代瀬トオルは引き寄せる

長埜

白い腕の女子高生

 代瀬しろせトオルは温和な細い目を瞬かせ、若白髪の混じる猫っ毛を困ったようにかいていた。


 目の前には、幼い女の子と、その母親。女の子は、動かなくなった犬のおもちゃを胸に抱いている。


「……一ヶ月前にこちらのホームセンターで買ったばかりなのですが、もう故障してしまって」


 母親は、申し訳なさそうに彼に言う。対するトオルも、うんうんと頷いて返す。


「だけどこの子、絶対にこの犬がいいんだって、聞かなくて……。代瀬さんにお願いするのもどうかと思ったのですが、直してもらえないでしょうか」

「えーと……直してあげたいのは山々なのですが、うちはホームセンターなんですよね。品物を売るのが仕事で、直すのは専門じゃなくて……」

「そこをなんとか……メーカーに問い合わせていただくことってできますか?」

「それがですね、ここのメーカーは修理の受け付けを一切しておらず……」

「みみちゃん、治らないの?」


 大人の会話に、幼く甲高い声が混ざる。その声に、トオルは細い目を更に細めて後ずさった。……弱いのである。特に、こういう子供が相手では。

 女の子は母親のスカートの裾を引っ張り、あどけなく見上げた。


「ねぇお母さん、みみちゃん、治らないの?」

「ちょっと待っててね。お母さん、おじさんに聞いてみてるから」

「……おじさん、お医者さん?」

「うぇ?えー……あー……」


 まっすぐに見つめられたトオルはしばし目を泳がせるも、やがて女の子の熱視線に負けてうなだれた。


「……そうです……」

「ほんと!?やったぁ!みみちゃん、治るって!良かったねー!」


 女の子は飛び跳ね、壊れた犬のおもちゃを抱き締める。

 ……ああ、またやってしまった。

 トオルは数分後に怒られるであろう自分を想像しながら、レジ奥に引っ込んでいる店員の名を呼んだ。


「ごめん、佐一さん。依頼です」


 しばらく、何の物音もしなかった。その間ハラハラしていたトオルだったが、ようやくガタリと椅子が引かれる音がし、ホッと胸を撫で下ろす。

 そして、レジ奥の暗がりから、肩まで伸びたサラサラの黒髪を一つに縛った猫背の男性が、するりと姿を現した。


 佐一と呼ばれた男はトオルの影に隠れるようにその後ろに立つと、ボソボソと彼に何事かを呟く。トオルは何度か佐一に謝った後、状況を説明した。

 事態を飲み込んだ佐一は、眼鏡の向こうにある気怠げな目でジッと女の子を見下ろす。女の子は身の危険を感じたのか、サッと母親のスカートの裏に逃げた。


「大丈夫ですよ、この照れ屋のお兄さんは、お医者さんなんです」


 トオルは、優しい声で女の子に笑いかけた。その言葉に、女の子は恐る恐る姿を見せる。

 佐一はというと、やはりトオルの影に隠れ、ボソボソと何か言っていた。


「……えーと、みみちゃんは、一時間ほど入院が必要なようです。一度僕に預けて、ちょっと遊んで、また迎えに来てあげてください」

「……」

「え、なんです?佐一さん。……はいはい、治療代は、二千円です。お母さん、構いませんか?」

「わかりました。では、また一時間後にお邪魔します。すいません、代瀬さん……無理を言って」

「いえ。では、お預かりしますね」

「お医者さん、みみちゃんをよろしくね!絶対元気にしてね!」


 女の子はトオルにおもちゃを預けると、力一杯手を振りながら母親に手を引かれて行った。トオルは彼女らの姿が見えなくなるまで笑顔で手を振っていたが、高まっていく背後の怒気に、次第に顔がこわばっていった。


「……佐一さん」

「何」

「……怒ってますか」

「見てもらえればわかるけど」


 見られないんだなぁ。何故なら怖いから。

 それでも、トオルは勇気を出して振り返った。


 途端に、不機嫌そうに一文字に結ばれた口元の彼と目が合う。

 やっぱり、とても怒っていた。


「今日は忙しいと言ったはずだけどな。俺の意見は無視ですかハイそうですか」

「そうじゃないんですよ、佐一さん。だって相手はあんな小さい子ですよ?断るなんて、可哀想じゃないですか」

「忙しい上に仕事増やされた俺は可哀想じゃないと?」

「本当すいません……」

「トオルが修理できるなら話は別だけど、そういうメカニックな事できんの俺だけだろ。しかも人間の前に引っ張り出して……あー、怖かった。嫌だった。体が痒い。風呂入りたい」

「佐一さんの人見知りも、修理で治ればいいんですけどねぇ」

「ドリルで額に穴空けてかき混ぜてあげようか?そうしたら、トオルも手先が器用になるかも」

「なんで僕が治される側になってるんです?」


 恐ろしい提案をした所でひとまず気は済んだのか、佐一は手にしたドライバーでおもちゃのカバーを外し始めた。剥き出しになる配線や骨格に、トオルは人間のソレを連想してしまって、そっと目をそらす。

 佐一は、クルクルとおもちゃをひっくり返しながら、故障箇所を見極めていた。


「……線が焼き切れてる。動いてるのを無理に押さえ付けてたとか、そんなかな」

「ああ、じゃあ返す時に注意してあげないと」

「うん。じゃないとまた死ぬし、金もかかるって伝えといて」

「そんなショッキングなこと、あんな小さな子に言えないでしょう。言葉は選んでくださいよ」

「言葉を選ぶのはトオルの仕事。俺は直すだけ」


 そう言い残すと、佐一は奥に引っ込んで作業に取り掛かり始める。トオルはそんな彼を黙って見送り、またレジに立った。


 ここは、ホームセンターしろせ。代瀬トオルは、親の代から経営されるこのホームセンターの二代目店長である。

 二十九歳だが、温和な細い目と猫っ毛に混じる若白髪が、実際の年齢よりもう少し年上に見せている。丁寧でのんびりとした性格であるが、たった一つの欠点が、彼の人生を波乱万丈なものにしてきた。


