第7話 昔の話

 馨の後をついて、裕太はアパートの階段を上がっていく。かつん、かつんと靴の音が響く。

「あんまり片付いてないけど」

 馨がそう言うと、「構いません」と裕太はぶんぶんと首を横に振る。あたりはしんと静まっていて、二人の足音だけが聞こえる。

「飯、食べた?」

 部屋へ入り、裕太がソファに座ったのを見届けて、馨は尋ねた。湿った喪服を脱いでハンガーに掛ける。明日クリーニング屋に持っていかなければと思いながら、部屋着に着替えた。

「まだです」

「カップラーメンしかないけど食う?」

 冷蔵庫の中身は酒と若干のつまみだけだ。我ながら不摂生な生活をしている、と馨は苦笑し、反省する。

「ありがとうございます」

 すかさず裕太は言った。

「手伝いましょうか」

「いい、そこでゆっくりしてて」

 すとん、と裕太はソファへ座った。傍らに積み上がった音楽雑誌の山から一冊取り、ぱらぱらと捲る。アルバムを出したばかりのバンドのロングインタビューが載っていて、裕太はそれを食い入るように読み始めた。馨はその様子を、湯を沸かしながら眺める。

「酒飲む?」

「はい」

 用意することと言えばカップラーメンの封を開けて、お湯を注ぐだけである。いたって不健康。ずっとそんな生活を続けている。

 テーブルの上に割り箸と一緒に並べて、ついでにビールを二本置いた。きゅう、裕太の腹が鳴る。

「夕方からなんも食べてなくって」

 恥ずかしい、馨に笑われながら裕太は腹を抑える。

「ハハッ、俺の分も食うか?」

「いいんですか」

「いいよ」

 馨はビールの缶を手に取り、プルタブに指をかける。それにつられて裕太も缶に手を伸ばした。タイミングを見計らい、馨が裕太へ缶を差し向けた。

「とりあえず、乾杯」

 何に対しての乾杯かを馨は言わなかった。裕太は言われるまま缶をぶつける。カチン、と小気味良い音が鳴った。空腹に冷たいビールが沁み込んでゆく。

 馨はそれから割り箸に手を伸ばし、口に咥えて割った。カップラーメンの蓋を開ける。湯気が立ち上がり、美味しそうな匂いが漂う。いただきます、と言うや否や、裕太は勢いよく麺を啜った。

「ほんっといい食べっぷりだな」

「へへ、お腹空いてて」

 裕太の顔を見て馨は笑う。やたら上機嫌だ、と裕太は思った。何かが吹っ切れたような、そんな笑顔である。

 あっという間に、裕太は自分の分のラーメンを完食してしまった。俺もういっぱいやし、と言って馨が自分の分を差し出してきた。ほとんど残っているそれにとまどいながらも、裕太はいただきますと言って食べる。

