椿落つ

鹽夜亮

第1話 椿落つ

 生きる意味を探さなければならない。私は、漠然と日々を生きるには不器用すぎたし、何よりも、無力だった。私が今の世の中に生きる力を得るためには、意味であれ目的であれ、何らかの過給機が必要だった。それが明確になりつつあった。

 無職になって一カ月が過ぎた。私は、病んだ心身を引きずりながら、まだ歩みを進めることができずにいた。それは私が、金に切迫していないことによるのかもしれなかった。または、ただの臆病と怠惰によるものなのかもしれなかった。私は不相応に幸福で、贅沢な生き物だった。

 私には、生きる意味を探すという命題以外に、まず具体的にやるべきことがあった。それは退職後の雑多な事務手続きを終わらせることと、再就職へ向けて行動することだった。しかし、それはあくまでやるべきことであった。決してそれは、私のやりたいことではなかった。

 そうは言ったものの、実のところ私は、やりたいことすらわからなくなっていた。欲動とは健康を基盤に産まれる。ましてや、それが三大欲求以外のものであるならば、尚更である。生きるために必要のない欲動は、常に存在するように思えて、実のところあまりにも曖昧なものである。

 やりたいことのない私ではあったが、その状況を脱しようと、膿んだ脳で考えを巡らせてはいた。それが滑稽であることは、重々承知の上だった。苦悩した末に、何を思いついたかと思えば、せいぜい県内のどこかへ車を走らせることくらいのものだった。運転することで気を紛らわせることと、どこかへ行くことで気晴らしになることを期待していた。経験則から言えば、それは望み薄ではあった。

 かくして、私は愛車を近隣の湖へと走らせた。カーオーディオからは聞きなれた声が歌っていた。声は、彼自身について『Dumb』と嘆いていた。ああ、その通りだと思った。私は、この声の主に自らを重ねるのが好きだった。どうしようもなく暗い楽曲たちは、私にとって癒しだった。声の主がショットガンで頭を撃ち抜いたという過去の事実も、私の未来を語ってるように思えて仕方がなかった。私は、そんな自分を自意識過剰だと罵った。事実、私には声の主のような才能も、それを活かそうとする意欲もなかった。

 車内という完全な密室は、私の神経を癒した。たしかに、それは癒しであった。少なくとも、家族と共に家に閉じこもっているよりは、いくらかマシな癒しだった。人間と共にあるためには、心をすり減らす必要があった。それが、家族であろうと他人であろうと、私にとっては大差がなかった。

 アルバムも後半に差し掛かったころ、曲がりくねった峠道を抜けて、私は愛車を未舗装のみすぼらしい駐車場へと滑り込ませた。観光シーズンから外れた郊外の小さな湖の駐車場に、一台も車はいなかった。この湖において孤独であることは、私を喜ばせた。

 携帯灰皿を持って車を降りると、さっそく私は煙草に火をつけた。ピースは甘い芳香と共に毒を私の体内へ送り込んだ。私はつかの間の幸福を感じながら、湖へ向けて歩きだした。今朝がたの雨が渇かずに、道路や遊歩道は湿り気を帯びていた。お世辞にも整備が行き届いているとは言えない湖畔の散歩道は、泥のように不快なぬめり気を携えていた。靴を汚しながら、何も考えずに私は泥の上を歩き続けた。

 一本目の煙草を吸い終えるとき、ふと視界の端に鮮血が映った。ゾクリと背筋に寒気を感じた私は、それに焦点を合わせた。鮮血は、遊歩道沿いの木に飛び散っているように見えた。赤々としたそれは、まさに今この瞬間にまき散らされたかのように生々しかった。恐怖と、その赤を美しいと思う感情が私の中で相反していた。マネキンのように固まってその光景を凝視していた私が、それが鮮血ではないと気が付くのに、そう時間はかからなかった。それは雨上がりに汚れを落とした、鮮やかな紅色の椿に他ならなかった。私の足は、自然と椿へ向かって動き始めた。

 湖畔の風景は、その椿だけを残して色を消したかのようだった。モノクロの背景に鮮血のような赤が、爛々と浮かび上がっていた。それは不気味と言えなくもなかった。しかし、それはあくまで客観的に考えた場合のみだった。私にとってはそれが鮮血であろうと、椿であろうと、眼前の光景が美しいことに変わりはなかった。

 椿に近づくにつれて、私には希望とも絶望とも言いようのない、儚い感情が湧き上がってきた。それは私が、新しい物事へと向かうときに感じる臆病な躊躇に似ていた。なぜ今、ただ花を見るために歩いているだけでそれを感じるのか、私には理解できなかった。どこかで鳥が鳴いているのが聞こえた。にも関わらず、私にとっての眼前の現実は、モノクロを背景にした鮮血のままだった。

