洗顔どきの深淵

バなナ

洗顔どきの深淵

 たまたま旅行先で来たこの街を、私はたいへん気に入った。

 白い街並みに青い海、空は澄み渡り太陽は輝いている。近くには林があり、穏やかな風も吹いているので、避暑地にももってこいだ。

 どこで切り取っても、私のカンバスを鮮やかに彩ってくれるであろう景色達に、私は一目惚れしてしまった。

 

 『画家にとって旅や引っ越しとは、画材を探す手段の一つでしかない。』と先輩画家も言っていた。まぁ、あの先輩は絵具なんかのほうの意味での画材も探していたようだったな。


 だから、私が貯金をはたいてこの街に住むことにしたのも、すぐれた作品を描くための手段の一つなのだ。

 それにしても、私の少ない貯金で郊外に一軒家が借りれてしまったのには驚いた。確かに、街に浮浪者ふろうじ乞食こじきの姿もしばし見られるが、海の見える家でこの値段という魅力的の前では大したことに思えなかった_。




「自分のことを紹介し続ける夢とは、また不思議な夢を見たものだ」

 引っ越してきてから、不思議な夢を見る機会が多くなった気がする。だが、いちいち夢の内容なんて覚えていないので、そう悩む必要もないだろう。


 起きた後に顔を洗って、私の一日が始まる。

 じゃぶじゃぶ じゃぶじゃぶ と、顔を洗っているときに、『ありとあらゆる光景を目に刻むのも画家の仕事』だとハッとする。

「そうだ! 目を開けよう」

 顔を上げて宣言する。


 ただただ暗いだけか・・・。

 いや。違う!小指と小指の間に空いた隙間から、深みを感じる。

 暗くて深い。まるでそこだけぽっかりと穴が開いているかのようだ。

「ごぶっ!ごほっ。ごはっ!」

 夢中で見ているうちに息が続かなくなって、むせてしまった。



 乞食の子供たちがこっちを見てくるが、無視をして少し街を歩く。

「それにしても、朝のあれは何だったのだろう?」

 呟いてみると、『ぐ~』と腹の虫が返事をしてくれた。

 パンや南国の果物などを絵の題材かつ食料として買い、家に帰る。


 窓から見える景色に、今日買ってきた食べ物たちを添えるだけで、私のカンバスが表情を変える。

「ああ、ここに越して来て良かった」

 朝から晩まで、私の筆が踊るかのように動き続ける。

 今日はこの南国産だという黄色い果物が、青空と海に映えるいい絵が描けた。




 ああ、暗い。自分が上を向いているのか下を向いているのかすらわかりやしない。

 だが、自分の頭のある方向に少しずつ進んでいっていることだけは分かる。暗い方だ。ならば下の方へ進んでいるのだろうか? いや、落ちている? それとも沈んでいる?

  ただただ暗い闇の中へ_。




「ああ、今日もおかしな夢を見た気がする」

 そんな、モヤっとした気分を払うために顔を洗う。


 洗っている途中で、昨日目を開けて視えた光景を思いだし、目を開けて洗い始める。



「まただ、また視える」

 小指の間の隙間の穴を凝視している内に、自分が穴に滑り込んでいくかのような錯覚に陥る。

 穴の中は、まるでどこかに繋がっているかのように、広大だった。目を凝らしてもただただ闇が広がるばかりなのだが、何故かここがとてつもなく大きい空間であると感じた。


「アレだ!」

 私は思わず叫んでしまった。少し遠くに、とてつもなく巨大な影が見える。まるで山のような大きさだ。



 目を見開いた所で、息が続かなくなり、顔を上げる。

「はぁはぁ、あれは一体? 」

 そう言ったとき、『ドクンッ! ドクンッ!! 』と自分の中で創作意欲が湧き上がって来るのを感じた。



「ああ! 今日は赤がいい。 …リンゴなどはどうだろうか? 」

 自分で買いに行く時間も惜しくなり、近所にいた乞食の少女に幾ばくかの金を握らせて、買わせることにした。



 「今日の私は素晴らしいぞぉ! はぁはぁ、昨日の果物などとは比にならんほどだぁ! やはり赤が良かったのだろうか!? 」

 興奮気味にしゃべりながら、一心不乱に筆を振るう。

 