「おいしい?」

「はい」

「そか、良かった」

 くい、と馨は缶に口づける。

「俺の昔話、聞いてくれるか」

 ふいに馨は言った。「面白いことは一つもないけど」と付け加える。

「え?」

 ぎこちない声が漏れた。裕太は箸を止めて馨を見た。

「そんな驚くことないだろ」

 馨が苦笑する。

「なんとなく、話したくなっただけなんだけど、聞きたくない?」

「えっいや、聞きたいです、めっちゃ聞きたい」

 今までこんな事は無かった。聞きたいことなら沢山あった。けれども裕太には勇気がなかった。馨が自分から話したいと言うのだ。聞くしかない。

「酔っ払いの独り言だと思って聞いてほしい」

 そう前置きして、馨は話し始める。



 馨は高校の友人二人と勇介とバンドを組んだ。ドラムとベースは馨の友人二人、ギターは馨と勇介が担当することになった。

「中一? 子供じゃん。大丈夫なの」

 そう言ったのは上野だった。上野とは高校の時に出会い、その後一緒に上京した。

「聞いてみないと分かんないけど、大丈夫だろ」

 最初他の二人は、まだ中学生の勇介を入れることに対して、あまりいい顔をしなかった。当時高校生の馨たちから見れば、勇介は子供だった。

 それでも馨は確信していた。二人は絶対に勇介を認める。

 勇介のギターは馨よりもずっとずっと上手い。もっと言えば、馨の知る限り、周りの誰よりも上手い。

「勇介、弾いてみ」

 馨は高校の音楽室にメンバーを集めた。勇介の腕前を知らしめるためだ。珍しく緊張した面持ちの勇介がギターを構える。

 音を出した瞬間、二人が息を飲むのが分かった。

 勇介のギターを聞くなり、二人は喜んで勇介を迎え入れた。勇介のギターは、一瞬で人を惹き付けるほどの魅力があった。

 しかしボーカルだけはなかなか決まらなかった。誰もやりたいと言う人がおらず、四人とは別に誰かボーカルを呼ぼうかという話も上がっていた。そんな時に勇介が言った。

「馨はどう?」

 はあ? と馨は眉を顰めた。ギターを弾くならまだしも、人前で歌うなんてそんな度胸は馨には無かった。歌うこと自体は嫌いではないが、誰かに聞かせられるほどではないと思っていたのである。

「いや絶対俺には無理」

「俺は馨の歌、好きだけど」

 間髪を入れずに勇介は言う。

「歌うの、嫌?」

 大きな瞳が真っ直ぐ覗き込んでくる。逸らせない。そんな瞳に見つめられて、歌って欲しいと言われて、無下に断れるはずもなかった。

「しょうがない。試しに歌ってやるけど、ダメだったら別のやつにしろよ」

 馨はそう念を押した。一度歌って、選ばれないのならそれでいいし、選ばれてしまったら受け容れるしかない。馨は覚悟を決める。

 緊張した面持ちで、すうと息を吸った。それからゆっくりと歌いだす。

 あの時歌った曲を、忘れようと思っても馨は忘れられなかった。ギターを持つきっかけになった曲を、馨にとって一番大切な曲を歌った。

 しばらくの沈黙ののちに、大きな拍手が送られた。馨は照れくさそうに顔を手で覆う。人前で歌うなんて、ましてや暖かい拍手までされるなんて、当時の馨には恥ずかしくて堪らなかった。胸の奥がむずむずして、くすぐったくて、三人の顔なんてとてもじゃないが見られない。

「ボーカル、やってくれる?」

 再び真っ直ぐ勇介に瞳を覗き込まれて、首を縦に振る以外、馨には出来なかった

「馨の歌、初めて聞いた。うまいじゃん」

 上野が手を叩きながら言った。普段はへらへら笑っているくせに、この時ばかりは真剣な顔で馨の歌を聞いていた。

 笑って適当に聴いてくれたらいいのに、馨は余計緊張してしまった。そんな馨の緊張を知ってか、上野は「いい声してるよな」と穏やかに笑った。そう言われてしまうと、なおさら恥ずかしい。

 あれから何年も経った。上野も勇介も、飽きることなくことあるごとに馨の歌が好きだと言う。馨が照れることを分かっていて、照れ臭いことも平気で、言ってくるようなバンドだった。

 高校時代はあっという間に過ぎた。勉強も何もかもを放って、一心に楽器に向かった。そこで馨は歌うことの楽しさを知った。

 皆の演奏する楽器のリズムに乗せて、たくさんの人々の前で声を響かせる。初めは緊張してばかりだったが、次第にそれもなくなり歌っていて気持ちいいと思えるようになった。

 歌うことがこんなに楽しいなんて知らなかった。ずっとずっと歌っていたい、出来ることならこの先の未来もずっと、と願うようになった。やがて、自分には歌しか無いと思うくらいに、歌が好きになっていった。


 高校三年生の時だった。高校を出たら東京へ出たい、そこで仕事を見つけてバンドをしたい、と馨は正直に言った。周りの大人は無茶だと言った。教師は皆反対した。

 進学した方がいい、それからだってバンドは出来る。馨でも入れる大学はいくらでもある。バンドで成功するなんてほんの一握りだ、と真剣な目で担任は言った。普段あまりうるさくものを言わない親も、出来るならば進学して欲しいと言った。

「俺は東京に行く」

 迷っていた馨に向かって、そう言ったのは勇介だった。当時勇介は中学校三年生だった。馨は驚いて、勇介の顔を見た。嘘だ、と思った。まさかこの歳でそんな決断をするなんて、無謀にも程がある。馨の言いたいことを汲みとったのだろう、勇介は慌てて「俺が決めたわけじゃなくって」と付け加えた。

