第6話 降り止む雨

 「お疲れ。ほんっとよかった」

 打ち上げが終わったあと、裕太は馨の家に行く約束をしていた。馨の家でも打ち上げをしよう、と二人は安物の缶ビールで乾杯をした。出会ってから一年近くが経ち、裕太も二十歳になっていた。ぷは、満足げに馨が息を吐く。

「あそこのギターソロ、カッコよすぎて鳥肌立った」

「ありがとうございます」

 馨はニコニコと裕太をべた褒めする。酒が入っているのと照れくささで裕太は真っ赤だった。それを見て面白がっているのか、畳み掛けるように馨は裕太に褒め言葉を投げる。

「……歌いたくなってきたなぁ」

 そしてぽつりと何の気なしにそう呟いた。裕太は目を丸くして馨を見る。

「ハハッそんなびっくりすることないだろ。なんか今ならいけそうな気がしたんだよ」

「ほんとですか?」

「ほんとほんと。夜じゃなかったらギター弾いて欲しかったなぁ」

 裕太のギターを聞いて、馨が歌いたいと言う。こんなにうれしいことはないだろう。

「どの曲にしようかな」

 笑っているけれど、ぎこちない。緊張している。ひっく、息を吸う音が荒い。馨はわざとらしく笑ったまま裕太に言った。

「やっぱ無理かも」

 今ならいける気したんだけど、何なんだろうなぁ、馨は頭を掻きながら、泣き出しそうな顔をして笑っている。

「……ゆっくりでいいんじゃないですか。今は無理でも、いつかまた歌えるようになるかもしれないし」

 今は、歌おうという気持ちになっただけで十分だろうと裕太は思う。歌わなくていいと言い切った馨がまた歌に向かおうとしたのだ。

 涙が出そうだ。他の誰でもない、裕太のギターで歌いたいと言ってくれたことがたまらなく嬉しかった。じいと馨が裕太の顔を覗きこむ。「なんでお前が泣きそうなの」と笑った。

 曲を作ろうと思った。馨が歌うためだけの曲を。裕太は家に帰るとすぐに紙とペンを取り出し、曲を作り始めた。歌ってくれたら嬉しい。

 


 その日は朝から雨が降っていた。

 閉店間際のレンタルビデオ店はやはり人気が少なく、残り五分となったところで客が誰もいなくなった。裕太はレジの前で一人閉店時間の訪れを待つ。店内BGМの合間で、雨の打ちつける音が聞こえる。

 不意に自動ドアが開いた。ずぶ濡れの喪服の男がすたすたと入ってくる。

 あの日と同じだ、と裕太は思った。それから、もうじき一年経つのだと言うことに気付く。

 男はCDのコーナーへ向かった。それから数枚手に取って、レジの前に置く。

「ずっと、アイツの好きなバンドばっか借りてたけど、それも今日でおわりにするか」

 馨は言った。線香の臭いがする。

「なーに辛気臭い顔してんだよ」

「……あの日からなんですか」

「まあな、馬鹿みたいだろ」

 でももう終わり、馨はカラカラ笑い飛ばすように言った。

「いつまでたってもあいつを引きずるのも癪だし」

 裕太は一つ一つパッケージを見ながらCDを袋へ詰めた。ぽつ、ぽつ、馨の黒い髪から雫が垂れる。

「……ちょっと待っててください。今タオルと傘持ってくるんで」

「いいってそんなの」

「待っててください」

 CDを渡さないまま、裕太は控室へ向かい、タオルと折り畳みの傘を持ち出した。そして強引にCDと一緒に馨へ押し付ける。馨は「あんときと一緒だ」と苦笑しながらもそれを受け取った。

「そんなに濡れてたら風邪引きます」

「別に家そこだし」

「こんな雨で帰ったらまたびしょ濡れですよ」

 強い口調で裕太が言えば、馨がプッと吹き出した。裕太もつられて笑ってしまう。くしゃと子供みたいな顔で馨は笑った。

「もーなんなんだよおまえ」

 困ったような声で言いながらも、どこか楽しそうだ。

「あとで家来る?」

「それなら一緒に行きましょうよ、傘一本しか持ってないし」

「……もしかしてあのときも?」

「あのときもですよ」

 あほか、と馨は言った。あほです、と裕太はすかさず返す。

「ほんと、お前があほでよかった」

 馨は真っ直ぐ裕太の目を見た。その目は確かに裕太を見ていた。

「いつか、いつになるか分かんないけど、ギター、弾いてくれるか?」

 一緒に歌おう、馨は言う。もちろん、裕太は頷いた。

 

