釣った魚に餌はやらない
烏川 ハル
釣った魚に餌はやらない
「釣った魚に餌はやらない、という言葉があるけど……」
「……ハタロウくん、何? また魚釣りの話?」
目の前のヨウコが、右手でつまんでいたストローから口を離し、俺に視線を向けた。
ここは、大通りから少し入ったところにある、小洒落たレストラン。スパゲッティとケーキが美味しい、という評判のお店。
俺たち二人は、その店のテラス席で、ドリンク付きのケーキセットを楽しんでいた。
まだ夕方と呼ぶには少し早い時間帯で、空は十分に青い。店内の照明とは異なる、明るい外の日差しに照らされて、ヨウコは……。
少しだけ不思議そうに、小首を傾げている。こういう仕草も可愛らしい、と思うのは、やはりヨウコが俺の恋人だからだろうか。
――――――――――――
彼女の方は、毒性生物が産出する毒物の研究、いわゆる
彼女の研究対象は毒という化学物質だから生物そのものではないし、俺のウイルスだって微生物と呼ばれるが、学問的な定義では『生物』とは見做されていない。それでも、二人とも一応は『分子生物学者』ということになるのだろう。
要するに、どちらも理系の研究者だ。
世間では理系の学者というと、実験室に閉じこもっている、インドアの
俺やヨウコのように、確かに研究は好きだけれど、休日には山や湖を散策するのが大好きな、アウトドア人間だって結構いるのだ。
また、世間では理系の女というと、化粧もしない地味な女というイメージかもしれないが……。うん、こちらは、かなり正解なんじゃないかな、と俺は思っている。
俺が初めてヨウコを見かけたのは、職場の廊下ですれ違った時だったと思う。
見るからにプニプニな感じのほっぺたをした、小柄な女性。それが白衣を着て、試験管を持ちながら歩いている。
「なんだか可愛らしいな」
心の中だけで呟きながら、思わず笑顔ですれ違うと……。
良い香りがした。
もちろん、化粧や香水によるものではない。自然な、若い女性の髪の匂いだった。
俺は中学・高校が男子校で、女性と接する機会がなく、大学には普通に女子もいたが、いわゆる「いい大学」だったせいか、化粧に気を使う女子は少なかった。そして、そこから理系の専門職に進んだので……。
人並みに化粧をする女性が周りに少ない、という環境で生きてきたことになる。
そのせいか、普通の化粧でも俺は「ケバケバしい」と感じてしまい、それだけで近寄りがたいと思ってしまう。自然と、ノーメイクの女子とばかり、交際するようになってしまった。
ノーメイク・フェチだ。
だが、女性経験のなかった頃はわからなかったが、いざ誰かと付き合ってみると「男がノーメイクの女を好むのは、フェチズムでも何でもなく、ごくごく当然のことなのではないか」と思えるようになってきた。
だって、そうだろう? 恋人同士になったら、頬と頬が触れ合ったり、唇と唇でキスしたりすることも、日常茶飯事。そんな時に化粧品でベタベタしたり、口紅の味がしたりしたら、嫌なものなのでは?
まあ、そういう女性と付き合わない俺には、想像の範疇でしかないのだが……。
ともかく。
そんなノーメイク・フェチの俺なので。
ノーメイクで可愛らしく、心地よい香りを身にまとっていたヨウコは、一目見た時から、俺の中で好印象を残したのだった。
そんな第一印象から数日後。
「すいません。こちらに、
ヨウコが、俺の所属するラボを訪れた。
解析装置を使わせてもらいたい、という用件だ。
理系の――特に実験系の――研究に疎い人にはわかりにくい感覚かもしれないが、俺たちが使う研究機械は、とても高価なものばかり。ラボの研究費の大半は試薬や器具などの消耗品に充てられるので、大型の実験装置は、なかなか購入できない。
特に、同じ建物内の別のラボが所有している装置ならば、そちらに借りに行く、というのが普通だ。だから、最初にヨウコを見かけた時のように、俺たちは研究サンプル片手に白衣姿で廊下をウロウロすることになるし、他の部屋に出入りするうちに、そちらの人々と顔見知りになるのも、よくあることだった。
この日のヨウコも、そんな感じで……。
「どうぞ、どうぞ。BASなら、これだけど……。使い方、わかる?」
ちょうど彼女の使いたい装置は、俺のデスクの近くにあったので――しかもたまたま俺は手が空いていたので――、俺が対応する形になった。
「ああ、はい。一応、マニュアルのコピーは読んできましたが……。でも、実際に使ってみると、わからないことも出てくるかも。その場合、誰に聞いたら良いでしょう?」