「丁度親が転勤でさ。めっちゃいいタイミングじゃない?」

 いいことを思いついた、とでも言いたげな表情で勇介は言った。

「……へ?」

 初耳だった。確かに、とてもいいタイミングだ、と思った。

「だから、馨も来てよ」

 とっくに馨よりも大きくなっているのに、そうやって勇介は子供の顔でねだる。馨にボーカルを頼んだ時と、同じ顔をしている。

 そう言われてしまったら、馨は自分が悩んでいるのがばからしくなってしまった。何を迷っているんだ、自分の人生だ、ここで諦めてどうする。これを言ってしまえば後には引けない気がした。それでいいと馨は思った。

「分かった、俺も行く」

 言ってしまえば後は周りを説得していくだけだった。進学はしてほしいという親をなんとか交渉し、東京の学校へ行くことにした。勉強はあまりしてこなかったが、この時ばかりは勉強に集中し、なんとか志望校へ合格した。ベースの上野も東京の別の大学へ合格したが、当時のドラムは進学の関係で地元に残ると言って抜けた。バンドは三人になった。

 何もかもが順調というわけでもなかった。ドラムは何度も変わった。喧嘩やトラブルは数え切れないほどしてきた。思い返せば大変なことは沢山あったけれども、それ以上に、楽しかったことの方が多かった。

 勇介を子供だと馬鹿にする人々もいた。彼らは決まって、勇介のギターを聴けばコロッと態度を変えた。

 瞬く間に勇介のギターの腕は巷で噂になっていった。加えて馨の歌声も評判となり、馨たちのバンド『Tactics』は着実に人気をつけていった。

 東京へ出た年の夏のことだ。

 馨は勇介の部屋へ遊びに行くなり、「入って来ないで!」と締め出された。長い間幼馴染をやっていて、こんなことを言われたのは初めてだった。馨は手持無沙汰にドアに背を向けて立ち尽くした。突然の反抗期か、思春期というやつかと困惑する。

「ちょっとだけ待って!」

 部屋の中からは何やらガシャガシャと物音がする。しかも勇介の歌声まで聞こえる。何をしてるんだアイツは、と馨は不審に思いながらも、大人しくドアの前で勇介を待った。

「出来た! 馨、来て」

 勢いよくドアが開く。不意の事だったため、馨はそのままドアの前で転んでしまった。

「なんで転んでんの」

「お前のせいだっつの」

 しゃがみこんだままの馨に、勇介が手を伸ばす。ぐいと腕を掴むと、ゆっくりと立ち上がらせた。それから満面の笑みが馨の眼前に迫る。

「曲、出来た!」

「は?」

 なんということだ、馨はびっくりして素っ頓狂な声を上げた。今まで曲なんて作ろうともしなかったのに、何を突然言い出すんだと思ったのと同時に、嬉しさと期待で胸が高鳴った。

「曲、作ったって言ってんの」

 頭の整理が追い付かないうちに、馨は勇介に強引に部屋へ連れ込まれた。

 床には乱雑にコピー用紙が散らばっていた。そこには譜面のようなものがびっしりと書き殴られており、勇介なりに一生懸命書いたのだろう。いっきょくめ! なんて雑なタイトルがつけられたそれは、後にライブの定番曲となった。

「聴いて!」

 そう言ってアコースティックギターを持って、勇介は歌いだす。調子っぱずれの声でもメロディはきらきらとしていて美しく、馨はすぐに引き込まれた。

「どう?」

「ちょっと俺が歌ってみてもいいか」

「もちろん!」

 コードの書き殴られた紙を見、勇介の歌ったメロディを頭の中で反芻し、馨は歌い出す。歌詞なんてまだ決まっていなかったから、でたらめに出て来た言葉を乗せた。勇介はぽかんと口を開けてそれを見ていたが、ハッとして慌ててギターを弾きだした。二人でこうやって音を出している瞬間が、この上なく幸せだった。

 裕太たちのバンドが歌ったのもこの曲だった。その後大幅にアレンジが加えられたものの、この曲はCDに収録された。初めて勇介が作った曲だ。馨はこれまで歌ってきたどんな曲よりも思い入れがあった。

 昔話を中断して、馨はラララと軽くメロディをなぞった。ぎこちなさはまだ残っていたが、確かに馨は歌っていた。裕太は何も言えなかった。

「そんなに驚かなくてもいいだろ」

 照れ臭そうに馨は言って、裕太の頭をぽんと撫でる。そのまま馨は昔話を続けた。

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