止まずの雨

七沢ゆきの@「侯爵令嬢の嫁入り~」発売中

第1話 止まずの雨

 あのころ、俺はアル中で処方薬ジャンキーのラリリで、一日のうちに正気でいる時間が短いくらいだった。親も友人も離れて、残ったのは同棲していた八重という名前の女だけ。


 俺がどれだけ罵っても引かない。殴れば殴り返してくる。


 気が付けば、酒も薬も八重に捨てられていた。

 殺してやりたかったが、いまはそうしなくて良かったと思う。


 酒も薬も減らして、日雇いでなんとか働けるようになったのは八重のおかげだ。

 

 八重だけが、全部なくした俺の手の中に残ったたったひとつのもの。




                    ※※※




「いつまで降るんだろ、これ」


 窓際から空を見ていた八重が、うんざりしたような声を出す。

 ぱたぱたと屋根を叩く雨は、昨日から降り続いている。


「さぁ。空の気が済むまでだろうさ」


 背後のカウチで俺は雑誌を読んでいた。

 八重は肩をすくめながら俺の隣へと座る。


とうやんは意外と暢気だよね」


 俺の名前は十也とうやだ。十人兄弟でもなんでもない長男にこんな名前をつけた両親の心境はいまでもわからない。


「どうにもならないことはそういうものとして受け入れる。そういう主体性のない生き方の方が体にはいいらしいからな

 ……雨は嫌いか?」

「好きじゃない」

「どうして」

「洗濯物が乾かないからコインランドリーに無駄な金を使わなきゃいけない」

「そこで洗濯物の心配が一番に出るのがおまえらしいな。別にタオルの一枚や二枚なくても困らねーから部屋干ししろよ。俺、そういう匂いがどうとか気にしねーし」

「ほんと?」

「いまさらおまえに嘘をつく必要なんかあるか?」


 酒と薬が切れて勘繰りと妄想全開で暴れたところまで見られてるのに?


 そう告げると、八重は「ありがと」と素直に微笑った。

 

 俺はその姿に、それとはわからないくらい目尻を下げる。


 自分より何十センチもでかい男と殴りあえるくせに、このチビの女はどうしてこういうときはたまらなく可愛く見えるんだろう?


「まー、俺は雨も好きだがな」


 それから、大きく伸びをした俺は隣の八重に手を伸ばし、その手をぴしゃりと叩かれた。


 でも、八重のすることなんてとっくに計算済みだ。

 俺は自由なもう片方の手で八重の髪を撫でる。


「懐かしい匂いがする。草の匂い、土の匂い。いろんなことにうんざりしたときには本当にほっとする。それに、静かだ」

「雨が降ると静か?ざーざーうるさいだけじゃないの?」


 髪を撫でる手を引き離そうと、俺と静かな戦いを繰り広げていた八重が、むっとした顔でそう返した。


「川の音みたいだとは思わないか?俺と世界を隔てる川だ。川のこちら側には誰も入って来れない。俺はそこに一人だが、それでいい」


 それから、自分に言い聞かせるように俺は首を横に振る。


「訂正だ。おまえだけはいてほしい」

「私とふたりだけでいいの?」

「いいさ」

「そんな世界は寂しくない?」

「……寂しいな。

 寂しいが、それこそが望みなんじゃないかと思うときもある。変化も進歩も楽しみではあるが、それについていけない者には負担になるだけだ。俺はもう、変化を楽しむのには年をとりすぎた」


 話ながら、俺は視線をじっと八重に注ぐ。

 チビで、ざくざくした無造作なショートカットのどこにでもいそうな平凡な顔の年下の女。


 でも、俺はこいつじゃなきゃ駄目なんだ。


「なんてな。冗談だ」


 俺は腕を八重の肩へと廻した。

 軽い体をぐいと引き寄せて抱き込むと、八重は眉根を寄せて俺を振り払う素振りをしたが、俺の目の中に何かを見たのだろうか、そのままことりと腕の中へ倒れ込んできた。


 そして、冗談なんかじゃないんでしょ?と聞く代わりに、いつものような物言いをしてみせた。


「笑えない冗談。センスがないよ」

「その通り。我ながらつまらない話をした」


 喋りながら、俺の鼻先を八重のうなじへと圧しつける。


「いい匂いだ」

「やめなさい。嗅ぐな。犬か」

「かもな。だがこんなしつけのいい犬いねーぜ」

「自分で言っても信憑性ないよ」


 うなじにじゃれつく俺の歯をいなし、八重が「それより洗濯もの!」と抗議の声を上げる。


「もう少しだけ」

「駄目!脱水が終わったあとそのままにしとくと服がしわだらけになっちゃうの!」


 八重の手がぱちんと俺の頭を叩き、その体はするりと俺の腕の中から抜けていく。



                        ※※※



 それを見送ってから、俺はまた窓から外を仰ぎ見た。


 雨はまだ降っていた。灰色の空から落ちるそれはまるで矢だ。


 今日は馬鹿な事を言ってしまったと思う。


 八重はこの川の内側に―――今だけだとしても―――来てくれた。

 それ以上、なにを望む事がある。


 八重はいつかまた川を渡りどこかへ行ってしまうのかもしれないが、それでもいい。

 俺のこの1人きりの世界に誰かがいたことだけが大事なんだ。


 薬や酒や、緩慢な死でしか埋められないと思っていた欠落がそれで埋められたことが。


 俺は目を閉じる。

 静かな雨、幼いころ聞いた川の音、いっそこのまま、ここに閉じ込められてしまえ。


 雨は、音を立てて降り続く。これが愛というのか、俺は知らない。

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