第9話 プリズム

 午後四時を過ぎた頃に、開店準備中のバーへと馨がやって来た。ステージの上でドラムセットを組み立てていた上野は「よっ」と声をかける。

「あれ、今日ってステージ演奏の予定って入ってたか」

「ああ、若いバンドが飛び入りで演奏したいって」

 へえ、馨は荷物をロッカーにしまいながら相槌を打つ。自分の支度を軽く済ませると上野の手伝いに加わった。

「それで今夜のボーカルは馨に任せた」

「……は?」

 馨はぽかんと口を開けて上野を見た。突然何を言い出すのだとでも言いたげである。

「待って、今なんて言った?」

「さっき裕太くんがここへ来て、一緒にバンドを組んでほしいって頼んできてさ。ボーカルは馨だって言うから、俺は二つ返事でやるって言ったんだけど、もしかしてまだお前には話が通ってなかったか」

 裕太がここへ来たことを馨は知らされていなかったらしい。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。

「話は聞いた。あいつと一緒にやりたいとは言った」

「じゃあ、話は早いな」

「昨日の今日だぞ、早すぎる」

「べつに早すぎることはない。遅すぎるよりはいい」

 馨が渋ることは承知の上だ。構わず上野は畳みかける。

「歌うって決めたんだろ、馨」

「まー……それはそうだけどさぁ」

 馨は上野から視線を逸らす。しどろもどろになっているさまは滑稽だ。

 どうせ自分にはある程度歌えるようになるまで、話を持ってくるつもりは無かったのだろう。バンドの話だってきっと裕太が持ち掛けなければ、自分からは言い出すことはなかったに違いない。長年の付き合いで、馨がどう考えるかくらいは想像がつく。

 歌うことのできない馨の姿を、上野は一番近くで見てきた。喉を掻きむしるくらいに苦しむ姿を見ていられなくて、歌うのをやめさせた。

「歌おう」

 馨の目をまっすぐ見て上野は言った。

「……まだ人に聞かせられるようなものじゃない。お前だって分かんだろ」

「大丈夫、いざとなれば俺がなんとかするし、そうなったらお前はタンバリンでも叩いてろ」

「なんでタンバリンなんだよ。せめてそこはギターだろ」

「お前タンバリンうまいじゃん。カラオケんときから才能感じてた」

「カラオケと一緒にすんな。どうせなら歌で才能認められたいわ」

「じゃあ歌え」

「……聞き苦しくても文句言うなよ」

「言わねえよ」

 

 馨はマイクスタンドへと手を伸ばす。

 最後にステージへ立ってから一年以上が過ぎた。もう二度と立つことはないと思っていた。再びここに立つ日が来るなんて。マイクに触れる。ひやりとした金属の感触が懐かしい。

 息を吸う。マイクの電源は入っていない。

 馨は目を閉じ、歌い始める。

 

 

 上野は馨が最初に歌った日のことを思い出していた。緊張した馨の顔も、凛とした歌声も、全部鮮明に覚えている。目の前の馨があの日の姿と重なった。

 馨の歌が好きだ。あの日からずっと上野は馨の歌に心を奪われている。

 上野は脇に置いてあったアコースティックギターを取り、歌に合わせて弾きはじめた。ギターの音色を聞いて、馨が上野に微笑みかける。一緒に歌おう、と誘う。

 楽しい。初めてバンドで音を出したあの時と同じくらいに懐かしく、新鮮な気持ちを上野は思い出していた。忘れかけていた。こんな感覚は久しぶりだ。


 静かにドアが開き、裕太たちが入ってきた。歌は続いていた。

 馨たちの邪魔をしないよう、二人はひっそりと壁際に立ってステージを見た。音楽を始めたばかりの少年のように笑って演奏をする二人が眩しかった。

 あっという間に曲が終わり、裕太は自然と二人に向け拍手をしていた。馨は裕太たちを見るなり照れ臭そうに笑った。

「拍手とかいいから」

「だってほんと、よかったです」

 よかった、胸がいっぱいでそれ以外に言葉が見つからない。余計な言葉を言うのも野暮なように思われた。

 鈴木は今にも泣きだしそうな顔をしている。足元から崩れ落ちそうだ。

「あ、あの初めまして、鈴木俊哉です」

 鈴木は二人の元へ駆け寄った。裕太は二人に鈴木を紹介する。

「鈴木は俺の友達で、前のバンドでドラムを叩いてました。それで今回もドラムを任せようと思って」

 はい、はいと鈴木は全力で二人に向け頭を下げた。上野と馨は、いやいやと揃って鈴木が頭を下げるのを止める。

「あんときのドラムか。客席で見てた。いい音出すよな」

 上野はすっと右手を差し出す。震えながら鈴木はその手を握った。

「覚えててくださったんですか! ありがとうございます」

「いやいやそういうのはいいから。これから仲間として一緒にやっていくんだしさ。遠慮とか謙遜とかそういうのはナシで」

 そんな鈴木の様子に困惑しながら上野は言う。うんうんと馨も頷く。

「よろしく」

 馨はそう言って鈴木に握手を求めた。その腕を鈴木は全力で握りしめる。ぶんぶん、そんな音が今にも聞こえてきそうだ。

「よろしくお願いします!」

 一際大きな挨拶が店中に響き渡る。

 自己紹介を終えると、四人は開店準備と並行して楽器をセットしていった。

 まだバンド名も曲も決まっていなかったが、今すぐにでも音を出したかった。雑談を交えつつ作業をするうちに、鈴木も二人にすっかりなれて、変な緊張も解けていた。時折面白くもない冗談を投げては、失笑されている。

「そうだ今夜演奏する曲なんだけど、『プリズム』はどう? 二人とも前のバンドでやったことがあるって聞いたけど」

「はい。俺の一番好きな曲で、絶対やりたいって推したんです」

「じゃあ決まりだ」

 上野の提案に首を横に振るメンバーはいなかった。神妙な面持ちで馨が首を縦に振る。

 本番直前まで馨はあーあーと声を出しながら、あちこちを歩き回っていた。裕太は傍らでその様子を見守る。普段は明るい鈴木も二人の緊張を感じたのか静かだった。

 上野に呼ばれ、三人はバーの小さなステージに上がる。二十人ほどいた客が一斉に視線を向ける。

 馨は何も言わずにマイクを手に取った。それから鈴木の合図とともに曲が始まる。裕太は思い切りギターをかき鳴らした。

 

 コードがぐるりと腕へと絡み付く。まるで生きた人間の血管のようだ。裕太はギターをつま弾きながら、隣で歌う馨を見る。

 細い腕はコートを握りしめ、マイクを震わせる。汗の滴る喉から、まっすぐな歌声が放たれた。

 裕太は夢中でギターソロを響かせる。

 馨がこちらを見て、満足そうに、気持ち良さそうに笑った。

 初めて会った頃よりも、ずっとずっと穏やかな表情だった。裕太はにこりと微笑み返す。

 コードが脈を打つ。馨の歌声を聞きながら、裕太は一人瞼を閉じ、音の波へと身を任せた。

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雨上がりのプリズム 遠野 @sakaki888

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