悪霊暮らし

モト

悪霊暮らし

 私は独り暮らし。4LDKの広い家を持て余している。だから気が付くのに時間がかかった、この家には誰かが侵入していることに。


 二階建ての家は、上階が寝室と空き部屋だ。

 荷物置きにしか使っていない二階の空き部屋、その扉から光が漏れていた。扉を開けてみると明かりが点いている。古い蛍光灯がちらちらと天井で輝いていた。いつか自分が点けてそのまま忘れたのだろうか。確実にスイッチを切って扉を閉めた。その翌日だった。また扉から光が漏れていたのだ。

 まさか空き部屋の中に誰かがいるのでは。女の独り暮らしに侵入者だなんてぞっとする。

 恐る恐る扉を開いたが、中にはいつも通りに古い段ボール箱が積み重なっているだけだった。そっと押入れも開いてみる。暗い奥を見回すが、衣類を収納したケースや布団が詰まっていて誰かが隠れられるような隙間はない。

 結局、空き部屋にはネズミ一匹いなかった。

 そうだ、蛍光灯のスイッチが壊れて点いてしまうこともあるのでは。私はそんな答えにたどり着いて不安を押し殺した。


 でも奇妙なことは続いた。

 一階のリビングルームには食事用のテーブルが一つと椅子が四脚。独り暮らしだから使っている椅子は一脚だけ。いつも同じ場所の椅子だけを使っている。なのに他の椅子がずれていた。

 身体が当たってずれたのだろうとテーブルに椅子をぴったり押し込む。

 翌日、仕事から帰ってきてみたら椅子の一つがテーブルから引き出されていた。私が使っていない椅子だ。この一日、椅子に身体を引っかけたりしていないことには自信がある。

 家が傾いているのかもと、コップに限界まで水を注いでそっと床に置いてみた。コップは水をこぼすことなく水平にたたえたままだった。傾いてはいないようだ。

 地震だろうか、そうだ、地震だ。私が気付かないうちに揺れることもあるだろう。私は自分をそう説得した。


 冷蔵庫にしまったトマトがいつの間にかなくなっていた。冷凍庫で凍っていたはずの豚肉もない。夕飯の材料に使おうと思っていたのに、おかずが作れない。

 とっくに使ってしまったのを忘れてしまうことはあるものだ。最初は自分のうっかりさを笑った。

 これからは気を付けようと食材の数をよく覚えて確認し始めたら、卵の数が合わない。私が使っていなくても卵が日に日に減っていく。

 

 この家には私以外の誰かがいる。

 その考えを自分の中から追い出せなくなった。

 他人の家に侵入して屋根裏に住み着く男の話を聞いたことがある。そんな目に会っているのでは。

 私は懐中電灯を持って二階の空き部屋に上がり、またしても部屋の明かりが点いたままなのに慄きながら押入れの天井板を外した。埃が降ってきてクシャミをする。マスクをしておくべきだった。

 天井板を外した穴に頭を突っ込み、懐中電灯で屋根裏を照らし出す。暗い屋根裏には蜘蛛が巣くっているだけ。この中に人がいた形跡はない。

 調べ終わってから私は恐怖に肌が粟立った。勢いで調べてしまったものの、もしこの中に男がいたら武器の一つもない私にはどうしようもなかった。本当に何も見つからなくてよかった。これからは武器を用意しておかないと。


 私はもっと安全な方法で調べることにした。

 侵入を確認するため、リビングの扉に小さな紙を挟んでから出かけてみた。なにかの映画で観た方法だ。

 戻ってきたら紙は落ちていた。

 玄関にも挟んでみた。

 家の中で過ごしていた間に紙は落ちていた。私がいる時にすら誰かが侵入している!


 私は親友の瑞希に電話した。これまでの経緯と恐怖を訴えた。

 瑞希は落ち着き払った様子で答えた。

「絵梨、いいから軽率に警察を呼んだりせず、大した害がないのだからそっとしておいて怖がらずにいなさい」

 馬鹿な。瑞希はこんな目に会ったことがないから怖さが分からないのだ。

 勇気を出して私は警察を呼んだ。

 やってきた中年の男性警官は玄関の向こうに立ったまま私の説明を妙な表情で聞いていた。まるで信じられないという顔だ。

 警官は視線を泳がせ、病院をお勧めしますといってそそくさと帰ってしまった。

 誰も取り合ってくれない。


 私は誰にでも分かるような証拠集めに励み始めた。

 長時間録画できるカメラをコンピュータにつないでリビングに置いた。画質は悪いけれど部屋中を二十四時間以上も録画しっぱなしにできる。

 帰宅してから記録映像を再生した私は仰天した。誰もいないリビングなのに椅子が動き、扉が開いたり閉まったりしている。

 私はまるで足元が崩れて落ちていくような感覚に襲われてソファに倒れ込んだ。

 私の家に入り込んでいるのは目に見えない存在なのだ。つまり私を呪う幽霊、悪霊。そんなもの。得体のしれないものが私に付きまとっている。警察ではだめだ。自分でなんとか立ち向かわないと。


