芸もきっとそうしたものに違いないとわたしは感じている。




 そんな文芸部の居心地が良すぎるのか、莉奈は授業を受けずに、部室に入り浸っているのだ。


 一度、なぜ授業に出ないのか聞いてみた。すると莉奈は手にした本を閉じ、幼い疑問を投げかけてきた子供を見る母親のような目でわたしをじっと見てから


 ――時間がもったない。


と言った。


 驚いてしばらく言葉もなかった。莉奈にとって高校の授業は、子供の遊び程度のことでしかないらしい。全国十七位だ。そりゃあサボるよね。


 授業に出ないで作り出した時間を、莉奈は本を読むか小説を書いて過ごしている。読んでいる本もほとんどが小説だ。


「小説はおもしろい」


 世の中の一切合切をつまらなそうに眺めている莉奈が、唯一楽しそうに語るのが小説にまつわる話だ。おもしろい小説の中には、それを書いた人がいる。隠しようもなく現れる。それがおもしろいと莉奈はいう。


「『罪と罰』の中にはドストエフスキーがいて私を待ってる――ような気がする」


 綿矢りさには会えるかも知れないけれど、決して会うことができない作家がいる。時間と空間を超えて、そうした人を感じることができるのがおもしろいのだそうだ。


「普段顔を付き合わせてる人だって、小説を書いてもらうと、いつも見えている顔とは異なる顔が見えてきて、うれしくなる」


 わたしが要領を得ない顔をしていると、部室の書棚から以前面白半分にわたしが書いたBLの原稿を取り出した。中村さんにそそのかされて書いたものだ。イケイケの生徒会長(♂)が副生徒会長(♂)を好きすぎて……という、素で読むと恥ずかしすぎる原稿だ。


「ただなんとなく書いた原稿だよ」


 しかし、莉奈によると何気なく書いているものにこそ、その人が現れるものらしい。


「これを読むと、桐原が性的マイノリティに偏見を持ってないという発見があっておもしろい」


 真面目か! 決してそんなつもりで書いたわけではないのだけれど、莉奈は小説をそんな風に読む。わたしはといえば、心のなかを覗かれたようで、急にパイプ椅子の座り心地が悪くなったように感じたっけ。




「ところで書けたか」

「まだ」


 莉奈が書けたかときくのは、文芸部の『部誌』に載せる小説のことだ。卒業間近となった三年生の作品が掲載される今度の部誌は、2019年卒業記念号といったところだろうか。その部誌に載せる小説がまだできていない。原稿を収めるはずのSDカードはまだ空っぽのままだ。


「いい加減にしろ、桐原。締め切りはとうに過ぎている」

「だって――」


 だってアイデアが浮かばないのだから仕方がない。


「受験で忙しい先輩たちだって書いてる。二年の私たちが書かずにどうする」


 ぐう。部長の珠樹先輩をはじめ、三年生は皆優秀な人だ。受験生としても文芸部員としても。ああ、原稿をあげられない自分がどうしようもない奴に思えてきた。


「今度の部誌は、春の新部員勧誘の目玉コンテンツなんだから、現役部員が原稿を落とすなんてありえないぞ」


 春からの新部長であるところの莉奈は、先のことも見据えている。


 いま文芸部は存続の危機にある。学校の規則で正式な部活動と認められるためには、三名以上部員が在籍していなければならない。ところが、引退した三年生を除く文芸部員は、わたしと莉奈の二人だけ。新一年生の勧誘は文芸部にとっての死活問題なのだ。


「新城くんがいてくれたら、状況も少しは違ったのだが」


 ぐさっ。莉奈、その話はタブーのはずだ。

 新城くんは、文芸部でただひとりの一年生だった。ミステリとホラーが大好きで書いてくる小説もなかなか上手だったのだけれど、冬休みが始まる前に文芸部を辞めてしまっている。


「桐原がふられたりしなければ、彼も辞めたりしなかったのに」

「わたしのせいじゃないでしょ!」

「桐原に女としての魅力があれば、状況は違ったのでは?」

「あんたがそれを言うか」


 新城くんと付き合っていたわたしは、ふられてしまったのだ。夏休み前に告白してきたときには「桐原先輩のこと大切にします」なんて言っておきながら――。




 彼が文芸部にやってきたときのことは、いまでも鮮明に覚えている。暖かい日で、部室の南向きの窓から春の日差しがいっぱいに差し込んでくる午後のことだった。真新しい詰襟の制服は少し体より大きくて、童顔の彼をさらに幼く見せていた。