 何を隠そうこの男、とにかく押しに弱いのである。


 どうにか借金まではしていないものの、騙され巻き上げられてきた金額は、計算するのも躊躇われるほどだ。

 この歳にしてバツ2なのも、彼の押しの弱さを如実に表している。

 その上トオルは、子供やお年寄り、果ては動物にまで無条件で好かれる妙な体質であった。彼に引き寄せられるように集まった人達のトラブルに巻き込まれたことも、一度や二度では無い。


 ――思えば、もう五年にもなるんだなぁ。


 トオルは、佐一の後ろ姿をのんびりと見守りながら、彼との出会いを思い返す。


 今なお続く由良佐一ゆらさいちとの縁は、トオルが五年前に一人の女性と付き合っていたことに端を発する。かなり年上の人だとは思っていたが、まさか自分より二歳年下なだけの息子がいるとは驚きだった。間も無く、その女性とは別れたが、トオルは何となくその根暗な男を放り出すことができず、そのままホームセンターで住み込みで働いてもらうことになったのである。


 最低限のコミュニケーションすら取る事が苦手な佐一は、卓越した技術者だった。先ほどのように故障品を手早く直したり、怪しげな品々を開発し独自のルートで高額で売買しては、吹けば飛ぶようなホームセンターを裏から支えてくれている。正直なところ、今となってはトオルはもう彼に頭が上がらなかった。


 そういうわけで、接客や仕入れ等はトオル、技術面は佐一と、五年間の中でできあがった役割分担を駆使して、二人は毎日をやり繰りしているのであった。


「佐一さん、そのおもちゃの修理が終わったら、休憩を取ってくださいね」

「俺仕事いっぱいあるんだけどな。まあ俺ごときができる仕事なら、トオルにも簡単にできちゃうか」

「できませんよ。なんなら僕は、直すより壊す方が得意です」

「そういやテレビのリモコンも壊れてたな。いつも思うけど、ああいうのってどうやったら壊れんの?体から特殊な電波でも出てんの?」

「直してくれてありがとうございます」

「お礼はいいから、生活用品壊すのやめてくれねぇかな」


 嫌味を言うだけ言って、佐一は大人しくなる。おもちゃの修理に没頭し始めただろう彼に、後でほうじ茶でも入れてやろうとトオルは考えていた。あと二十分で十二時になるので、せめてそれまでは店内の商品を整理しようとレジから離れようとしたが……。


 自動ドアの開く音と共に、軽やかな入店音が鳴った。顔を向けると、一人の女子高生がそこに立っていた。

 制服を見る限り、隣町のお嬢様学校の子だろうか。しばしぼうっと考えていたトオルは、慌てて「いらっしゃいませ」と声をかけた。


「すいません、ここって、鞄は置いてありますか?」


 店内を見て回ることもせず、まっすぐにトオルの元へ来た彼女は尋ねる。


「えーと……ちょっとしたリュックサックや、ショッピングカートなんかはありますよ。見てみます?」

「そうじゃなくて、これぐらいのボストンバッグなんですが」


 彼女は色の白い両手を動かし、胸の前で大きさを形作ってみせた。それを確認したトオルは、残念そうに首を横に振る。


「すいません、ボストンバッグは置いてないんです。ここを出て、すぐ左に曲がった大通り沿いにあるショッピングセンターの中に、確か鞄屋さんが入ってたと……」

「私、バッグを無くしちゃったんです。だから、困ってて」


 言葉を遮るように、彼女は強い口調で言った。それに気圧され、押しに弱い糸目の男はつい話を合わせてしまう。


「……それは災難でしたね」

「はい。でも私、そのバッグをとても気に入ってたんです」

「そうなんですか。警察には行きました?案外落し物として届いているかもしれませんよ」


 女子高生は何も言わない。トオルは首を傾げ、聞き直す。


「警察には無かったんですか?」

「届いていませんでした。だから、まだあの廃屋にあるんだと思います」

「廃屋?」

「ええ。私、心霊スポット巡りが趣味なんですが……」


 要約するとこうだ。その日、いつも通りインターネットで怪しげな情報を手に入れた彼女は、深夜に家を抜け出してその廃屋を訪れた。しかしそこで出会った幽霊に驚いてしまい、その拍子に持ってきていたバッグを投げ出して、帰ってきてしまったという。


「幽霊ですか」


 ただならぬ単語に、背筋が寒くなる。あまり、こういう話は得意ではないのだ。

 体を後ろに反らすトオルを追うように、彼女はぐいと寄ってきた。


「私、見たんです。ぬぼーっとした、真っ白い、背の高い幽霊」

「や、やめてくださいよ。想像するじゃないですか」

「私、もう怖くてたまらなくて。バッグは取り返したいんですが、とてもあの場所に行けそうにないんです。お願いです、店長さん。どうか、私の代わりに取りに行ってくれませんか」