 馬鹿みたいに星が綺麗だ。勇介の命を奪ったはずの灰色の雲はどこかに消え、かわりに星が覆っている。あまりにその輝きが美しくて、馨は泣きたくなるどころか、笑ってしまった。どうして今になって晴れるのだ。あれだけ雨を降らしていたのに。遅い、何もかも遅すぎた。

 その輝きすら憎らしかった。二度と見たくないと思うくらいに、眩しかったのだ。

 夜道を二人、並んで歩く。似ている、と思った。かつて見ていたあの横顔に、裕太はとてもよく似ている。

 馨はかつて隣でギターを弾いていた青年の姿を思い浮かべた。どうしても重ねてしまう。裕太は裕太だ。あいつはもうここにはいないと頭では分かっているのに、いい加減やめにしたいのに、やめられない。

 

 ギターを始めたのは高校に入った時だ。テレビで見たロックバンドに憧れ、貯めていた金で一番安いギターを買った。それまでこれといって打ちこむものなど無かった馨にとって、ギターは生まれて初めて没頭したものだった。

 そんな馨の姿を見て、ギターを持ったのが幼馴染の勇介である。隣の家に住む、馨よりも三つ下の、弟のような存在だった。

 中学に入ったばかりの勇介も、馨の持っているギターに心惹かれたのか、真似したくなったのか、うらやましくなったのか、その理由は分からないが、一か月もたたないうちに勇介も馨と同じギターを持っていた。

「だってギター持ってる馨、めっちゃカッコよかったから」

 幸せそうにギターを抱えて、勇介は笑った。勇介はぱあっと目を輝かせて、顔全体を使って笑う。その笑顔が眩しくて、馨にはたまらなく愛おしかった。

 勇介は夢中でギターを弾き続け、どんどん腕を上げていった。すぐに馨よりも上手くなった。それが馨はとても嬉しかった。

 感傷に浸るなんて、みっともない。馨は裕太に悟られないよう、頭を掻いた。

 月は雨雲に隠され、地面は暗闇に濡らされている。あの日によく似ていた。

 光の見えなかったあの日と違って、今の馨の隣には裕太がいた。ぽっかりと浮かぶ灯りのような存在がいる。なんて心強いことだろう。

 忘れてしまうのが怖かった。隣にいたはずの勇介が記憶に変わっていく。あれだけ近くにいたのに、薄れていく。

 

 あれから一年が経った。墓参りを終えて、馨はぼうとどこかを眺めたまま煙をふかしていた。上野は法要を終えた勇介の親族に軽く挨拶を済ませると、ゆっくりと馨の元へ向かった。空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。

 あの日も雨が降っていた。空から殴りかかるような雨は、ドライバーの視界を奪い、ハンドルを滑らせ、一人の命を奪った。あれから一年経った。

「どう?」

「どうって何が」

「あれから一年経つけど」

 ああ、馨が煙を吐きながら眉を寄せる。

「……思ったよりもあっという間だった、一年」

 馨の返事に上野は頷く。

「ギター少年に感謝しないとな」

 年下のギターを弾く青年と仲良くなったのだ、と馨に初めて聞かされた時、上野は心の底から驚いた。なんでまた、そんな気になったのだと問い詰めたくなったが、死んだような目をしていた男が、キラキラと目を輝かせているのだ、それだけで十分だ。

「ベース、弾いてるか?」

 慎重に、恐る恐る馨が尋ねる。ここ一年、バンドについて、歌について、音楽についての一切を遠ざけていたあの薫が上野にそう聞いたのは初めての事であった。

「まあたまにな。たまにサポートで呼ばれて弾きに行くくらいだけど」

 やっぱやめられねぇんだよな、上野は笑って言った。

 新しくバンドを組まないかという誘いはあちこちから来た。上野は断り続けた。馨以外のボーカルと一緒にバンドをやる気にはなれなかった。

「……上野さ、俺がまたバンドやりたいって言ったらベース弾いてくれる?」

 恐る恐る、馨は言った。

 その言葉を待っていた。いつかまた、このボーカルが歌いたいと言う日を、上野はずっと心待ちにしていたのだ。

「よろこんで」

 雨は止んだ。

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