「あら、かわいい子ね」


 文芸部一の美女、木瀬さんの目がうれしそうにきらめいた。肉食系の木瀬さんは、男を食い散らかすと校内のそこここで噂される恋愛の猛者で、彼女の書く恋愛小説が切ない純愛ものばかりなのは、実生活とどう関連しているのだろうと文芸部ではしばしば話題になるというのは別の話。


「ぼく小説を書きたいんです」


 上手に木瀬さんのアピールをはぐらかすと、新城くんはさっと入部届を差し出した。受け取ったのは入口そばにいたわたしだった。


「男子部員なんて三年ぶりよ」


 と珠樹先輩がいうと、中村さんも、


「男がいると、この部屋も華やぐわね」


 ってか、男で華やぐって、変じゃない?


 とにかく。男子の入部希望に、先輩たちは饒舌になっていた。活動内容は文芸なんだし、部活中はしんとしている文芸部で先輩が三人とも口を開くなんて、なかなかないことなのだ。


 珠樹先輩や木瀬さんが、どんな小説が好きなのかとか、文芸部には女しかいないって知らないのとか、次々に話しかける。


 わたしはといえば、受け取った入部届に視線を落として紙片の字面を眺めていた。丁寧に書かれた字。しっかり踏ん張った字の列は頑固そうで、幼い彼の外見とはよほど違う。


 ――新城敦


 どんな人なんだろう。


「しんじょうあつし」


 声に出して読んでいた。男の子の名前をはじめて読んだわけでもないのにとても恥ずかしくなって、おしまいの方はささやくような声になってしまった。先輩たちに囲まれていた新城くんがわたしを見ているのを強く感じた。


 莉奈は、みんなから離れて小説を書いていた――と思う。




 そのときはなにも起こらなかったけれど、あのときからわたしの気持ちは始まっていたのだろうと思う。彼の告白は単にきっかけだったに過ぎない。


 告白されるなんて人生で初めてのことだったし、気づかないうちに舞い上がってしまっていたのか。もう、二ヶ月くらい経つけれど、別れを切り出されたファミレスに面した通りを歩くことは、未だにできないでいる。


 その日も新城くんは優しくて、わたしのことを気遣ってくれているのはわかったけれど、そのことが殊更わたしを傷つけていることには気づけないようだった。そして、わたしはそんなことばかり考えている自分のことが嫌だった。


「自分から告白しておいて、好きな女ができただなんて、しゃあしゃあとよく言えたものだ」

「莉奈――」


 敗北感にまみれたわたしの生傷に塩を塗りこむような発言は避けてほしい。わたしが悪かったの? 魅力不足?


「そうだ、失恋のてんまつを書けばいい。古今東西、小説に限らず詩や絵画、映画まで、愛する人の喪失を描いた作品は多い。喜べ、桐原も傑作をものにするチャンスだ」


 頭はいいかもしれないが、気持ちを察するという能力には欠けているに違いない。


「……無理。まだ立ち直れてないんだから、そんなの書けないよ」

「桐原は恋愛小説ばかり書いてるんだし、いいと思ったんだけど」


 虚構フィクション現実リアルは違う。いま痛いほどそう感じている。この痛みを小説に昇華するのが小説家というものならば、とてもわたしに務まるものではない。




 ともかく、わたしはアイデアをひねり出さなくてはならない。パソコンの前に座ってみるが、なんにも頭に浮かんでこない。窓の外の景色を眺めてみても、校舎の裏は冬枯れの雑木林が広がっているばかりだ。


 寂しい。冷たく動くもののない景色だ。冬ってどうしてこうなんだろう。人の気持ちまで冷たく凍りついてしまいそうだ。


 しばらくそうしていたけれど、何もしないので手持ちぶさたである。体育館や他の校舎から離れて建つ第三校舎はとても静かで、部室ではストーブの上でやかんがしゅんしゅん鳴るのと、時折、莉奈がページをめくる音がするばかりだ。