「なんで僕が?」

「……他に、頼れる人がいないんです。勝手に家を抜け出して、その上バッグまで失くして……。自業自得なんですが、両親に申し訳なくて」


 急に、女子高生はシュンとしてしまった。いよいよこうなると、トオルにとっては都合の悪い展開になってくる。


「図々しいことをお願いしているのは百も承知です。どうか、バッグを取ってきてもらえませんか。ちゃんとお礼はしますから」

「だから、どうして僕がしなくちゃ」

「お願いします!これ、あの廃屋の住所です!明日また来ますから!どうか、お願いします!」


 強引に紙切れをトオルの手に押し付けると、女子高生は走って逃げて行った。後に残されたトオルは、途方にくれて呆然とするばかりである。


「……うるさいなぁ。さっきから何ピーピー言ってんだ」


 レジ奥から、猫背の男が顔を出した。その声に現実に引き戻されたトオルは、慌てて頭を下げる。


「すいません、邪魔をしましたか」

「うん。そんで、どしたの」

「……カバンの落し物をした女子高生が来てました」

「うちはいつから交番になったんだ?」


 開くことすら億劫そうな目が、メガネの向こうで光る。ああ、これはまた怒られるのだろうなとトオルは直感した。

 しかし白状しないわけにはいかない。目を逸らしながら、他人事のように言う。


「その女の子、落とした鞄を自分の代わりに取りに行ってくれなんて言うんですよ」

「……なんで?」

「さぁ」

「バカらしい。当然断ったろ」

「……」

「受けたのかよ。バカじゃねぇの」

「あんまり年上をバカバカ言うんじゃありません!」

「バカなんだからしょうがねぇだろ。そんで、どうすんの」

「そりゃもう、行くしかないでしょう」


 こうなりゃ開き直るしかない。そうだ、これだって宣伝活動の一環だ。ここでお嬢様学校の女子高生に恩を売っておけば、ゆくゆく太客にだってなるかもしれない。

 トオルは胸を張って、彼女にもらった紙をヒラヒラとさせた。


「幸い、カバンを落としたという廃屋は、僕の家路の途中にあります。帰るついでにサクッと取ってきますよ」

「やめとけば?そこまでする義理ないだろ。それこそ警察に頼めばいい」

「警察にはもう行ったと言ってました。つまり、相手にされなかったんでしょう。ここで彼女を見捨てるのは、後ろ髪を引かれる気持ちになりませんか」

「ならないね。自業自得だし、初対面の人間にオツカイを頼むなんて、非常識なヤツとしか思わない」


 ただただ正論である。トオルは丸め込まれそうなりながらも、自業自得だと自ら申告していた彼女の行き場の無い白い腕を思い出していた。

 ――たかが鞄一つ取ってくるだけなのだ。それで、一人の女の子が助かるなら、安いものじゃないか。

 意を決し、トオルは佐一の目を見る。


「……他に頼れる人がいないそうなんです。何から何まで佐一さんの言う通りですが、あの子が困り果てているのも事実です。……だから、できるなら今回だけでも、僕は助けになってあげたい」

「……そう。トオルがそこまで言うなら、もう好きにすればいい」

「わかってくれてありがとうございます」

「うん」

「つきましては、佐一さんも付いてきてくれませんか」

「なんでだよ」


 手の平を返したような助力要請に、佐一は呆れ顔を作った。そんな彼に、トオルは殆ど泣きつく勢いですがる。


「怖いんですよ!だって、幽霊が出る廃屋ですよ!?実際にあの子も幽霊を見たと言ってましたし……!僕が取り憑かれたらどうするんですか!」

「逆に聞くけど、俺と行けば取り憑かれないと思うわけ?」

「佐一さんなら、何とかしてくれるじゃないですか」

「俺ができるのは修理とかそういうのだけ。トオルが引き受けた厄介ごとの為に、俺は外に出たくない」

「うぅ……ホームセンターの引きこもりは伊達じゃないですね」

「本当に快適に過ごしてるわ。多分一生住める」


 佐一は、このホームセンターの一角を自分の居住地としているのである。よっぽどの事が無ければ、その巣から出てこないほどの自宅警備員っぷりを徹底していた。

 それはともかく、廃屋の落し物である。トオルはしょんぼりと肩を落とし、もう一度佐一を見た。


「……今日、勤務が終わった後に行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

「呼んだらすぐに来てくださいね」

「行くわけないだろ。大体、そんなに怖いなら話を受けなけりゃ……」


 佐一の言葉に被るように自動ドアが開き、小さな女の子の足音と軽やかな入店音が耳に飛び込んでくる。


「お医者さん!みみちゃん、治った!?」

「こら、お店の中で走っちゃダメでしょ!すいません、少し早く来てしまって……」

「いえ、お待ちしてました。佐一さん、みみちゃんは……」


 トオルが振り返った時には、彼は既にその姿をくらました後だった。代わりに、彼の立っていた場所に犬のオモチャが転がっている。持ち上げてスイッチを入れてみると、ふわふわとしたオモチャはキャンキャンと子犬によく似た声を上げた。


「みみちゃん!よかったー!」


 トオルの手からオモチャをひったくった女の子は、少々加減を知らぬ力で頬ずりをする。トオルは、急いで母親に伝えた。


「結構デリケートなオモチャみたいなので、優しく扱ってあげてくださいね。本物のわんちゃんだと思うくらいが、ちょうどいいかもしれません」

「はい、わかりました。よく言って聞かせます。本当にありがとうございました」

「お医者さん!ありがとうね!」


 女の子の屈託の無い笑顔と、母親のホッとした笑みに、トオルもつられて頬を緩める。……力になれて良かったと心から思う。後で佐一にも、彼女らの喜びようを教えてやらねばならない。

 ――本音を言えば、ここに二人で立って、直接彼女らの感謝を受け取る事ができればいいのだが。まあ、極度の人見知りで、人間に会うと体に痒みが出る体質の佐一には難しいだろう。


 しかし今は、唯一の店員の心配よりも自分の勤務後である。白い幽霊の姿を思い浮かべてしまったトオルは、嫌なイメージをかき消すようブンブンと頭を振った。










 訪れた廃屋は、二階建てのかなり広い家だった。元は、さぞかし立派な人目をひく豪邸だったに違いない。トオルはため息をつき、腕時計に目を落とす。時刻は午後十時。明日の準備やら何やらですっかり遅くなってしまった。


 結局、佐一は来てくれなかった。出て行く直前まで粘り、何なら土下座もしてみたのだが、最後まであの無情なる男がこちらを見て頷いてくれることは無かった。その時を思い出すとため息が溢れそうになったが、なんとか飲み込み、前を向く。


 弱気になってはならない。必ず鞄を見つけ、あの女の子に届けてやるのだ。


 トオルは拳を握り、腰辺りまで雑草がボウボウに生えた庭に侵入する。

 ……これ、見つかったら住居侵入罪辺りに問われるんじゃないか?

