第5話 涙の夜

 ひとしきり泣き終え、やっとのことで裕太は馨の腕の中で顔を上げた。

 入ってきたときは余裕もなくて見られなかった部屋を、ぐるりと見渡す。生活感の溢れる、ごく普通の男の一人暮らしの部屋だ。ただ少し違うのは、五、六本のギターが並んでいるのと音楽関連のものがあちこちに散らばっていることだろうか。

 棚の上に写真が立てられているのに裕太は気づいた。そこにはおそらくかつてのバンドメンバーたちと笑う、裕太の知らない馨の顔があった。この部屋は裕太の知らない馨で溢れている。

「……ギター、持ってるんですね」

「やっすいのばっかだけど」

「あの写真、バンドの人らですか」

「昔の、な」

 馨は隠すつもりはないらしい。

「知ってたんだろ? 俺のやってたバンドのこと」

 続けざまにそう尋ねてくる。裕太は小さく頷いた。

「ライブの日にメンバーに聞いたんです。あの曲をやろうって言ってきたやつに」

 真っ直ぐな瞳が裕太をじいと見つめる。鋭いくせに、優しい。

「知らなかったんです。ずっと曲は聴いてたけど、バンドの、メンバーのことまでは詳しくなくて」

「だろうなぁ。最初会った時そんな感じだったし」

 穏やかな声音で馨は言った。以前バンドについて尋ねた時のような、聞いてくれるなと言った様子は一切感じられなかった。

「あの曲、あいつが作った曲で一番好きなんだ」

 あいつ、あいつというのは亡くなったあのギターの彼のことだろう。愛おしげに、誇らしげに、寂しそうに、馨は言った。

「……馨さんは、もう音楽やらないんですか」

「歌えないんだ」

 馨は笑ってそう言った。

「あいつが死んでから、なんでか歌えなくなった。歌おうとしても全然声が出なくって。なんでか分かんないけど」

 ハハッ、わざとらしい渇いた笑い声。

「もう一生歌えなくたっていいのかも」

 その言葉で馨の中の彼の存在の大きさを思い知らされる。

 映像の中の馨は心の底から声を張り上げて歌っていた。そんな彼がこんなことを言うなんて、裕太は息を飲む。

 裕太は今にも泣きだしそうな馨の滲んだ目を見た。馨は裕太を見ていない。裕太の向こうに彼の姿を見ている。

「俺のことはもういいだろ。お前はお前のことだけ考えればいい。まだライブあるんだろ?」

 裕太は頷く。くしゃ、馨が裕太の金髪を撫でた。これ以上聞いてはいけないとまた距離を置かれる。ぎゅうと馨がふたたび裕太を抱きしめた。

「終わった後のことは終わってから考えたらいい」

 あたたかくて、心地いい。けれど裕太はきゅうと胸が締まるのを感じた。馨の目には今、何が映っているのだろう。考えるのをやめ、裕太は瞼を閉じた。

 どうやらそのまま眠ってしまったらしい。裕太はソファの上で目覚めた。おそらく馨がかけてくれたのだろう毛布のおかげで寒くはなかった。馨はまだベッドの上で身を丸くして眠っている。裕太はポケットからスマートフォンを取り出し、櫻井にメッセージを送る。

「昨日は途中で抜け出してごめんなさい。ラストまで突っ走りましょう」

 今はただ、最後のライブまで駆け抜けることだけ考えていよう。

 

 最後のライブは小さなライブハウスを貸し切って行われた。他のバンドの仲間、友人知人などでライブハウスはほぼ満員だった。

 客席の隅の方で馨が立っている。

 ステージサイドから馨を見つけ、裕太はにこりと微笑みかけた。馨は集中しろと声には出さずに言った。馨の隣で、上野がへらへらと笑って手を振っている。

 開演直前、裕太は気を引き締めて櫻井の方に向き直った。裕太の視線に気づいた櫻井は笑って頷いた。

 これで最後だと、本当に最後だと櫻井は言った。だから最後まで思いきり楽しもう、と叫んだ。ステージに上がる前に、全員で円陣を組んだ。最初で最後だ。

 楽しもう、今は精一杯今を楽しむのだ。裕太はドラムのカウントを聴き、一心不乱にギターを掻き鳴らした。

 櫻井の歌声も、中川のベースも、鈴木のドラムも、今までで一番いい音が鳴っていた。裕太も心の底からいい演奏が出来ている、と思った。

 楽しかった。この四人で音を鳴らしている今が最高に楽しい。他に何も考えられないくらいに、裕太は夢中だった。

 ギターソロを掻き鳴らす。切り裂くような高音が、狭いライブハウス中に鳴り響く。観客が一層熱を帯びる。ちら、と裕太は馨の方を見た。音に身を任せて身体を揺らす馨の姿に裕太は胸を弾ませた。

 ライブはあっという間に終わりへと近づいていった。

 最後の曲です、と櫻井が言うのを信じられない気持ちで裕太は聞いた。一気に寂しさがにこみ上げてくる。

 本当に最後なのだ。この曲で終わりなのだ。裕太は今を噛みしめるように弦を爪弾いた。

 櫻井の歌は、今にも泣き出しそうだった。けれども櫻井は最後まで凛と前を向いて歌い上げる。裕太の好きな顔で、好きな声で、裕太の作った曲の中で、櫻井が一番好きだという曲を歌う。

 最後だ。櫻井が裕太のギターで歌うのもこれが最後なのだ。

 ああやっぱり、この人とバンドが組めてよかった。この人の隣でギターを弾けて良かった。この人が歌ってくれて良かった。裕太は心の底からそう思った。

 観客の割れんばかりの拍手が鳴る。寂しさよりも、感謝の気持ちが勝った。後悔なんて一つもなかった。

 ありがとう、裕太は思い切りお辞儀をする。このメンバーでバンドが組めたこと、最高のライブが出来たこと。何もかもが幸せな思い出だ。

 メンバー全員と肩を組んで笑いあった。櫻井が感極まった表情で裕太を見た。たまらず、裕太は櫻井を正面から抱きしめる。

「今までありがとうございました!」

 いくら言葉を重ねても足りないくらいだ。裕太の勢いに櫻井は苦笑しつつも、涙の滲んだ声でありがとうと言った。

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