 しゅんしゅんさらり、しゅんしゅんしゅんさらり。


「ああ、もう」


 自分でもなにに苛立ってるのかよくわからないけれど、くさくさする気分を変えようと紅茶を作ることにした。もちろんティーバッグのだが。


 小さなテーブルの上に、莉奈のと合わせて二人分のカップを用意してポットからお湯を注ぐ。湯気と共にいい香りが立ってきたところで、食器の水切りかごが目に入った。花柄のかわいい弁当箱が伏せられている。莉奈のものに違いない。


 箸立てには、白い箸とそれよりは少し短い赤い箸が立っている。赤いのは莉奈のものだろう。白いのはだれのものだろう。白と赤、取り混ざって立つ二組の箸に、わたしの視線は吸い寄せられた。


「この赤いお箸って、莉奈の?」


 莉奈のそばにティーカップをおく。一口自分の紅茶を飲む。温かい液体がお腹だけでなく、身体のすみずみにまでいきわたる。


「そう」

「白いのは?」


 読んでいた本から目をあげて、莉奈がわたしを見た。そっと本を閉じてカップをとった。


「新城くんの。前からあったの気づかなかった?」


 そうか、新城くんの忘れ物か。わたしの胸のどこかにあるわたし自身にも読めていないノートがさらりとめくられる音がした。


「返しとく?」

「いいんじゃない」

「でも、いいの? 箸立てのなかで、赤いのと白いのが取り混ざっちゃってるよ」


 そこに書かれていたものは――。


「だから?」

「それってエロくない?」


 いってしまってから、自分に驚いた。いまの今まで、そんなこと考えたこともなかったから。


 箸立てのなかで二組の箸が取り混ざっている。お箸を洗って水切りに干せば当然そうなる。四人家族のわが家でも、キッチンの箸立ては菜箸やスプーンなどと共にバトルロイヤル状態だ。


 でも、考えてみれば、箸やスプーンは人の口に入るものだ。赤の他人のものと一緒に箸立てに立てられるのは、いやな気持ちにならないだろうか。それに箸は二本で一組なので、二組の箸は簡単に取り混ざってしまう。

 赤い箸と白い箸が混ざって立っているのが、互いに絡みあって支えあうように見え、思わずエロいなんて口走ってしまった。


 いや、「思わず」ではないのかもしれない。箸は食べ物を口へ運ぶ。唇に触れ、歯を擦り、舌に絡まって唾液に濡れる。そんな二本の箸が絡まっている様子は、そもそもとてもセクシャルじゃないか。絡まり合うふたつの舌。いや、ではなく、そのしたたかな触感は、まるですっと伸びた二組の脚が絡まり合っているようで。


 ストーブからは距離があるのに考えてると、暑くなってきた。


 だって、赤い箸と絡まり合っている白い箸は、新城くんのものなのだ。すらりと伸びて、華奢な体格からは想像できないくらい力強かった彼の腕、たくましい脚。わたしのものと感じたこともあるそれらに重なるのは、もうわたしの腕や脚ではなくって――。


「エロいね」


 莉奈は箸立てを見ることもせずにそういった。


 わたしはティーカップを手にしたまま、莉奈の細い首筋を見下ろした。こんなしなやかな首筋を持った女は、同じようにたおやかな脚をしているに違いない。あのたくましい脚とぴったり重なるような。


 ――本当に。


 溢れ出てくるイメージをせき止めようと見えないノートを乱暴に閉じようとして、大きく息を吐いた。


 まだだ、まだまだ――。


 激しい動悸に耳の奥がじんとして世界から音が消えている。立ったまま紅茶を飲み干し、パソコンの前に腰を下ろすとようやくわたしに音が戻ってきた。


 しゅんしゅんさらり。


「やる気でたみたい」


 身体が熱くなって、手が指先まで敏感になってピリピリしている。まるで神経がむき出しになったかのように。

 わたし、書かなくちゃ。




「ねえ、莉奈」

「ん」


 莉奈は本を読みながら聞いている。全身を耳にして聞いている。わたしに新城くんとのことを尋ねられやしないかと。わたしが尋ねなければ自分から口を割ってしまいそうなくらいに。