 今更嫌なことに気づいてしまったが、もう後には引けない。トオルは、草の匂いに身を紛れさせながら、懐中電灯を片手に進んでいった。


 手元の紙には、窓から家に入ったと書いてあったが……。


「これ、ですかね?」


 窓ガラスの一部が破れており、ちょうど中の鍵を開けられるようになっている。あの女子高生がやったのか、はたまた別の肝試し集団がやったのか。トオルは、ガラスに触れないよう手を伸ばして鍵を外し、窓を開けて体を家の中に滑り込ませる。


 すえたような匂いと、埃っぽい空気が肺を満たす。中は、いかにも廃屋といったように見すぼらしくなっており、昔使われていたであろう机やソファーがそこかしこに埃をかぶって点在していた。

 一歩踏み出す。ギシリと床が鳴ったが、まだ抜けるほど腐食は進んで無いようだ。


 トオルは懐中電灯で辺りを照らしながら、ボストンバッグを探す。二階もあることを考えると気持ちが萎えそうになったが、困ったように所在無げに立つ彼女の姿を頭に浮かべ、また自分を奮い立たせた。


 ――静かである。自らの呼吸と、足音以外は何も聞こえない。

 だからこそ怖いのだ。次の瞬間、そこの影から真っ白な幽霊が出てくるかもしれない。そんな想像しただけで、もう帰りたくてたまらなくなる。ああ、携帯ラジオでも持ってくれば良かっただろうか。いや、音がしてしまえば、自分がここに不法侵入していることが近隣住民にバレてしまう。


 やっぱり、引きずってでも佐一を連れてくるべきだったかもしれない。


 手汗で滑りそうになる懐中電灯を握り直し、トオルはソファーの裏を確認しようとした。


 その時である。


 ――背後で、ミシリと何かが軋む音がした。


「……!」


 全身の筋肉が硬直する。呼吸は止まり、脂汗が背中を伝っていく。

 振り返らねばならない。振り返らねば、そこに何があるか確認することができない。

 大丈夫、大丈夫だ。幽霊なら、質量が無いから軋む音などするわけがない。だからきっと、あれは家鳴りか生き物の立てた音だ。猫は夜行性だ。猫に違いない。猫であってくれ。


 トオルは、ぎこちない動きで振り返る。そして、そこにあるものを視界に捉えた。


 ――白。

 暗闇の中に浮かび上がるように伸びたそれは、ただ白かった。

 目線を上に向けていく。白のてっぺんには、のっぺりとした不気味な面が貼り付けられ、無表情にトオルを見下ろしていた。


 懐中電灯の光ごときでは、その全てを照らし出し、あれが何かを判別することはできない。

 しかし、足のすくみかけたトオルにも、一つだけわかることがあった。


 ――それは、人間としてはあり得ないほどに長躯だった。


「……っ!」


 逃げなければ。咄嗟に、トオルは身を翻した。脳が恐怖で痺れたようだが、まだ足にまでは到達していない。逃げる?どこに?外は?ダメだ、アレに塞がれている。外に逃げるには、アレの横を通り過ぎなければならない。

 震える手で、ポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出す。すぐに電話をかけられるようにしていたのが、功を奏した。


「佐一さん佐一さん佐一さん佐一さん!!」


 コール音が続くばかりで、電話は繋がらない。だが、トオルは叫ばずにはいられなかった。

 後ろを見るまでもなく、追われていることはわかる。むしろこの目で見て、その確信に近い想像が現実に変わることが恐ろしかった。

 トオルは、佐一の名を呼びながら広い廃屋を走った。


 足場の悪い床を走り続けて、二度目の角を曲がった所で、二階へと続く階段が現れる。ここを上ってしまえば、より逃げ場が無くなることは火を見るより明らかだ。

 だというのに、トオルの足は自分のもので無いように勝手に階段を駆け上がっていく。ただ眼前にある恐怖から、一歩でも逃れるために。


 しかし、よりにもよって彼が足をかけたその一段だけ、他より腐食が進行していたらしい。トオルはズボリと階段を踏み抜き、体勢を崩してしまった。

 慌てて足を引き抜こうとするが、折れた木が皮膚に噛み付く痛みに悲鳴を上げる。


 懐中電灯が、階段を転がり落ちていく。つい目で追ってしまった彼は、とうとうソレを見てしまった。


 ――階下でこちらを見上げる、白い “ 何か ” 。音を立てながら床に叩きつけられた懐中電灯が、その右手に持ったものを闇に浮かび上がらせる。

 それは、黒々しい血糊のついた鈍色のオノだった。


「あ……わ……」


 声が出ない。“ 何か ” は、明確な殺意を持って自分を狙っている。さっきまでただの得体の知れない恐怖でしかなかったものが、今は自分の死を伴ってそこに立っていた。

 その事実と怪我で身動きが取れないトオルに、“ 何か ” はゆっくりゆっくりと迫ってくる。そして、恐怖に声帯を握りつぶされた彼の前で、オノを振り上げると――


 突然、ガクンと後ろにのけぞった。


「な……!?」


 何が起こったのかわからなかった。幽霊らしからぬ動きに呆気にとられていると、よく知った声が耳を貫いた。


「トオル!早く!」


 佐一である。彼は “ 何か ” の長い白い服を階段下で捕まえ、引っ張ることでバランスを崩させたのだ。


 こうなると、自分の足など気にしてはいられない。トオルは皮膚が破れるのも構わず力任せに足を引き抜くと、“ 何か ” の横をすり抜けて佐一の元へと駆け寄った。


「佐一さん!……佐一さん!」

「ハイ俺ですよ。服は柱に縛り付けたから、今のうちに逃げよう」

「はい!」


 足の痛みで思うようには走れないが、佐一が隣にいるだけでさっきまでの恐怖が嘘のように消えていた。トオルは、侵入する時に使った窓まで一直線に走っていく。


「アレは、人間だ」


 走りながら、佐一は教えてくれた。


「人間、ですか?」

「うん。どうも、ここに肝試しに来るヤツを待ち構えて狙ってるらしい。窓から入ってくる時、鍵を開けただろ?幽霊が鍵なんか閉めるかよ。その時点でおかしいって気づかなきゃ」