「それなら、俺が教えるよ。BASなら俺も何度か使ってるし、俺の実験は、一時間の吸着反応中だから……。そうだな、あと三十分は暇がある」
そう言って、俺がニッと笑うと。
彼女も、顔を明るくした。
「ああ、ありがとうございます! まず最初は……」
「スイッチは、ここ。システムを立ち上げて……」
これが、二人の初めての会話だったので。
彼女の方でも俺に対する第一印象は、それほど悪くなかったのではないか、と俺は思う。
それから一週間もしないうちに。
お昼休み、購買部の前にある食堂スペースで、自分で作ってきた弁当を俺が食べていた時。
「ここ、空いてます?」
「ええ、どうぞ」
反射的に返しながら顔を上げると、目の前にヨウコが立っていた。
彼女は、別に俺と食事をしたかったわけではない。ただ単に空席を見つけて、相席の許可を求めてきただけだが、
「あら!」
俺の顔を見て、
「ああ、先日はどうも」
ぺこりと頭を下げるので、普通に世間話として、その話題になった。
食事をしながら、仕事の話。二人とも、いかにも、研究者である。
「どういたしまして。それで、あの時の解析結果は、どうだった? 100%の期待通り?」
「うーん、どうでしょう……。80%ってところですかね」
「なるほど。『脚なんて飾りです』レベルだね」
「は?」
しまった。これは、女の子には通じない表現だった。
俺は慌てて、前言を打ち消す勢いで、言葉を続けた。
「いや、ほら。研究ってさ、いつも100%予測通りの結果が出たら、実験が単純作業になってしまうだろう? 最初に立てた計画に従うだけの、ルーチンワーク。それじゃあ研究者じゃなくて技術者で十分だから、なんだか面白くない」
「ああ、わかります! でも予測と正反対だと、それはそれで、研究方針自体が崩壊して困るから……。『だいたい合っていて、少しだけ違う』くらいが良いんですよねえ」
「そうそう。80%くらいが、結果を見るたびに考察する余地が出来て、ちょうどいい。その意味では、君の解析結果も、ベストだったと言えるんじゃないかな?」
「ああ、ありがとうございます。確かに、これで何とか一つの研究論文として、まとまりそうですし……。残り20%のおかげで『考察』として書くことも捗りそうですし、新しい研究プランも立てられそうです」
「おお、それは万々歳だね!」
ちなみに、彼女の昼食も、購買部で買った既製品ではなく、彼女自身の手作り弁当だった。
最初の日は普通に――研究者として――言葉を交わしただけだが、何度か一緒に同じ場所で食事をするうちに、少しずつ、距離が縮まっていった。
弁当のおかずを交換したり。
プライベートな趣味の話をしたり。
特に、二人とも「運動神経は良くないが、体を動かすことは好き。自然の中を散歩するのは好き」とわかった時点で……。
「じゃあ、今度、一緒にどこか出かけようか? 車で一時間程度のところにある自然公園に、澄んだ水の、美しい湖があるらしく……」
「ああ、いいですね! そういうの、私も好きです!」
そんな感じで、職場の外で会う約束も取り付けたのだった。
それから俺とヨウコは、毎週末のように、二人で出かける関係になった。
素敵な池や湖を有する、自然公園とか。
ハイキングコースのある、丘とも呼べる程度の小山とか。
車で一時間か一時間半くらいの範囲内で、結構、楽しめる場所があった。
ちょっとしたドライブデートだ。ただし、別に恋人というわけではなく、あくまでも『友人』なので、デート気分なのは俺だけだったかもしれないが。
特に俺は魚釣りが趣味なので、自分一人だったら、水辺を散策する方に偏りがちだったが……。
ヨウコと二人なら、緑の森の中を歩くのも、とても心地よかった。
こういう新しい楽しみ方を発見できるというのも、そういうパートナーが出来たおかげだ。
そう思えば、思うほど。
どんどん自分がヨウコに心惹かれていくのを、俺は、はっきりと自覚していた。
ある時。
いつものように湖畔を散歩していたところで、ちょっとした段差のある場所に差し掛かった。
大げさな言い方をすれば、小さな崖だろうか。
俺の身長から見れば、たいした段差ではない。でも、女性としても小柄なヨウコにとっては、ちょっと登りにくいかもしれない。
そう考えた俺は、先に上がって、上から手を差し伸べた。
「危ないから、つかまって。引っ張り上げるようにするから」
「ああ、ありがとう」
ヨウコは頷いて、俺の手を握る。
ああ、
俺の心の中に、幸せが広がる。それこそ、いつまでも彼女の手を離したくない、というくらいに。