 残念でした。

 わたしはそのことを莉奈に尋ねたりはしない。それはわたしの口から語られるべきことではない。それはこれから書かれるべきことだから。


「わたしね。小説を書き始める時はいつも不安になる」

「へえ」


 わたしと目を合わせるタイミングを失った莉奈は、その姿勢のまま凍りついた。冷たい氷の彫像。


「小説を書くのは好き。いつも、いつまでも書いていたいと思うんだけど書き始めるのは怖い」


 そう書き始めることは怖い。まるで、とても気になっている人に『そのこと』を話しかけていいものかどうか逡巡するような緊張感を伴っていて。


「だって、それが大好きな男の子だったり、大切な友達にだったりしたら。『そのこと』を聞いてしまうことで、わたしのことが嫌いになってしまわないかなって考えてしまうでしょ。怖くなるじゃない」


 抱きしめていたいものが、するりと両の手からすり抜けてしまう恐怖はもうたくさん。わたしは臆病なのだ。


「聞いてしまわなければ、いままでどおりでいられるのに、これまでの関係が壊れて気まずくなってしまったらとても後悔すると思う」


 莉奈は黙っている。

 そう、そうしていて。


「わたしにとって小説を書くということは、いつも自身の『そのこと』を掘り起こす作業だと思ってる。もしかしたら小説を書くことで、わたし自身が思ってもみないことがわたしの中から現れるかもしれない――そう思うととても怖い」


 その緊張感が、わたしを熱くし、敏感にさせる。鼓動が高ぶり、背筋を汗が伝う。指先が帯電して、震える。


「それでも私なら躊躇しない」


 わたしを振り向いた莉奈の目も頰も赤かった。


 そうだろう。それがなんであっても、書くべきことがその前に現れたなら書くことに躊躇したりしない――それがわたしのよく知っている『柏崎莉奈』だ。


「わたし書かなきゃ」


 書くべきことに出会ったのなら、わたしも書かなくては。胸のノートから溢れ出るイメージを手にキーボードを打ち込め。気づかないままになっている『そのこと』を掘り起こし、分解して、まっさらな紙の上に新しいわたしを並べなおすのだ。


 手を差し伸べると、待っていたかのようにキーボードの上を動きはじめる。わたしは書いているというより、次々と浮かび上がってくる怖さに包まれた出来事、見失った言葉を濾し取っていく。その中には美しい言葉もあれば醜い言葉もあるけれど、それらを決して手放したりはしない。それはわたしの――わたしだけの小説の欠片ピースなのだから。


 夢中で書いているうちに、涙が頬を伝う感触があって手が止まった。全然悲しくなんてないのに、とめどなく涙が溢れてキーボードを濡らす。だめだよ。キーボードが壊れちゃう。書かなくちゃいけないのに。第三校舎のこと、文芸部のこと、先輩たちのこと、新城くんのこと、莉奈のこと、この涙とわたしのこと。いっさいがっさいぜんぶを打ち込めそうなんだから!




 がたん。

 音がした方向を見ると、勢いよく椅子を引いた莉奈が、怖い顔で通学カバンに荷物を詰めていた。ハードカバーの本、水切りにあった弁当箱、箸、そして白い箸も。それも入れちゃうんだ。


 そしてカバンをつかむと、口をひき結んだまま部室を出て行った。


 一度もわたしと目を合わせることはなかった。ただ、木製引き戸に手をかけたときに背を向けたまま小さく言った。

 

 桐原、私――

 はじめてあなたに嫉妬するかも。


 やっぱり莉奈はすごい。

 ぴったりと閉じられた引き戸の向こうを足音が遠ざかってゆく。足音が聞こえなくなると、第三校舎全体が水底に閉じ込められたかのように静かになる。わたしも言ってみた。


「わたしはずっと嫉妬してきた」


 置き去りにされたティーカップからはまだ、かすかに湯気が立ちのぼっている。


 途端に、校舎の外からそれは聞こえてきた。部室の窓に駆け寄ると、次第に傾きはじめた陽光を受けた長い坂道を、セーラー服姿の女の子がなにか大きな声をあげながら、本館の方へ駆け下りてゆくのが見えた。紺色のスカートをひらめかせて走ってゆく。声が冬枯れの白っぽい林を越えて渡ってくる。


 すげ。

 ホントに叫ぶんだ。






 しゅんしゅん――しゅんしゅん。

 やかんは鳴る。

 部室は暖かい。

 わたしはキーボードに向かう。

 白い林では雪が舞いはじめた。

 

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わたしの欠片 藤光 @gigan_280614

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