「佐一さん、どこから見てたんです?言ってくれたら良かったのに……」

「言わなかったから助かったんだろ。ほら走って」


 ようやく窓の所までやってくる。まず佐一が身を乗り出し、外へ出た。すぐにトオルも後に続こうと、怪我をしていない方の足を窓辺にかける。

 しかし、ふいにあの女子高生が落とした鞄の事が強烈に脳に蘇り、動きを止めた。


「……ボストンバッグ」

「何?」

「佐一さん、ボストンバッグ見ました?」

「や、みてないけど」


 トオルの声は、どこか虚ろであった。


「……探さなきゃ……」

「今それどころじゃないだろ。トオル、お前どんな目に遭ったと思ってんの」


 佐一は、苛々したように腕をかきむしる。それでも、トオルは見開いた細い目を二階の方向へと向けていた。

 そのいっそ常軌を逸した彼の様子に、佐一は段々と真剣な表情になる。


「……トオル。もしかして、また “ アレ ” か?」

「そうかもしれません」

「……今回の予感は?」

「今探さないと、永遠に見つけてあげられなくなる気がします」


 トオルの目は、ジッと二階を見つめている。

 佐一は一瞬うつむいて考え込んだが、すぐに顔を上げると、首を縦に振った。


「わかった。協力する」

「佐一さん」

「でも、その鞄とやらを探すには、まずあの白い人間を無力化しないといけない。それは、俺が行く。トオルは警察に連絡して外で待ってろ」

「え!?ダメですよ、僕も行きます!」

「トオルは足を怪我してるだろ。大丈夫、一応過剰防衛グッズも持って来てる」

「防犯グッズじゃなくて?」

「無力化したら、すぐに連絡する。早く行って」


 トオルを強引に外に引っ張りだし、代わりに佐一が中に入る。どこからそんな自信が湧いてくるのか分からないが、確かに自分がついて行ってしまえば、彼の足手まといになるのだろう。トオルは頭を下げた。


「……怪我をしないでくださいね」

「じゃあそもそも巻き込まれないでくれよ」

「部下が正論しか言わない」


 佐一はチラリとこちらを見て、すぐに闇の中へと溶けていった。残されたトオルは、急いでスマートフォンを取り出し、110番通報をしたのだった。









 代瀬トオルは、引き寄せる。


 人間や動物だけでない、この世の常識では説明できない何か怪しいモノまでも、その身に引き寄せてしまう。

 そして、時々手を引かれ、に連れていかれようとするのだ。それは霊能力というのかもしれないし、単に人と人ならざるモノの境が曖昧なだけなのかもしれない。

 とにかく、トオルは霊を見ることができ、時としてその霊にまつわる予知能力を発揮することがあった。


 だから、佐一はその霊現象を解決してやらねばならなかった。そうでないと、トオルはこの世界からあちら側へと連れて行かれてしまうからだ。


「……いない」


 佐一は、階段下に立っていた。しかし、あの白い人間は既に姿をくらましている。

 辺りを見回すも、それらしい人影を見つけることはできなかった。


 逃げたか?いや、この廃屋の出入り口は殆ど封鎖されており、あの窓からしか外に出られないはずだ。ならば、二階か、まだ一階に潜んでいるかのいずれかだが……。

 背後を取られないように壁に背をつけ、佐一は用心深く周りを観察する。


 突然、視線の端で、白い何かが動いた。


 佐一はその方向に体を向けたが、大きなテーブルがあるだけで他は何も無かった。……テーブルクロスを見間違えたのだろうか。いや、そうではない。微かに、そのテーブルクロスの端が揺れている。


 じゃあ、あれは罠か。


 佐一は咄嗟に前へと身を投げた。一瞬遅れて、さっきまで自分が立っていた場所にオノが突き刺さる。

 そのオノの持ち主は、長くて邪魔な白い服を脱ぎ捨て、仮面だけを顔につけていた。

 それを見た佐一は、ニヤリと笑う。


 ――幽霊なんて、やっぱり嘘っぱちだったな。


 恐らく最初に見た長躯は、テーブルか積まれた箱の上にでも乗って、そう見せていたのだろう。獲物を驚かせ、じわじわと恐怖で追い詰める為の演出として。

 全く、悪趣味な人間だ。佐一は、ガリガリと首の後ろをかいた。


 人間は、またしてもオノを振りかぶる。しかしその前に、佐一は着ていたジャケットから小さな小瓶を取り出した。そしてその蓋を開けると、人間の頭上に向けて思い切りばら撒く。

 小瓶から溢れた粒子が人間の肌に触れた瞬間、人間はオノを取り落としかねないぐらいの勢いで全身を掻き毟り始めた。その隙に、佐一はまたジャケットから出した丸い輪っかを構える。


 しかし、近づこうとしたその時、まだ人間が手に持っていたオノが佐一を捉えた。鈍く風を切りながら、佐一の胴体にオノが食い込もうと迫ってくる。

 佐一は目を見張った。それを避け切れるだけの反射神経は、自分に無かったのだ。


 息を止める。それでも、目を閉じなかったのは、佐一の両目に信じられないものが映っていたからだった。


「させません!!」


 それは、外にいるはずのトオルだった。人間の腰にしがみつき、振り上げたオノを下ろさせまいと踏ん張っていた。だがそうなると、オノの狙いは佐一ではなくトオルに向いてしまう。