しかし、その瞬間。
「……でも、大丈夫。これくらい、一人で……」
ヨウコは、パッと手を離してしまった。
この時、俺は悟った。
きっとヨウコは、異性との肉体的接触を嫌がったのだな、と。
今までヨウコは、俺を『男性』としては意識しておらず「気の合う友人」として捉えてきたのに……。触れたことで、今初めて、異性として認識してしまったのだろう、と。
そう意識した上で、俺の手を拒絶したということは。
「これは、脈ナシだな。残念ながら」
俺は、心の中だけで、そう呟いた。
その日の帰りの車の中。
ヨウコは、ポツリポツリと語り始めた。今まで話そうとはしなかった、彼女自身の『恋バナ』を。
つまり。
遠距離恋愛中の彼氏がいる、ということ。
でも最近は、ほとんど連絡を取り合っていない、ということ。
「これって……。自然消滅ってことなのかなあ?」
そう呟く彼女を、チラッとだけ横目で見てから。
運転中の俺は、視線を前方に戻して、言葉だけを彼女に投げかける。
「その彼氏さんのこと……。今でも、まだ好き?」
「うーん……」
少し困っているような声が、耳に入ってくる。
「正直、もうわからないなあ。物理的な距離だけじゃなく、時間的にも離れたら、なんだか自信なくなっちゃって。最初は、あんなに好きだったんだけど……。それだけは確実だけど……」
「ヨウコちゃんが、自分の恋心に自信ない、って言うなら……」
俺は、しっかりとハンドルを握ったまま、できる限り優しい声で告げる。
「……そんな状態で付き合い続けるのは、相手に対しても失礼なんじゃないかな? なまじ『恋人』という言葉で、互いを無理にキープしているようにも聞こえる。……いや、しょせん、無責任な第三者の意見だけどね」
実際には『無責任な第三者』というより、俺の打算的な「早く別れてフリーになってくれ」という願望コミコミの意見なわけだが。
「それは……。いっそ別れた方がいい、ってことですか?」
「まあ、そういうことになるかな。月並みな表現で言うと」
「でも……。久しぶりに連絡して? こちらから別れを切り出す? それはそれで、相手に悪い気が……」
「大丈夫、大丈夫。きっと向こうだって、はっきりして欲しいんじゃないかな?」
安全運転を続けながら、頑張って会話の方向性を誘導する。
彼女は、俺の意見を受け入れたようで、
「うーん……。河田さんが、そう言うなら……。男性心理って、そんな感じなのかな」
「そうだね。少なくとも、俺が彼氏さんの立場なら、そう思うよ」
そして。
一週間後、緑の木々に囲まれたハイキングコースを歩いている途中。
立ち止まって、大きく深呼吸してから。
ヨウコは、吹っ切れたような笑顔で、宣言した。
「ご報告です。私、彼氏と別れました」
それは、まさに俺が聞きたかった言葉だった。
しかし、こういう時。
俺は、何て返したらいいのか、わからない。どんな顔をしたらいいのか、わからない。
とりあえず。
思いついた言葉を、口にしてみた。
「それはそれは……。ヨウコちゃんの笑顔を見てると『おめでとう』って言いたくなるけど、でも……。一般的に、失恋は悲しい話だから『ご愁傷様』なのかな?」
すると、彼女は苦笑する。
「いやいや、河田さん。失恋に対する『ご愁傷様』は、『ご愁傷様』の間違った使い方の、典型的な例ですよ。それに、別に私、今そこまで悲しくありませんし……」
「ああ、そうだよね。ヨウコちゃんくらい魅力的な女性ならば、いくらでも新しい彼氏が出来そうだもんなあ」
「河田さん、それは言い過ぎです。そんなに私がモテモテなら、こんなに毎週毎週、河田さんとだけ遊んだりしてませんよ」
朗らかなヨウコを見れば、彼女が失恋の痛手など感じていないのは明白だった。強がっている感じでもない。やはり、その男に対する彼女の恋心は、とっくの昔に消え去っていたのだろう。
ふと。
今ここで言うつもりもなかった言葉が、俺の口から飛び出してしまう。
「林ヨウコさん。ならば、この俺、河田ハタロウと……」
突然あらたまった口調の俺に対して、少し怪訝な表情を浮かべるヨウコ。
それでも彼女は「何を言うのだろう」と、俺の次の言葉に興味津々というようにも見えた。
「……付き合ってくれませんか? 友人としてではなく、恋人として」
彼女は一瞬びっくりした顔になり、続いて「やれやれ」という口調で。
「河田さん……。そういうこと、このタイミングで言いますか? もう少し、女心というものを考えて欲しかったなあ。いくら何でも、彼氏と別れたばかりの私に対して……。それじゃあ、まるで『待ってました』って感じですよ?」
