ああああああ

クリスマス

 何となく空を見上げると分厚い灰色の雲が僕を見下ろしていた。そして、そんな薄汚れた雲から降り注ぐなんて考えられないほどに酷く美しい純白の雪。けれども、空から落ちてきたそれは、やがて僕らの足元に降り積もり、更には僕たちに次々と踏まれ、靴裏の汚れを吸い黒く穢れてしまっていた。

 なんていう取り留めもないことを考えて、浮かれた人間が煌びやかに騒がしく飾り付けた帰路を征く。普段は考えもしないのに、こんなことを考えてしまうのは、寒さのせいか、それともただの疲れか。おそらくは、疲れによるものだろう。連日続く無茶な注文、世間はやれ、クリスマスだなんだと盛り上がっている最中に、一人会社に残り無機質な機器の前に座り、キーボードを叩くだけの毎日。精神的にも、肉体的にも限界だ。とにかく、一刻も早くこの寂しい空から逃げ、我が家の風呂で全てを温めたい。

 そんな事を頭の片隅で望み、雪に汚れを押し付けていると、横腹の辺りに少しの衝撃。どうやら僕は自分が思っていたよりも、思考の渦に囚われていたのか、周囲に向ける意識が弱かったようだ。

「すみません」

 小さいときは、プライドか気恥ずかしさなのか、なかなか言うことができなかった言葉。大人になっていつからか、息を吐くように相手の顔も特に気にせず言えるようになった言葉。そう考えると、小さい時の夢まみれだった自分を思い浮かべ、今の自分を思い出し酷い虚無感に襲われる。

「ご、ごめんなさい!」

 相手のすこし幼い謝罪を聞き、歩を進める。だが、少しの違和感を感じる。もしも、数瞬前の自分が子供の時の事を思い浮かべなければ、感じなかったであろう小さな違和感であった。だが、いくら小さくても違和感は違和感である。切羽詰まった状況でもなければ、確かめてみたくなるのは人間という生物の性なのだろうか。その衝動らしきものに突き動かされたのかどうかは、自分でも分からないが、先程ぶつかった相手に目を向ける。

 その先にいたのは、小さい子供だった。

 ぶつかったのはてっきり自分と同じ大人だとばかり思っていたから、違和感の正体はこれだ。

 だが、目を向けてしまったのは失敗かもしれない。その子供の身なりは、酷いものである。

 いつから洗濯していないのか分からないようなヨレヨレでしわだらけの服。季節外れの短パンに、雪が降っているのに靴も履かず、真っ赤に腫れあがった両足。

 虐待か、それともこの子供の趣味か。いや、流石に趣味なものか。ならば虐待か。

 この日本社会では、この子を温める為に家にでも連れ帰ればもれなく豚箱行きの直通切符がもらえる。良心が痛むが、僕にはどうすることもできない。そう、心に折り合いをつけて、こんな子供など見なかったことにして、前を向きなおして、家へ向かう。

「あ、あの! 財布落としましたよ!」

 そう、後ろから声をかけられ、普段から財布を入れている場所に手を当てる。そこには普段通りの感触がなかった。

 一度無視したにもかかわらず、もう一度後ろを見るのは気が引けるが、流石に財布を置いていくことは出来ない。あれには、身分証やらが入っているのだ。

 先程の呼びかけで、初めて相手の存在に気が付いたかのように努めて、振り返り目を向ける。

 子供は、その足で少し離れた場所にいる僕まで、財布を渡しに来てくれる。

「ど、どうぞ!」

 真っ赤な鼻とキラキラした瞳、そして笑顔を僕に向け、子供にとっては少し大きい長財布を両手で渡してくる。

 こんなことを言ってしまったのは、寂しさのせいか、それとも疲れか。おそらく、寂しさのせいだろう。


「ありがとう。ところで、今から何か用事あるかな?」

 

 ※※※

 カンカンと辺りに階段を上る音が響く。

 誰かに見られてはいないか、周りを見渡すが周囲に人影はない。

 背中に、子供を背負い急いで自分の部屋の扉の前へ向かう。

 最後に、もう一度同じ階の人の気配の有無を探り、片手で子供を背負いなおして右手でポケットから鍵を取り出す。鍵穴になるべく音が鳴らないように差込み、ゆっくりと回転させる。

 ガチャリという音。

 毎日、二度以上は聞いている聞き慣れた音がやけに異質に響いたように感じた。

 アパートに住んでいる他の住民に見られないように急いで扉の向こう側へ飛び込み、後ろ手で鍵を閉める。それからバクバクと脈打つ心臓を何とか落ち着かせようと呼吸を整えながら、靴を脱いで部屋に上がった。

 背に目を向けると、背中の子供はすやすやと寝息を立てて穏やかに眠っていた。

 とりあえず、しっかりとした所で寝かせようとそのままベッドへ向かう。そして、背から子供をベッドに寝かせ、手を洗うために洗面所へ向かった。 

 ハンドルを捻り水を流す。この時期の水道水は凍ってしまいそうな程、冷たくて思わず声が零れてしまった。

 冷たさに耐えながら、流水で手の汚れを落とし、顔も洗う。それからふと、鏡を見る。そこに写っていたのは、酷い隈が目の下にあり、目が少し落ち窪み顔が少し青白くなっている男がいた。