「危ねぇ!」


 考えるより先に体が動いていた。佐一は持っていた輪を人間の首にかけると、手元のリモコンを操作する。するとみるみる内にゴムの輪っか縮まり、人間の首を締め上げた。

 すぐに仮面をつけた人間はオノを振り回すどころでは無くなり、首を両手で搔き始める。オノを落としたのを確認したトオルは、慌てて佐一に声をかけた。


「佐一さん、やめてください!このままでは死んでしまいます!」

「……わかった」


 言われて、佐一はまたリモコンのボタンを押す。首は解放され、人間は咳き込みながらその場に崩れ落ちた。

 それを見下ろし、トオルは息を切らせながら言った。


「……その輪っか、もっとあります?手足を縛っておかないと」

「はい。じゃあよろしく」

「ええ、ではやっておきますね」


 佐一から輪を受け取ったトオルは、人間が回復する前にテキパキと手足を拘束する。どことなく手馴れたものである。


「まあ、ホームセンターの店長ですから」

「確かに」


 最後に柱に縛り付け、二人はようやく息をついた。仮面の人間は、首を絞められたダメージが残っているのか、ぐったりしており、もはや何も喋らない。


「……警察には通報済みです。じきに、やってくるでしょう」

「そんじゃ、その前にとっとと鞄を探そう。一階には無さそうだから、二階に行ってみるか」

「はい。ついてきてくれるんですか?」

「うん。もう他に人間もいなさそうだし」


 佐一は気怠そうに、太ももをかいていた。トオルは小さな声でお礼を言い、痛みを堪えつつ足を階段にかけた。










 二階は一つのドアによって仕切られていた。ドアノブにトオルが手をかけると、背中から佐一が懐中電灯を差し込んでくる。


「気をつけろよ。また腐ってる床があるかも」

「はい」


 懐中電灯のスイッチを入れ、呼吸を整えてからドアを開ける。

 その瞬間、強烈な腐臭が鼻をついた。思わず服の袖で鼻を覆ったが、それでも耐え難い匂いに顔をしかめる。


「……佐一さん」

「うん。どうやらだいぶ長い間、ここを根城にしてたようだ」

「……先に行ってくれませんか」

「ヤに決まってる。ほら行けよ」

「はい」


 自分がやると言い出した事だ。トオルは、慎重に一歩を踏み出した。ギシリと鳴る床にドキリとしたが、よく考えれば、あの人間が長くここに住んでいたのなら、床の腐食はあまり気にしなくていいのかもしれない。

 懐中電灯で、自分の周りをぐるりと照らす。ふと、数歩先の壁際に、荷物が固まって置いてあることに気がついた。

 その中にあった一つのボストンバッグに、トオルは駆け寄る。


「ありました!ありましたよ、佐一さん!」

「良かったな」

「ええ!でも、念の為に中を確認して……」

「それはやめといたら?」


 警告するような佐一の一言に、振り返る。暗闇でよく見えないが、彼はこちらを向いていないようだった。

 自分の配慮の無さが彼を不快にさせたのだろうか。首を傾げたが、佐一の緊張の原因はそれではないという。


「……トオルってさ、ニュース見る?」

「突然何ですか。でも、そうですね。ここ三日くらいは見てないかもしれません」

「新聞も読まないしな。なら教えてやるけど、最近、一人の女子高生の死体が発見されたんだって」

「……え?」


 心臓が跳ねた。同時に、脳内に例の女子高生の姿が浮かぶ。


「……死後一週間は経っていただろう彼女を殺した犯人は、未だ捕まっていない。加えて、見つかっていないものが一つある」


 佐一は、自分の首に手刀をあてた。


「――被害者は、首を切り落とされていた」


 トオルは、ホームセンターを訪ねてきた女子高生の顔を思い出そうとした。

 しかし、どれだけ頭を働かせても、記憶にあるのは首から下の情報ばかりである。


 なんで、どうして。

 白い腕、お嬢様学校の制服、所在無げな立ち姿、短い靴下。


 ――頭だけが、無い。


「……佐一、さん」


 指先が冷えていく。なのに、額からは嫌な汗が吹き出ていた。

 しかし佐一は、説明口調で、トオルが目を背けたいような推論を述べていく。


「大体、女子高生がボストンバッグを持って肝試しに行くか?よく見りゃ、確かにちょうどいい大きさだよな。何のとは言わないけど」

「……な、ん……」

「そして、長く潜伏しているからって、腐臭がするのもおかしい。生活の基盤となる場所に、強い臭いがするようなものを置いておくはずがないからな。なら、それでも置いておかなければならなかった、今腐っている肉の正体は何だ?」


 否定しようとしたが、パズルのピースを嵌めていくように、佐一は知りたくない事実を明るみに出そうとする。……やめてくれ、聞きたくない。トオルは耳を塞いでしまいたかったが、その前に、彼は決定的な発言を突きつけた。


「トドメ。ここはたくさん荷物が置いてあって、中にはボストンバッグもあるみたいだけど、どうしてトオルはすぐにこのバッグがあの女子高生のものだって分かったんだ?」

「……!」


 言葉を失う。女子高生の白い腕が、青ざめる自分の手を引いている気がした。早くこのボストンバッグを開けて、中のものをすくい上げ、自分に渡してくれ、と。


 ふらり、とよろける。佐一は、そんなトオルの体を支えてくれた。肩から伝わるその手の熱だけが、この場所に自分を繋ぐ命綱のようだった。


「……また、引き寄せたんだよ、トオルは」


 佐一は、小さな声で言う。


「大丈夫、バッグは無事に見つかった。これは下まで持って行って、警察に見つけてもらおう」

「……」

「行こう。歩ける?」


 佐一に声をかけられ、トオルは頷いた。まだ、ショックで頭がぼんやりとしている。佐一はバッグを手に持つと、トオルの腕を掴んだまま、しっかりした足取りで部屋を後にする。


 視界の隅に、一瞬、彼女の短いスカートが見えた気がした。









 結局、二人は警察を待たずにその廃屋を去ることにした。律儀にも自分の名前を伝えていたトオルだったが、後で何とでも説明できると佐一に説得され、押しに弱い彼は折れてしまったのである。


 そして佐一は、トオルの家に上がり込んでいた。


「……ようやくおさまった」


 シャワーを浴びてきた佐一は、ホッと息を吐く。人間に会うと出る痒みは、流水を浴びるまでおさまる事は無い。そんな難儀な体質を押してまで、彼はトオルを助けに来てくれたのだった。

