第8話 もう一度


 勇介が高校を卒業する頃に、『Tactics』はインディーズでアルバムを作った。インディーズながらもCDも配信も好評で、チャート上位に並ぶほどであった。ライブハウスは客であふれかえるようになった。メジャーデビューの話も出ていた。その矢先だった。勇介が死んだのは。

「もう無理して歌うことないだろ」

 馨にそう告げたのは上野だった。

 勇介の死後、声を出すことすら出来なかった馨を上野は懸命に支えた。上野がいなかったら今頃、馨もどこかで野垂れ死んでいたに違いない。それほどまでに、馨の中で勇介の存在は大きかった。

 やっとのことで声を出しても、いざ歌おうとすると途端に息が苦しくなって歌えない。何度挑んだって、何をしたって歌えなかった。無理やり喉元に手をやって声を振り絞り出そうとしたところで、上野が止めた。

「自分を追い詰めるくらいなら、やめた方がいい」

 馨は歌うのをやめた。

 苦しかったのと同時に、心にぽかんと穴が開くのを感じた。大事にしていたものを失くしてしまった。それは死んでしまうことと同義だった。

 上野には感謝の気持ちしかなかった。あの時、馨に歌をやめさせるのはどれほどの勇気が要ったことだろう。一生馨に嫌われる覚悟だってあったはずだ。

 馨はずっと勇介の死を認められずにいた。彼のギターがもう二度鳴ることはないという事実と向き合うことを恐れていた。だからこの一年、勇介の好きだった音楽をひたすらに聴いた。そうしている間は、彼がまだ傍らにいるように思えた。

 馨には歌しかなかった。

 この先二度と歌えないのなら、故郷へ帰ろうと馨は思っていた。音楽とは関係のない仕事に就いて、生きていこうと考えていた。

 昔描いた夢とは程遠い結末かもしれないが、それはそれできっと幸せだろう。ステージから見るきらびやかな光景に、熱狂の渦に、音の波に、未練が無いと言ったら嘘になる。忘れようとしたところで、瞼に焼き付いて忘れることが出来ない。

 けれども、もしふたたび歌うことが出来たなら、もう一度だけバンドがしたかった。一度は諦めた夢を、叶えたいと思ったのだ。

 

 

 空のビール缶が床に転がる。話したまま、馨は寝落ちてしまった。元々酒に強い方ではない馨は、一本飲んだら寝落ちてしまう。

 むー、と言葉にもならない声を上げながら、馨は机に突っ伏している。裕太は起こさないようにそっと身体を持ち上げた。細い背がへにゃへにゃと肩へのしかかる。細くて軽い。裕太は馨をベッドに横たえ、布団をかける。馨は小さく身を丸め、すやすやと寝息を立てていた。

 楽しそうに、嬉しそうに、懐かしむように、それから少し悲しそうに、寂しそうに、ころころと表情を変えて馨は語った。

 どんな言葉も安っぽくなってしまう気がして、裕太は相槌を打つのが精いっぱいだった。

 馨が何を思って裕太に話してくれたのかは分からない。けれども、話してくれたということがなによりうれしかった。ベッドにもたれながら、残ったビールを一気に飲み干す。苦い味が咽から身体へ伝っていく。

 朝、裕太が目覚めるとベッドの中に馨の姿は無かった。代わりに台所の方から音がした。

 ガチャガチャ、朝食を用意する音。チン、パンが焼ける音。それからかすかに歌が聞こえた。この曲は。

 裕太はばっと身を起こし、馨の姿を探す。馨が歌っている。

 静かに息を潜め、裕太は曲が終わるのを待った。声は掠れており、ところどころ裏返ったり音が外れたりしていて、お世辞にも上手いとは言えない。けれども、馨は気持ちよさそうに歌っていた。

 裕太の視線に気づいて、馨はぱたりと歌うのをやめた。

「いつから起きてたんだ」

「歌、良かったですよ」

「……聞いてたなら声かけろよ」

 気まずげに馨は裕太から目を逸らす。結局その朝、馨は続きを歌ってはくれなかった。

 

 

「上野さん、俺とバンドを組んでくれませんか」

 昼前に馨の部屋を出ると、裕太は開店前の上野の店へ向かった。

 準備中の札が掛かっていたが、扉は開いていた。店先の掃除をしていた上野が驚いた様子で裕太を見る。

「いいよ」

 あっさりと上野は快諾する。裕太はぽかんと口を開けて、ほんとに? と聞き返した。

「俺でいいならよろこんで」

 なに一つ詳細を話していないのに、他のメンバーが誰かも言っていないのに、上野は笑って言った。

「なにそんな変な顔して。どうせボーカルは馨なんだろ? それにギターが裕太くんなら俺に断る理由はない」

 そう言って上野は握手を求める。裕太はおずおずとその手を取った。

 楽器をやっている人の手だ。上野の手は音楽が好きでずっと続けてきた人の手だった。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく」