 僕だ。

 その僕は記憶の中にある自分よりも遥かに不健康そうで、人生を諦めているようであった。

 そういえば、いつからか鏡でしっかりと自分の顔を見ることも無くなってしまった。鏡が見れないほど、忙しかったわけでは無い。もしかしたら、僕は希望を失った自分を見ることを無意識のうちに避けていたのかもしれない。

 もう一度、冷水で顔を洗い流して部屋へ戻った。


 部屋に戻っても子供は寝たままだった。そりゃ、子供があんな格好で真冬の夜を歩いていれば酷く疲れてしまうか。なんて考えながら冷えた部屋を暖める為に暖房をつけた。その後、冷蔵庫から缶ビールを三缶ほど取り出して、テレビを眺める。

 大体、三つぐらいのテレビ番組を見終わったぐらいに、手元にあったビールが尽きた。新しいのを取りに行こうと、立ち上がった時に後ろからざざっと布が擦れるような音がが聞こえる。振り返ると子供が穏やかな寝顔を晒しながら、掛布団を足で蹴り退けていた。

 すぅすぅ、と寝息を晒す子供と、酒臭い息を吐く自分とを比べてはぁ、と大きな溜息が口から零れ落ちた。

 改めて自分のしでかした事の危うさを知る。

 不思議なものだ、素面の時よりも酒に酔った状態の方が冷静に物事を考える事ができるなんて。


 でも、もう家に連れ込んでしまった事実は消えることは無いし、子供の寝顔を見ていると自分が間違ったことをしたとは思えない。もしも、この子を見捨てていたらずっと心の腫瘍として忘れることができなかっただろうから今の自分の行動は正しいのだ。


 そう心に言い聞かせながら、蹴り退けられた掛布団を掛けなおしてやる。

 その時、ふと夕食を食べていないことを思い出した。そのことを思い出すと、先程までは無かった空腹感がダムでも決壊したかのように一気に溢れ出してくる。

 何か適当な物でも作ろう、そう思い立ち冷蔵庫を開けるが、中は空。

 そういえば暫く家で料理をした覚えがない。こっちに引っ越してきてすぐは毎日自炊をしていた覚えがあるけれど、何時からか家に帰れば料理をする気力もなくただ寝るだけの日々を送っていた。

 ごそごそ、と流しの下にある収納スペースを漁ってみる。すると、日本で一番有名であろうカップラーメンが4つ程、見つかった。

 やかんに水を入れてお湯を沸かす。少しテレビを見ながら待っていると、やかんが甲高い音を鳴らして、水が沸騰したことを伝えてきた。

 その音で、ビクリとベッドで寝ていた子供が目を覚ました。

 先に火を止めて、カップラーメンに湯を注ぎ、スマホのアラームを三分間でセットする。


 子供の方へ向かうと、子供は目を眠たそうに擦りながら、「ここは何処?」と僕に問いかけてきた。

 何と答えればいいのか……。はっきり言って、法律的には僕はただの誘拐犯なのだ。

 僕が答えを探している間、沈黙が二人の間に漂う。次第に僕は、子供へ――正しい答えを持ち合わせていないわけでは無いが――伝えることのできる回答が思い浮かばずに、何とか誤魔化せないかと考えていた。

 だが、そうした沈黙は鳴り響くアラーム音によって遮られた。


「取り敢えず、ご飯食べる? カップ麺だけど」

 そんな俺への回答に、子供の首は勢いよく縦に振られた。

 ※※※

 それから、無事にご飯を――子供がカップ麺を勢い良く啜り、むせたりといったことはあったが――食べながら、子供の名前や家などを聞いたり、風呂に入れて――ちなみに、子供の性別は男だった――やったりした。


「ねぇ、おじちゃん」

 風呂上りにゆう――子供の名前らしい――の髪を乾かしている最中に、前から声がかけられる。

「うん?」

「僕と一緒に遊びませんか?」

「今から?」

「うん」

 二人で遊べるものか……と家にあるものを適当に思い浮かべてみるも、良さげなのはトランプしかない。

「トランプしかないけど、いい?」

「うん」


 それから二人で床にトランプを裏返して並べて、神経衰弱をして遊んだ。想像以上に白熱した戦いとなり、まるで僕自身も少年になったかのような錯覚を覚えた。そして、気が付くと朝日が窓から差し込んでおり、僕は寝てしまっていた。

 のそり、と起き上がり寝惚け眼で辺りを見渡す。

 流しに置かれた二つのカップラーメンの亡骸と床に散らばったトランプ、コンセントに刺さったままのドライヤー。

 そこに予期していたはずの人はおらず、散らかった部屋の様子しかない。


 昨日の出来事は夢か幻覚だったのか、と考えながら今日も出勤する為に身支度を整える。幻覚を見たおかげかで溜まりに溜まったストレスや疲労が発散されたのか、顔を洗う時に見た自分の顔は昨日の夜よりも幾分か正者らしい顔つきに戻っていた。

 スーツに着替え、革靴を履き家から出ようとすると、家の鍵が開いていた。

 はっと気付き、扉を開け勢いよく外へ出る。

 外は昨晩に降った雪で一面真っ白に変わっており、そこには消えかけの白い足跡が続いていた。



 この日、僕は初めて意味もなく仕事を休んだ。

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