 トオルは、佐一に麦茶を入れたコップを渡しながら言う。


「今回もありがとうございました」

「そういうのいいから、その “ 引き寄せ ” を何とかしてくれよ」

「僕も怖いので、何とかしたいのですが……」

「お祓いはもう何回もやったしな。お札もロザリオも効果なし。毎度助けなきゃならないこっちの身にもなってくれ」

「でも、そのたびに佐一さんの新製品のテストができると思えば」

「別に俺はトオルで試してもいいんだけど?」

「本当にすいません」


 少し調子に乗ってしまった。素直に謝り、遅めの夕食を彼の前に出す。両手を合わせ小声でいただきますと言う佐一に、トオルは細い目を更に細めて微笑んだ。


「佐一さんは好き嫌いが無くて偉いですね」

「トオルは何かあったっけ」

「僕は生野菜が苦手です」

「ああ。無人島ですぐ死ぬヤツだ」

「流石にそこまで追い込まれたら食べますよ。ウサギを跳ね除けても食べます」

「どうだか。トオル押しに弱いから」

「ウサギにまで譲ると思われてるんですか、僕は」


 トオルの応答に、佐一は少しだけ笑ったようだった。その目の前の現実に、ふと不安が去来する。

 夕食を食べている最中にする話ではないと思ったが、トオルは佐一に相談せずにいられなかった。


「佐一さん」

「何」

「……あの子、明日また来ると言ってたんです」

「うん」

「そして、お礼もすると。……本当に、ホームセンターに来るでしょうか」

「さあ。来ないんじゃない?」

「どうして?」

「俺がいるから」


 シチューをスプーンですくいながら、佐一は言う。そのどこか投げやりな声色に、トオルは疑問を口にした。


「なんで君がいたらあの子が来ないんですか」

「俺は世界中の人間から嫌われてるからね」

「またそういう話ですか」


 トオルは、呆れたように佐一を見た。彼は、時折冗談めかして、こういう事を言うのである。極度の人見知りと人間嫌いを拗らせているので、どこまで本気なのかは分からないのだが。

 しかしそうなると、伝える言葉は決まっている。


「僕は嫌ってませんよ。ほら、これで佐一さんの前提条件は崩れたでしょう」

「崩れるかな?トオルはもう、人間じゃないかもしれないだろ」


 予想外の一言に、トオルは細い目を丸くした。対する佐一は、すぐに今しがたの発言を後悔したようだ。トオルの腕を掴み、弁解する。


「嘘だよ、トオル」


 先ほどとは打って変わったような彼の姿に、トオルは少しだけ意地悪を言いたくなった。座り直し、澄ました顔でお茶を一口飲む。


「……あの子の側に行ってしまえば、もう佐一さんの嫌味を聞かなくてすみますかね」

「すまん。俺なんかの言うことを間に受けないでくれ」


 トオルとしては、ちょっとした仕返しのつもりで言っただけだった。しかしそれは、思いの外佐一を追い詰めてしまったらしい。


「……そんなこと言うなって」


 彼は血の気の引いた顔で俯き、呟いた。


「……トオルがいなかったら、俺はどうやってこの世界で生きていけばいいんだ」


 それは、彼の心からの本音だった。

 やり過ぎたと気づいたトオルは、慌てて彼の両肩を押さえる。


「そこはもう、コンビニ辺りの面接でも受けてですね……」

「受かるわけない。俺なんか顔見て落とされる……」


 間違えた。慰め方を間違えた。トオルは頭を振り、しかしなお続ける。


「佐一さんは自分で思うより、いい見た目してますよ」

「そんなことない。それに、コンビニって俺が住めるところないと思う」

「そりゃありませんよ。だからどうして、佐一さんは頑なにそこに住もうとするんですか……」


 ああ、違うな。こんなやり取りでは、彼の不安を払拭できない。

 トオルは、佐一の目を見て断言する。


「僕は、ちゃんとここにいます。時々あらぬモノを引き寄せてあちら側に連れて行かれそうになりますが、佐一さんが繋ぎ止めていてくれる限り、僕は人の世に生きていきます」

「……本当に?」

「はい。……すいません、さっきは悪ふざけが過ぎました」

「……俺も言い過ぎた。ごめん」

「いえ。だからどうか、おあいこということで許してください」

「……うん」


 ようやく、佐一は安堵したようである。冷めてしまったシチューを、また黙々と食べ始めた。


「……美味しいですか?」

「……まずくはない」

「それは良かった」


 状況が状況であれば自分の息子になっていたかもしれなかった男を眺めながら、トオルもシチューを口に運んだのだった。









 その翌日。


 終始佐一に張り付かれていたトオルだったが、結局閉店になってもあの女子高生が現れることはなかった。それどころか、普通のお客さんの一人すら来なかったのであるが。つくづく、佐一の裏稼業が無ければ、明日にでもこの店は潰れているのだろうとトオルは思う。


 そして、今日もトオルは佐一に綺麗な土下座をしていた。


「お願いします、佐一さん!」

「やだ。絶対嫌だ」

「今日もうちに泊まってください!」

「やだ。その為には俺、外に出なきゃいけないから嫌だ」

「何卒!」

「じゃあホームセンターに泊まればいいだろ」

「余計怖くて寝られませんよ!女子高生はここに来てたんですから!」

「その理屈なら家には来ないだろ。ハイ解散」

「一生のお願いですー!」

「トオルの一生のお願い何個あんだよ。毎日死んでは生まれ変わってんの?」


 取りつく島もないとはこの事だ。遠くで付けっ放しのテレビが、女子高生殺害事件の犯人が捕まった事を知らせている。……バッグの中身は返したんだから、もう無かったことにしてくれないだろうか。あの女子高生が、約束事にいい加減な子であってくれればいいのだが。