 上野はすたすたとステージの方へ歩いていった。ステージの上には所狭しとピアノやドラムなどの楽器やマイクスタンドやスピーカーと言った機材が並んでいる。

「この店さ、元は俺の叔父がやってたんだけど、いやまだ一応オーナーは叔父か。ともかく叔父の音楽好きが高じて、この店が出来たんだ。東京へ来てから、馨もよくここで歌ってた」

 懐かしむように上野は目を細める。

「ありがとう。馨と出会ってくれて。あいつにもう一度歌いたいと思わせてくれて。俺、あいつが歌う姿なんてこの先二度と見れないだろうって思ってたから、裕太くんには感謝してもしきれない」

 ふいに真剣な顔をして上野は言った。

「俺たちは一度バンドを諦めた。けれど馨が裕太くんと出会って、俺もあいつもまたバンドがやりたいって思えるようになった」

「いや、そんな、感謝されるようなことはしてないです」

「はは、そうだろうな。俺たちが勝手にそう思ってるってだけだから、今言ったことは忘れてくれていい」

 ぽん、と上野は笑って裕太の肩を叩いた。裕太はうまく言葉が続けられなかった。

「俺もあいつも、裕太くんとなら楽しく音楽が出来るって思ったんだ。だから難しいことは考えずに一緒に楽しくやろうな」

「はい!」

「よし、そうと決まれば、とりあえず今日の夕方五時過ぎにまたここ来て。ギターも持ってさ。あとほかにメンバーにしたいやつがいたら一緒に連れて来て」

「は、はい!」

 つまり、ここで演奏をするつもりなのだろうか。裕太は息を飲む。

「あっべつにただみんなで楽しく音楽がやりたいだけだから、緊張しなくても大丈夫」

 目の前のステージが、今の裕太にはとても大きなステージに思えた。

「もちろん、馨も一緒に。たしか今日シフト入ってたし、多少強引にでもステージにあげてやろう」

「いいんですか」

「いいっていいって。その方があいつには効く」

 心なしか、上野の声も弾んでいるような気がした。

 

 店を出てすぐのところで、裕太は鈴木に電話をかけた。こうなるなら、早めに話をつけておけばよかった。十コールほどで、鈴木は電話に出た。

「どうしたんだよ急に、何かあったのか」

 滅多に裕太からは連絡をしないため、鈴木はびっくりした声で言った

「今から空いてる?」

「今から? いいけど」

 鈴木は二つ返事で了承した。

「ありがと、今からお前の家の方行くわ」

「分かった。じゃあ近所のサイゼで待ってる」

 あっさりと電話は終わった。

 裕太は鈴木に馨とのことを一切話していない。きっと鈴木は驚くに違いない。彼は『Tactics』の、馨のファンだったから、一緒にバンドをやろうと言ったら、いったいどんな顔をするだろう。

 鈴木を誘った理由は、それまでも一緒にバンドをやっていたというのも大きいが、単純に裕太は鈴木のドラムを気に入っていた。

 ドラムを叩く姿は一見激しく大振りでいて、そこから奏でられる音は繊細で美しい。何より鈴木が楽しそうにドラムを叩くのを見ていると、自然と裕太も楽しくなるのだ。

 急いで裕太が向かうと、すでに鈴木はハンバーグランチを注文して待っていた。遅い、と言う鈴木に謝って向かいに座る。

「で、急にどうしたんだよ。何かあったのか」

 真面目な顔で鈴木は尋ねた。珍しく裕太が連絡をしたことで、何か悩みでもあるとでも思ったのだろう。

「鈴木、俺と新しくバンド組まない?」

 へ? 鈴木はぽかんと口を開けて裕太を見た。

「やる」

 間髪入れず、鈴木は言った。

「なんだそんなことか。急に連絡来るから焦っただろ。なんか悩みでもあんのかと思ったわ」

「そんなことってお前……まあいいやありがとう」

「そんで、他のメンバーは?」

「二人とも年上で、ベースは上野幸広さん、ボーカルは千葉馨さん」

「はああ!? 嘘だろ!?」

 鈴木が叫ぶ。隣の席のサラリーマンが怪訝そうにこちらを睨む。裕太はしっと鈴木をたしなめる。ひとまず落ち着こうと鈴木は水を飲んだ。

「それで今夜一回集まろうってなって」

「おいおいおい話がデカすぎてついてけないんだけど!」

「無理にとは言わないけど」

「やるに決まってんだろ! こんなチャンス滅多にないのに!」

 鈴木は裕太の手をガシッと掴む。興奮で震えている。

「ありがと!! 楽しみだわ!」


 これから何が起こるのか、裕太には想像もつかなかった。けれども、この先の未来を考えると、胸の高鳴りが止まらなかった。

 無性にギターが弾きたかった。爆音に乗せて、夢中でギターを掻き鳴らしたい。

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