 私はバッグに包丁と塩の袋を忍ばせて玄関を出た。包丁は塩と酒でお清めしてある。そのまま静かに座り込む。悪霊を油断させるためにしばらく待った。玄関の扉に耳を当てる。微かに音が聞こえる。何かが家の中で動いている音。

 私はバッグから取り出した塩を左手に掴み、右手に包丁を握り締め、玄関をそっと開いてからリビングへと進む。リビングから聞こえる音は大きくなってくる。

 扉を勢いよく開いて私はリビングに突入した。左手の塩をリビング中に撒く。塩は何もないはずの空間で何かに当たってばらばらと落ちた。そこに向けて私は包丁を振り回した。手ごたえがある。赤黒い血が飛び散った。悪霊にも包丁は通用する!

 私は闇雲に包丁を振り回しながら突進した。確かな手ごたえ。見えない相手に向けて包丁を突き立てる。勢いのあまりバランスを失って私はそのまま倒れ込んだ。包丁は私の体重でさらに食い込んだようだ。血がほとばしる。

 荒い息の私はしばらくそのままうつぶせにしていたが、ようやく息が治まってきたので包丁から手を放して身体を起こした。私の身体とリビングの床は悪霊の血に塗れている。その中にへたり込んだ私は勝利を確信していた。見えない悪霊を倒したのだ。


 また信じてはくれないだろうけれど私は瑞希に電話した。意外にも瑞希はすぐに来ると返答した。

 言葉通り、一時間もせずに瑞希は駆けつけてきた。タクシーだろう車の走り去る音がして、玄関に瑞希は姿を現した。

 青い顔の瑞希に私は改めて勝利報告する。瑞希は無言で靴を脱いで廊下に上がり、リビングへとゆっくり進む。怖がっているようだ。もう怖い悪霊は倒したと言ったのに。

 リビングの床を見て、瑞希は悲鳴を上げかけて口を押えた。

「ほら、悪霊をやっつけたのよ」

 私が意気揚々と告げると、

「洋司さん……」

 瑞希は言葉を漏らす。

「絵梨、なんてことを。あんなに無視されてもあなたに尽くしてくれていた洋司さんを」

 洋司、誰だろう。聞いたこともない名前なのに、嫌な気分になる。

「梨花ちゃんに不幸があって、あなたは本当に辛かったでしょう。だから絵梨が洋司さんを無視するようになっても洋司さんはじっと耐えていたし、あたしも何も言わなかった。だからといってこんなこと! 梨花ちゃんも天国でどんなに悲しむことか」

 梨花、りか、誰? その言葉は胸に数百本もの針をゆっくりと差し込むような激痛となって私を襲う。痛い、いたい、やめて。

「一人娘の梨花ちゃんが家の中であんな事故にあうなんて、見なかったことにして忘れたくなる苦しい気持ちは分かる。でも」

 瑞希が震える声で私に怒鳴る。ああ、痛い、苦しい。一人娘、事故、なんのことだ、私はずっと独りなのだ、事故なんてなかった。

「絵梨、よく見なさい。あなたがやっつけたと言っているのは洋司さんよ! もう十年も暮らしてきたのに」

 瑞希が示す先には悪霊が倒れている。針を目に差し込まれたような苦痛。痛みでよく見えない。

 どうして私がこんな苦痛を受けねばならないのだ。なぜ。私はただ梨花を愛して、ああ痛みが増す。耐えきれない。

 瑞希が今まで見たこともない形相で怒っている。怒鳴っている。

 ああ、そうなのね、分かった。悪霊が、憑りついている。これは、瑞希、じゃない。悪霊は、やっつけないと。

 私は進んだ。悪霊に刺さったままの包丁を抜き、

「悪霊を追い出してあげる」

 悪霊は大きな叫び声を上げて、そして静かになった。


 私は三人暮らし。4LDKの広い家は幸せでいっぱい。

 夫の洋司と娘の梨花。二人はリビングにいつもいて、静かに楽しく過ごしている。もっと騒がしくしてもいいのに。

 二階の空き部屋で故障していた電灯はいつの間にか治ったらしく、もう消えたままで勝手に点いたりしない。

 冷蔵庫の食材が無くなっているなんて勘違いを私がすることはなくなった。私もそんなに馬鹿じゃないもの。

 梨花は元気だ。まるで瑞希と同じぐらいに大きく育った。立派な大人になったのだと私は満足に思う。

 リビングの椅子には洋司と梨花がいつも座っている。もう椅子が動くことはない。

 この家にはずっと三人、誰も入り込めない永遠に幸せな家族なのだ。

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