 いよいよ私は、鮮血の前に辿り着いた。それは確かに血のように見えた。椿は、赤々とその身を曇天の元に晒していた。美しかった。それ以外に言葉は必要がないと感じた。ただ、その椿の美しさに、私は見入った。しかし、そうしてよくよく見てみれば、椿は枯れかけていた。鮮血の下には、それの死骸が無残に広がっていた。それは酷く惨たらしい光景だった。私は、知らず知らずのうちに、バラバラになった椿の花弁を幾枚も幾枚も、踏みつけていた。それは虫を踏み殺したときの、後味の悪さにも似ていた。湿り気を帯びた遊歩道が、そのグロテスクさに拍車をかけていた。私は否応なしに嫌悪感を覚えた。

 視線をもう一度生きた椿へと戻した。花弁の内側は、どこか生々しいグロテスクさと共に、自然の神秘を湛えていた。蟻が一匹、その中を這いまわっていた。

 何分ほど経ったのか、私は椿をただ眺め続けていた。眼前の椿と、足元の椿とに、私は生と死の対比を感じずにはいられなかった。それが私にとって何を意味するのか、明確にはわからないまま、私は呆けたようにただただ椿を眺め続けていた。

 雨粒が一つ、額を打った。私は急激に現実の色彩を取り戻した。モノクロだった背景が、徐々に色を宿し始めた。漠然と、そろそろ帰ろうと思った。理由は特になかった。この後どこに行くという予定もない。ただ、漠然とそう思った。

 歩き始めようとした私の足に、何かが触れた。それは紛れもなく死んだ椿だった。断頭台にかけられたに違いない、もはや血の通っていない椿だった。だが、その椿は、自らの形を驚くほど正確に『生前のまま』保っていた。

 私は、言いようのない感動を覚えた。中世の美しい処刑や、介錯の存在が脳裏をよぎった。この椿は完全に死んでいる。しかし、生前と何も変わりなく、ただ私の足元で襤褸衣のようにその身を割かれることを待っている。…。

 気が付くと、私はその椿を拾い上げていた。その死は美しかった。一片の穢れも、破綻もなかった。これほど美しく死んだ花を、私は見たことがなかった。毒々しいほどの赤を携え、花弁を堂々と開いたままの椿を、また足元に戻す気にはどうしてもなれなかった。死んだ椿を見殺しにはできない。なんと矛盾した行動だろう。私の一部が、私自身を嘲笑した。私は、その嘲笑を知りながら、無視した。

 椿を持った私は、遊歩道のわきにある手すりに目を付けた。そこには、木を模した柱が等間隔でおいてあった。その柱の最上部は、おあつらえ向きに平坦な形状をしていた。

 私は拾い上げた死んだ椿を、その上に置いた。ただ置いた。その行為に、私は言いようのない満足感を覚えた。同時に、この椿が私にとって特別な記憶になるだろうことを感じた。感情を揺さぶられる経験は、久しぶりだった。

 柱の上に佇む椿は、美しかった。比喩のしようもなかった。私にとって目の前の死んだ椿は、美そのものだった。死んだばかりの微かな花の芳香を嗅ぎながら、私は煙草に火をつけた。ピースが一本燃え尽きるまでは、ここでこうして、私と椿だけの世界に浸っていようと思った。それ以上の時間は必要ないと思った。例えば、私はこの椿を持って帰って、防腐処理を施して一生家に飾っておくことさえできる。死んだ椿を死んだまま、あたかも生きているように虚飾することができる。それは大して難しことでもないだろう。だが、考えれば考えるほどに、それは吐き気のする美への冒涜だった。ピースの甘い紫煙が、椿の鮮血にフェードをかけた。紫煙の中で朧に浮かぶ椿は、あくまで一瞬間の美であった。故に、それは美の極致たりえた。私はそれを信じて疑わなかった。

 ピースが燃え尽きた。携帯灰皿に吸い殻を押し付ける。私は、もう椿に視線を向けなかった。椿との美しい時間は終わった。夢はいつか覚める。終わるからこそ美しく、覚めるからこそ愛おしい。それでいい。そう思った。

 それから二週間が過ぎた。私の歩みは、いかにも牛歩だった。だが、それでも少しは現実を歩み始めていた。役所で事務手続きを終わらせた後、私は再び椿のある湖畔を訪れた。遠目にも、椿は全て落ちているのがわかった。特にそれが私を落胆させることはなかった。椿が落ちていること、それは訪れる前からわかっていた。私の関心事は一つ、あの『死んだ椿』がどうなっているかだった。

 『死んだ椿』は、跡形もなかった。風にでも飛ばされたのだろうか。花弁の一つさえ以前の場所には落ちていなかった。湖畔に映える鮮血は鳴りを潜めていた。そのかわりに、初夏に近づいた季節は、新緑を山中に張り巡らせていた。

 あの椿と二度と会うことはない。それでいいと思った。私はこの結果に満足した。ピースに火を点けながら、私は踵を返した。ピースの紫煙だけは二週間前と変わらず、新緑に移り変わる世界を朧に覆い隠していた。

 その甘い芳香の中に、私は椿の赤を鮮明に思い返した。

 私は、幸福だった。

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