 昨日よりも深く沈み込んでいく感覚がある。体を動かそうにも、まわりの闇が泥のように身体に絡みついて、うまく動かせない。

 とてつもなく大きな影に、少しずつ近づいて行っている気がする_。




 「ぷはぁっ! はぁはぁっ」

 とんでもない悪夢でもを見たようで、全身に嫌な汗をびっしょりとかいて目が覚めた。

 楽しく描いている内に、どうやら寝てしまったようだ。

「まだ夜更けのようだが、風呂にでも入ってサッパリしなければ二度寝も出来ないな」


 風呂に入ったついでに顔を洗う。これ以上視続けてはいけないと、警鐘けいしょうが鳴っているのが聞こえるが、無視して目を見開く。



 今まで以上にねっとり、じっくりと闇の中に身体が沈んでいく。

 …そうしていく内に、遠くに鈍い光を見た。決して光り輝いている訳ではないが、闇の中でぼうっと存在感を放っている。

アカだ! 素晴らしいアカだ!」

 それは今までに見たことの無いほどの紅だった。まさに深紅。いや、真紅か?

 クソッ、息が苦しくなって来やがった。まだ、私はこのアカに魅入ってたいのに!



「げほっ、げほっ。げほっ。アカだ! アカだ、アカだ、アカだ」 

 いても立ってもいられず外に出てみると存外明るくなって来ていた。

 近所にいた乞食の少女は、まだスヤスヤと寝息を立てていた。私は、その子を叩き起こすと、多めの金を握らせて、アカいモノを買えるだけ買ってくるように言った。

 


 それなりに金を渡したので、帰ってきたのは正午頃だった。

 「アカい。アカいが、これじゃない! 」モノを見て少し描いてはやめ、また新しいものを描く。

 全てを試し終えた頃には、夜中になっていた。筆を振るい続けたことによる疲労感からか、私は倒れるように眠りについた。




「あぁ、アカい! 美しぃ! 」私はひたすら叫び続けながら、沈んでいく。

 ある程度、巨大な影まで近づいた時に、光が2つあることに気がついた。

 そして、アカと目があった。

「行かねばならぬ」

 ……気がつけば、身体が動いていた。このタールの海のような闇を、き分けて進むのは困難だったが、『どうしてもあの光の下に行かなければいけない』と思った。

 あそこにこそ画家の求める全てがある! いや、芸術家の求める全てがある!


 「うぉぉぉおおおお! もう少し、まだ起きてはならぬ! もう少し、もう少し近くにっ!」

 そろそろ目覚めの時が近づいているのを感じる。

 「神よ! どうか、もう少しだけ。もう少しだけ私に_!」




 「がはぁっ! はぁはぁ」

 目が覚めても夢で見た光景がまぶたの裏側にこびりついている。

 「今なら、あのアカを描ける! 感謝します。我が神よ! 」


 目覚めたのが正午前だったようで、今日は乞食の少女を叩き起こす必要が無かった。

 全財産を握らせて、絵の具を買いに行かせた。

「今なら先輩の気持ちもわかる気がする。やはり、いい絵にはいい画材道具と被写体が必要なのだ」


 少女が買い物に行かせた後、目に付いた絵を投げ飛ばし、破いていく。

「何だコレは! 何が黄色だ! 赤だ! 白だ! 青だ! 」こんなものは、あのアカの前ではゴミみたいなものだ。

  


 少女が大量の絵の具を抱えて帰ってくる。

 どの色も、やはりあのアカには到底及ばない。

「クソッ! ゴミみたいな色しやがって! 折角のイメージが台無しになっちまう! 」

 もう一度寝よう。もう一度イメージを叩き込むんだ。




 …_。




 「アカだ! なんだこの食器は! クソォッ!! 床もカーテンも全部紅アカじゃないとダメだァ! 」

 ひたすら日が暮れるまで絵の具をぶちかまし続ける。

 「クソがぁぁあ! 絵の具が無くなっちまったじゃねえか! 何だこの壁は、まだ全然白いじゃないか!? 」


 私は家中を探すも、いい絵の具は見つから無かった。しかし、運良く外に落ちていた絵の具を見つける。

 絵の具を壁に叩きつけると、壁にアカい花が咲いた。

 「これかァ! これだァ! コレはアカィ! アカいぞォ!」

 絵の具が飛び散り私もアカく染める。

 「フヒ、フヒヒヒヒヒ! アカだ! アカだ! アカだッ! 」

 私は歓喜の末に、気を失うように眠りについた。




 日が昇り、茶色くなった部屋の中で、目が真っ赤になった男が満足そうに惚けていた。



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