 こうなれば、もう本当にホームセンターに連泊してしまおうか。トオルが血迷った事を考え始めた時、ふと彼の猫っ毛を風が揺らした。

 振り返ると、自動ドアが開いていた。しかしそこには、誰の姿も無い。

 トオルは、思わず佐一の服の裾を握りしめた。


「さ、佐一さん」

「何、なんかいるの?」


 佐一に霊能力じみたものは無い。だから、何かがいるとするならば、それが見えるのはトオルにだけである。トオルは自動ドアと佐一を交互に見て、首を横に振った。


「じゃあ風だろ」


 佐一は言い切る。だが、それでもトオルは、自動ドアから目が離せないでいた。

 やがて、音もなく自動ドアが閉まっていく。向こう側とこちら側が明確に仕切られる、その瞬間。


 トオルは、隙間の向こうに立つ、髪の短い女子高生を見た。


 彼女は、白い腕を一本こちらに突き出し、助けを求めるように指先を伸ばしていた。


 息を飲む。あちら側にいる彼女の感情が、トオルの脳をダイレクトに揺らした。


 ――ああ、閉まってしまう。行ってしまう。行かないでくれ。あなたにだって、まだ共に生きていたい人がいるに違いない。


 風が頬を撫でる中、トオルは無意識の内に、彼女の手を取ろうと一歩を踏み出していた。


 ――そちら側に行ってしまっては、二度と帰ってはこられないというのに。


「トオル」


 ぐ、と襟首を掴まれる。首の締まる苦しみに、ハッと我に返った。既に自動ドアは閉まり、吹き込んでいた風も消えてしまっている。


「佐一さん……」

「ん」


 眼鏡の向こうの気怠げな目が、自分を見ている。その瞳に映る姿に、ようやく自分はまだこちら側にいるのだとはっきり自覚できた。


「……ドアの向こう側に、あの子がいました」

「だろうね」

「僕に向かって、手を伸ばしていました」

「そ。首ついてた?」

「あ……はい」

「返してあげられて良かったじゃん」


 あっさりしたものである。てっきり怒られると思っていたトオルは、佐一に向けて細い目を瞬かせた。


「……引き止めてくれて、ありがとうございました」

「うん」

「お手数をかけました。昨日僕はあんな宣言をしたばかりなのに」

「……すぐにトオルの癖や体質が直るなんて思ってない。俺だって、明日までに人嫌い直せって言われても無理だし」


 おや、なんだか今日は優しいな。昨日の言い合いのダメージがまだ残っているのだろうか。

 佐一の目は、自動ドアの向こうを見ている。不思議なことに、その眼差しには同情的な色が宿っているように思えた。


「トオルは優しいからね。皆、すがりたくなるんだろ」

「僕は押しに弱いだけですよ」

「手を伸ばしてくれる人がいるって事実がどれほど人を救うか、トオルは知らないんだな」

「……?」


 そう言うと、佐一は歩き出した。勝手に反応する入店音と共に自動ドアが開き、外と店内が繋がる。しかし佐一は外に出ることなく足を止め、その場にしゃがみこんだ。


「お礼、これじゃない?」


 トオルを仰いだその手には、黄色い何かが光っていた。


「……ピアス?」

「うん。多分、その女子高生が渡せる唯一の物だったんだろう」

「そんなの受け取れませんよ。ご両親に返さなきゃ」

「返す?どうやって?お宅の娘さんの幽霊から直接貰いましたって言うのか?怒られて悲しまれて通報されて終わりだ」

「でも、そんな大事なもの……」

「受け取れよ。これは、その子にできた唯一のお礼なんだ」


 佐一は早口で言った。トオルは言葉に詰まり、一つ頭を下げて恐る恐るピアスを引き取る。

 こういうことは、実は初めてではない。トオルの家の引き出しの中には、この世ならざるモノから引き受けた品々がきちんと収められていた。


 きっと、このピアスもその内の一つとなるだろう。トオルは、ため息をついた。


 そんな彼の様子に思うところがあったのか、佐一は付け加える。


「……俺には何も見えなかったけど、その女子高生はトオルを本気で連れて行く気はなかったと思うよ」

「どうしてそう思うんですか?」

「本気なら、もっと早くから手招きしたはずだ」

「じゃあ何故手を伸ばしてきたんです」

「だから、やっぱりすがりたかったんだよ」


 まるで女子高生の心を読んでいるかのように、佐一は淀みなく続ける。


「……一人で行くのは寂しい事だ。だからつい、手を伸ばした。手を取って貰わなくていい、連れて行くつもりもない。だけど、ただ寂しい、それだけだった」

「……でも、僕は」


 何もできなかった。何も応えてやる事ができなかった。そう伝えると、佐一は首を横に振った。


「トオルは手を伸ばしたろ。そちらに行かせまいと、一歩踏み出したろ。……自分の事を想ってくれる人に最後の最後に会えたなら、その子は一つ救われたに違いない」

「……」

「少なくとも、俺があの子の立場だったらそう思うよ」


 佐一の声は、柔らかい。自分は慰められているのだとようやく気づいたのは、その時だった。情に脆い男は、佐一の言葉にぽろりと涙を落とした。


「……なんで、殺されちゃう前に僕の所に来てくれなかったんですかねぇ」


 服の袖で目元をこすりながら、トオルは言う。対する佐一は、泣いている店長には全く興味が無さそうに彼を見下ろした。


「こんな小さいホームセンターに用は無かったからだろ」

「ぐぅ……規模拡大すれば、もっとお客さんも来ますかね」

「これ以上来られても俺困るよ。人間嫌いなのに」

「うぅ……」


 ――彼女は、最後の最後に少しだけ救われた。

 佐一の言葉を信じる事だけが、どうやら自分の心に安寧を取り戻す唯一の方法のようだ。

 トオルは止まらない涙を拭いながら、佐一に言う。


「……僕は、佐一さんに助けられてばかりですね」

「俺もトオルがいないと生きていけないから、お互い様だな」

「……もしかして、佐一さんが一人で生きていけるようになったら、僕は結構マズいんじゃないですか?」

「知らない。でも安心して、俺は死ぬまでトオルに依存する」

「断言した……。それはそれで不安になる……」


 直接会話ができ、会っても痒みが出ないただ一人の人間がトオルしかいないとあれば、それも仕方がないのかもしれない。

 人間として人間の中で生きていくにはあまりにも致命的であるが、トオルは、それでもまあいいか、と思い、佐一に向かって微笑んだ。それに佐一は少し困惑した表情を浮かべ、何も言わずにふいとレジ奥に引っ込んで行く。


 トオルは自分一人しかいなくなったフロアに立ち、長い間、手の中のピアスの感触を確かめていた。

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代瀬トオルは引き寄せる 長埜 @ohagida

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