うむ。
そう言われると、返す言葉もない。
俺が黙ってしまうと、彼女は、口元に苦笑いを浮かべながら……。
「まあ、でも……。河田さんの気持ち、なんとなく、そんな気はしていましたし……。わかった上で、こうして二人で遊ぶということは、おそらく私も河田さんを受け入れている、ってことでしょうから……。はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
ヨウコは首を縦に振ってから、わざとらしく俺の隣に身を寄せて、ギュッと手を握るのだった。
それが、今から八ヶ月前の出来事だ。
ヨウコと付き合う前まで、誰と付き合っても、いつも三ヶ月くらいでフラれる俺だったが……。
彼女とは、こうして半年以上も続いている。
きっと、ようやく俺も運命の相手と巡り合えた、ということなのだろう。
最近は、互いの研究が忙しくて、その上、学会発表のシーズンとも重なったから、週末のドライブデートどころの話じゃなかった。一ヶ月くらいプライベートで会う機会はなく、職場の廊下ですれ違うだけだったが……。
今日は、久々のデートを楽しんでいるわけだ。
自然公園をたっぷりと歩いた後の、心地よい疲労感のまま。
小洒落たレストランの、開放的なテラス席で。
たわいないおしゃべりを楽しむ二人……。
――――――――――――
「……ハタロウくん、何? また魚釣りの話?」
「いや違う、違う。現実の釣りの話じゃなくて、一種の例え話。ことわざか格言か知らないけど、そんな言葉、あるだろう?」
少しの時間ヨウコに見とれていた俺は、頭を切り替えて、彼女の誤解を訂正した。
軽いアウトドア趣味が共通する俺たちだが、もちろん、細かい部分では違いもある。
例えば、俺は魚釣りが好きだが、ヨウコは嫌いらしい。一度、一緒に行ったら「お魚さん、かわいそう」という顔をされたので、以後、二度と彼女を釣りには連れていかないことにしている。
「ああ、男女の恋愛駆け引きみたいな話ね。そういえば、聞いたことあるかも」
ヨウコは「それが何か?」という口調なので、俺は話を続ける。
「そう、それそれ。そういう話では『釣った魚に餌はやらない』を、いかにも悪いことのような方向性で扱ってるけど……。実際、釣ってきて水槽で飼い始めた魚には、餌をやり過ぎると良くないんだよ」
「ああ、やっぱり、現実の魚の話ね」
……ん? 言われてみると、まあ、そういうことになるのかな?
別に、特に意味はない、とりとめもない話題だったのだが……。せっかくだから、最後まで言い切ろう。
「そうそう、ごめん、やっぱり、現実の魚のこと。ともかく、水槽に餌を入れ過ぎると、食べ残した餌が腐ったり……。あと、たくさん食べれば
「ハタロウくん……。今、私たち、おしゃれなカフェレストランで、ケーキ食べてるのよ? 排泄物の話題は、ちょっと……」
咎めるような視線のヨウコ。
職場の昼休みのランチでは、食べながら平気で、えげつない動物実験の話もする俺たちだが……。時と場所を考えろ、ということなのだろう。
「ごめん……」
まるでイタズラが見つかった子供のように、背中を丸めて、小さく謝る。
そんな俺を見て、
「そういうところは、変わらないのよねえ」
ヨウコは、ひとつ、ため息をついてから。
「ねえ、ハタロウくん。私たち、そろそろ終わりにしましょう」
「……は?」
突然、何を言い出すのか。
俺が戸惑っていると、
「恋人から友人に戻りましょう、ってこと。つまり、別れましょう、ってこと」
ヨウコは、間違えようのない表現で、言い直した。
「……なんで?」
絞り出すような俺の声に対して。
ヨウコは、努めて明るく返す。
「ごめんなさい。他に好きな人が出来ちゃったの。てへっ」
まるで「失敗しちゃった!」と言わんばかりに、小さくペロッと、舌を出すヨウコ。
もう恋人同士ではなくなった、この瞬間も……。
そんな彼女を見て、俺は「可愛らしい」と思ってしまうのだった。
(「釣った魚に餌はやらない」完)
釣った魚に餌はやらない 烏川 ハル @haru_karasugawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
カクヨムを使い始めて思うこと ――六年目の手習い――/烏川 ハル
★209 エッセイ・ノンフィクション 連載中 298話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます