タンバリン

星 太一

タンバリン


 やっぱり私の近所にも、他の地域と同じようにピアノ教室がありました。

 地域に一つ、ピアノ教室。

 そんな決まりみたいなものをきっちり守るが如く、こんなド田舎にもピアノ教室はありました。

 もちろん、一日の大半を自然と男子と泥塗れのスニーカーと共に過ごす私には無縁の世界でした。あそこに行くのはおしとやかな女の子かフワフワのワンピースに巻き髪のお嬢様。

 音楽は確かに好きだったけれど、ピアノを習う為にこのはつらつとした田舎の生活を捨てるのは嫌だったのでした。


 だけど。

 中学二年生のある夏の日。

 まさかあんな奴からあんなお誘いを受けることになろうとは……!


「お前、今度の文化祭で俺のピアノの相手しろ」

――いや、絶対に無理だ!



 〇月×日 天気は晴れ。

「あーやん、おはよー。今日もあっちいねぇ」

 下駄箱で上履きを履きながら鈴野ちとせが話しかけてくる。いつもはふわふわな彼女のボブヘアーが汗でじっとりと頬に張り付いている。これを見るといつも夏だなって思う。あとは夜に蛙が近所迷惑な位鳴きまくってる時。

 彼女は私の幼馴染で小学校からの親友。マイペースだがいざという時は頼りになる子で私のことをあーやんなんて可愛い呼び方で呼んでくれる唯一の人である。(まあ野猿みたいな生き方してきちゃったからね)

「そうだねー、アイス何本あっても足りないよ。……今何度なの?」

「えっと、三十度だって」

「うわ、溶けるー」

 二人で大きなため息。近所の高校生のお姉さん曰く、高校位になってくると、教室はエアコン完備で自販機まで学校にデデンと据えつけられているらしい。

マジで羨ましい。

「中学校なんて扇風機しか無いもんなー」

「ほんとほんと。集団熱中症にでもならなくちゃ大人は動いてくれないからねー。……いっそのことなっちゃうか。集団熱中症」

「……いや、それは本気で笑えないかな」

 ちとせは偶に真顔で怖い事を言うことがある。


「おはよー」

 教室に着くとざわってなった。

 普段なら男子が振り向きざまに「小麦、おはよう」とか「よう小麦、サッカー部入らねえ?」とか私の小麦肌をからかってくるのに、今日はそういうのが全く無い。

 理由は知ってる。

 私の机のそばでキザに腕組んでる「あいつ」のせいだ。

「やっと来たか。野上あんず」

「おはよう、秀星くん」

「昨日の件だが」

「無理って言ってるでしょ」

「音楽の授業取ってるくせに。ステージに立つのが怖いだけだろ」

 訳の分からない論理を展開させて訳の分からない挑発をしてくるあいつをキッと睨む。

「だから本当にピアノは弾けないの。他にピアノ弾ける子沢山いるでしょ。他あたったら?」

「お前じゃなきゃダメだ」

 やめろ、そういう発言。勘違いされる。

「何でよ?」

「他の奴らが俺に付いてこれる気がしない」

「いや、私はそれ以前の問題なんですけど」

「謙遜するな、お前のことは俺が一番よく知ってる。なんたってずっと見てきたからな」

 だからやめろ、そういう発言。誤解しか生まねえ。っていうかどこでどう判断してそういう発言をしたんだお前は。ストーカーか。ストーカーなのか。

「だから、何で私なのよって聞いてるの!」

 一瞬の間。

「それは……ここでは言えない」

 なんで言えないんだよ。

「と、とにかく! とにかくだ! どうしてもお前が必要なんだ! だから――」

「あー分かった分かった! もう分かったから! その誤解生みそうな発言もうやめて! 取り敢えず放課後に音楽室行くからそこで決めよう。マジで弾けないから覚悟しておいて。それで良いんでしょ?」

 私が早口にまくしたてるとあいつの顔に笑顔がぱっと花咲いた。

「おお! 待ってるぞ!」

 そう言いながら手をぱっと握ってくる。――よせ、恥ずかしい!

「それじゃあな!」

 そう言って自分の用を済ませたあいつはさっさと自分のクラスに帰っていった。

 そして案の定騒がしくなるクラス。

「小麦が告られた! 天才に告られた!」

「野猿と王子が付き合うぞ!」

「いやあ小麦ちゃん、おめでたですなあ」

「小麦さん、感想をどうぞ!」

「こ、こら、そんなんじゃないから、あいつが勝手に! ああもう、静かにして! じゃなきゃ怒るよ!」

「わああ、野猿が怒った!」

「野猿じゃねえ!」

 どれもこれもあいつ――竹下秀星のせいだ!


 竹下秀星。巷で有名な天才少年ピアニスト。世間の人から「音楽の神に愛されたピアノの王子様」だとかなんとか言われてちやほやされている中学二年生だ。

 幼い頃からピアノの英才教育を受けてきた彼は何度も国際ピアノコンクールで入賞し、テレビに何度も出た。よって超多忙なので学校にはほとんど来ないし、部活にも入っていない。これでも同じような立場の人の中では学校に通っている方なんだそうだ。

そんな多忙な若きスター秀星だが、イケているのは何もピアノだけでは無い。頭も中々良いみたいだし、習い事は完璧にこなす。料理上手で英語もペラペラ(第二、第三外国語まで完璧に習得しているとかいう噂まである)極めつけには容姿端麗で、男のくせに私より指が細いときた。ドラム缶で大根足の私にとってはムカつく要素しか揃っていないマジな王子様である。

 ひとつ救いなのはファンクラブは無いということ。余りにも遠い存在の人(及び、あの高慢ちきな性格)なので憧れ自体はあってもとっつきにくいのだ。へへ、ざまあみろ!

「いや、秀星君のファンクラブあるらしいよ。去年の四月に発足したって。それにあれは高慢ちきでは無いかな。むしろ純真というか、何というか……無垢、だよね」

 ちとせが飴を口に放り込みながらそう言ってきた。そのまんまバリバリ噛み砕く。甘いリンゴの香りが昼下がりの空っぽの教室にふうわり漂った。

「え……あんなのにファンクラブあるの」

「あんなのって……あーやん口悪すぎ」

「あるの?」

「おたくのお隣さんの友美ちゃん、会員だよ」

「え!? やばい、殺される!」

「確かにさっきのことをそのまんま嘘偽りなく言えば間違いなく殺されるだろうね。まあ、彼女はあーやんと秀星君が付き合うことは百パーあり得ないって言ってたから多分大丈夫だと思うけど」

「って、てかちとせ、なんで私があいつのこと高慢ちきとか思ってるの分かったの!?」

「え? 自分で言ってたやん」

「言ってた?」

「うん。え? 自覚なし?」

 私がこくりと頷くとちとせが流石に顔を歪めて

「あんた……自分の言動と背後にだけは注意しな」

と忠告してきた。

 ……怖い。

「まあまあ取り敢えずその話題は置いておくとして、良かったじゃないですか。声かけてもらえて」

「いや、災難でしかないよ。ピアノのドの鍵盤がどの鍵盤かも分からないのにさ」

「ダジャレ?」

「急に言われても困るっつうの」

「そりゃあ楽器はてんで駄目だもんね、あーやんは。歌はうまいのになんかもったいないなー」

「うーん、確かに歌とか打楽器なら何とかなるんだけどね。奴はピアノだから。しかも今年で最後なんでしょ? 責任重大すぎる……」

 ――あ、そうだ。一番大事な話をしてなかった。

 私が一体何に誘われたのかって話だ。

 うちの学校の文化祭は毎年秋に二日間開催される。その二日目に行われる合唱コンクールの休憩時間に毎年開催されるのが秀星のソロピアノコンサート、略してソロコンだ。――とは言っても今年が二回目で、しかも最後。

理由は単純だ。

来年から秀星が本格的なピアノ留学をする為だ。

 それを彼が一番最初に伝えたのはAクラスの音楽の授業でのこと。(これも説明し忘れていたが、うちの学校では音楽と美術の授業はクラス分けがなされており、その選択方法はランダムだ。私は幸か不幸か秀星と同じAクラスだった)彼は来年ヨーロッパの音楽学校に行くことが正式に決まったことを告げ、その後合唱コンクールでのソロコンを今年は連弾にさせて欲しいと言った。ここまでの私はただの傍観者で他の人たちとすごいねーなんて言って拍手とかしていたお気楽者だった。

 しかしその後の展開が私をお気楽者に留めさせてくれなかった。

 もう相手は決めてあるとキザに言い放った「奴」はツカツカと私の目の前まで歩み寄り……。

「お前、今度の文化祭で俺のピアノの相手しろ」

 音楽室中が静かになったのを今でも鮮明に覚えている。

 ……、……。

「おーい何しとんの。聞いてる?」

「え、あ、ごめん。何?」

「だから彼にはちゃんと『ピアノは全くもって嘘みたいに弾けません』って伝えるんだよって言ったの。全く、どの辺りから妄想の世界に入ってたの?」

「えーっと、どこだったかな?」

「もうー、貴重な昼休みの時間位は元気はつらつでいてよね。あーやんはそれだけが取り柄だったじゃん」

「そうだけどね……」

「大丈夫だって。あーやんなら出来るから」

「うん。その辺は心配しないで。私も断る気満々だから。――ただ、ね?」

「ただ?」

「断れなかったらどうしよう……って思って。だって今年で最後だよ? 今朝も土下座しそうな勢いだったし。断って泣かせたら友美ちゃんに殺されるし」

「あーそれはあるね」

「そしたらどうすれば良い? 友美ちゃんに代わってもらえばいいかな」

「ばあか、ピアノには『人』が出るんだぞ。その時はその時。私が練習手伝ってあげるから」

「本当?」

「本当だよ。なんたって今年の発表会で『エリーゼのために』弾くんだから。期待しといて」

「そうじゃん。ちとせ、近所のピアノ教室通ってたじゃん。すっかり忘れてたよ」

「忘れんな。ちゃんと今年も来るんだぞ?」

「もち」

 私が親指を立ててそう答えた時、ばっちりなタイミングで昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に響き渡った。

「それじゃあ行きますか。放課後、頑張ってね」

「何とか断ってみせるわ」


 こういう気持ちの時、時が経つのは本当に早い。

 気付いたら机を運んでいた。ほうきが床のほこりを巻き上げる音が遠くに聞こえる。

 太陽はすっかりオレンジ色に焼けて、山の奥へその身を隠そうとしているのが嫌でも分かった。

 放課後が来た。運命の放課後。

 うちの学校は音楽室が二階にある。他の教室とは違う、大きな金庫についていそうなドアノブや、音楽室前の廊下のちょっとおしゃれな手すりに胸を高鳴らせたのはおよそ一年前。

 時が経つのって、早い。

「失礼しまーす」

 音楽室のドアを開けると――。


 息を呑んだ。

 まるで人が変わったような、霊が取り憑いたかのような恐ろしさ、オーラだ。合唱コンクールの時はあんなに眠かった彼の演奏で胸の奥がぶるぶる震える。

 曲のイメージが脳の表面に波のように伝わる。海の全体を覆う霧の中を大きなヨーロッパの船が静かに進む。顔がぼんやりとしている大柄な金髪の男たちが吹きすぐ潮風を顔全体で受け流し、ふとした瞬間に目を凝らした。

『……、……。……!』

 訳の分からない言葉で誰かが叫ぶ。目を凝らした船員は奥のほうへと消えていった。

 その後少しして鐘が大きく力強く二回鳴らされると奥のほうに黒い大きな島の影がうすぼんやりと見えてきた。

 わくわくする。どきどきする。

 怪しく、幻想的な光景にひたすら息を呑む。

 島に船員が上陸する。島は思ったよりも巨大だ。

 霧はまだ深く立ち込めている。しかし少しずつ島の容貌が明らかになってきた。

 ツタはそこら中に絡みつき、石造りの建物がそこら中にごろごろあった。

 ――なんだろう?

 船員全員が興味不安期待を胸の中にぐちゃぐちゃかき回らせてそこら中を探検して回る。

 と、突然船長と思しき人が地図を手に興奮気味に船から降りてきた。

『……、――……!』

 何て言ったのかは分からなかったが、何故だか意味ははっきりと分かった。

『これを見ろ! この島は地図に描かれていない幻の島だ。恐らくこれは太古より語り継がれてきたアトラス文明眠る島。その巨大文明は世界中に七つの国を独自に持ち、七人の姫をその国の主として置いた。彼女らがこの島に集いし時、大いなる神秘、すべての文明の秘密は解き明かされるだろう。さあ、これは遥か昔、行き過ぎた技術を持った文明人の都アトラスの話だ。霧に常時囲まれたこの都には多くの金銀財宝が眠っていた。しかしある時、錬金術か科学か何か、大きな技術の暴走によりこの島は沈んでしまったとされていた! しかし我々はその地に今立っている。さあ行こう! この先へ! ロマンにその人生の全てを懸けた者よ! いざ行こう!』


「ああ! これは喜びの島! 恐れは気にせずさあ行こう!」

 船長の言葉の後盛大なエンディングを迎え、重い低い音がズンとピアノに押し込まれた。

 最高だ!

「アッハハハハハハハ! まるで劇場だ! アハハハ……」

 と、突然雰囲気をぶち壊す大きな笑い声が聞こえてきた。その声の主はピアノの前に座り、身をよじらせている。

 ――しまった、やらかした! きっとまた声に出しちゃったんだ!

「古代文明アトラス、さあロマンに人生を懸けた者よ、さあ行こう! 誰だよ、アハハハ……」

「笑わないで! 初めて聞いたんだけど、何か、その、感化されたっていうか……ああ、もう笑わないで!」

「ハハハ……わりぃわりぃ、あんまりにも面白かったからつい……ハハハ」

「……」

「そうすねるな。よく来てくれた、本当にありがとう。話は分かってると思うが、改めて言おう。今度の文化祭のソロコンで是非君に……」

「ああ、その話なんだけどね。やっぱり私には秀星君の相手は出来ないと思うの」

「……? どうして?」

「いや、これも改めて言うことになるんだけど、私、ピアノ全く弾けないから」

「え?」

「え? じゃねえ。全く弾けねえわ」

「え? 全く?」

「全く」

「全然?」

「真ん中のドがどこにあるかも知らないもん」

「ええっ!? 本当に全く弾けないの?」

 ――ってずっと言ってたよね? 何回も何回も!

「いや……何かの間違いだ。ちょっとここに座って。どれ位のものか見るから」

 秀星が立ち上がり、先程まで自分が座っていた椅子に私を誘導する。ちょっと憧れていたあのピアノの椅子に初めて座った。それはとても温かかった。

「ショパンの子犬のワルツは弾ける?」

「何? それ」

「……ベートーベンの月光は」

「ああ! 月光ね?」

「そう! 弾ける?」

「あの、テテテ、テテテ、テテテ、テテテってやつでしょ?」

「そう、だけど……良いや。ショパンの幻想即興曲は?」

「あのぐちゃぐちゃしてるやつね?」

「……メンデルスゾーンのメヌエット」

「えん……でる?」

「エリーゼのために」

「あ! 今度ちとせがそれ弾くよ」

「猫ふんじゃった」

「ねこふんじゃったーねこふんじゃったーねこふんじゃーふんじゃーふんじゃっ――」

「カエルの合唱!」

「ドはどれだろう」

「……、……。……ファのシャープはどーれだ」

「ファ!? しかもシャープ!? え、えっと、多分これ!」

 ――ミー。

 空しく「ミ」の音が音楽室全体にこだました。

 あ、終わった。

「……」

「……」

 沈黙の時間がピンと張り詰める。

 予想外のポンコツぶりだったかしら……。

「……あ、あの」

「ん?」

「予想外、だった?」

「ちょっと黙ってて」

 怒られてしまった。本当は私の話を全く聞いていなかったこいつが悪いのだが。

「ここまで弾けないとは……」

「ほれみろ言ったこと」

 頭を抱えだす秀星。ちょっと可哀想な気もしてくる。

「わざとじゃないんだよな?」

「閻魔様に誓って言おう。全く嘘はついていない」

「マジかー」

「そういう訳なの。絶対に弾けない、だって今まで全くピアノに触ったことなかったんだもん。今からだと絶対に秀星君のレベルには間に合わない。例えるならねー、チーターと亀なんだよ、月とゾウガメなんだよ、分かる?」

「分かる」

「今からならまだまだ間に合うから。他の人探したら?」

「……」

 また沈黙が流れた。秀星はうつむいたまま顔を上げもしない。そのままいつまでも考え込みそうな勢いだ。

 流石にここまで放っておかれるとちょっと心配になってしまう。

「おーい……秀星くーん」

「……」

「もしもーし」

「……」

 駄目だこりゃ。

ま、伝えたいことは伝えたから帰るとするかな。

「じゃあ私帰るよー……」

「――ま、待って!」

 忍び歩きで音楽室を出ようとした私の腕を奴がガシリと掴んだ。表情に必死な様子が浮かび上がっていた。それが夕日に照らされて顔はオレンジに染まり、瞳は一層私に何かを訴えかけた。

ええい、そんな憧れのシチュエーションを切り札に出してきたところで今更遅いわ!

「五か月。五か月ある!」

「五か月しかない!」

「五か月もある!」

「『しか』だよ!」

「『も』だ! 本気でお前じゃなきゃ駄目なんだ!」

「だから何で! 何で私じゃなきゃ駄目だっていうの? 馬鹿にしたいの? コケにしたいの? 笑いものにしたいの? さっき見て分かったと思うけど、本当壊滅的に弾けないの。私あなたの最後のステージを台無しにしたくないから! お願い、分かって!」

 ここまでまくし立てた時。するりと掴まれていた腕がいきなり自由になった。肩で息をしていた。彼の体温を急に感じなくなった部分が妙に寒く感じた。

 夏なのに。

 腕が自由になったのなら早く行ってしまえば良い。それなのに足が動かない。

 あいつの顔が悔しいみたいな、悲しい、みたいな……そうやって変な顔したからだ。

 喉の奥が妙にばっくり開いて息がせき止められる。こいつのこんな顔初めて見た。

 いつもみたいに自信満々な顔してくれなくちゃ逃げるきっかけがないじゃないか。

「悔しいけど、俺の力じゃ駄目だからだ」

 しばらくしてぽつりぽつりと語りだした。

 何も言えない。

「お前にこれでも頼み込むのは悪いって分かってる。でも、どんなにお前が弾けなくても俺はお前じゃなきゃ駄目だって思ってる」

「……」

「俺がなんとかして見せる。絶対これから弾く曲だけでもなんとか形にして見せるから」

「……」

「俺は、俺は答えを引き出したいんだ。追いつけないから、分からないから。悔しいけど、見失っているから」

「……意味分からないよ。何が何だか分かんない」

「……っ。だから」

「もう良い、良いよ。それ以上言わないで。なんか胸の奥がいっぱいになるから」

「う、ん」

「五か月、だっけ?」

「うん」

「本当になんにも出来ないけど、それでも良いなら使って」

「……! い、良いの?」

「もうこれ以上あんな顔してほしくないから」

 また笑顔がぱっと花咲いた。

「ありがとう!」

 また手を握ってきた。

「やめてってば! 恥ずかしいから!」

「それじゃあさっそく始めよう。死ぬ気で覚えて」

 いきなりオーラが変わった。喉が思わずこくんと鳴った。

「分かった」


「それでこんな曲やることにしたの!?」

「どうしよう、ちとせ……」

「バカあーやん!」

「だってこんなの簡単だって言われたから……上で良いって言われたから……」

「上の方が難しいじゃん!」

「五か月で何とかなるって……」

「なるわけないでしょ!! せめて五か月ならメンデルスゾーンのメヌエットとかツェルニー二十番でしょ!」

「ううう……! どうかしてたんだああ!」

 恋は盲目? シチュエーションの落とし穴? 結局はイケメンが一番危険、みたいな? 本当に無謀なことをしていると分かってる。

 渡された楽譜の題名は「Ocean」

Les Freresという兄弟ピアニストの作った、海をイメージさせる明るい連弾曲だ。

もらった瞬間は「へーこんな私でも弾けるんだ、すごーい」とか言って何とも思ってなかったのに……。いざ家に帰って動画サイトで聞いてみたら一瞬目の前が真っ白になった。瞬時に目が覚めた。

はっきり言って、初めて五か月で弾ける曲ではない。最低でも三年以上は費やさないと弾けないと思う。もしくはそれ以上か……。

「何十分ものスパルタ修行の後に『よく頑張った』と甘―い言葉をかけられて、かなーり調子に乗ったところを突かれたのね」

「この調子なら心配ないだろうって言われまして……楽譜見た瞬間『わー真っ黒』とは思ったんだけどね、何せ稀代の天才ピアニストが大丈夫なんて言いましたから」

「あいつは『天才』だから! あいつの五か月は来世も含んだ二千年だから!」

「キリストと同い年……」

「うまい冗談かましてる場合か! 真面目に考えて!」

「はい……」

またちとせの怒号が飛んだ。あんなにおっとりマイペースのちとせがこんなに焦ってこんなに怒ってるんだ。相当初心者に優しくない曲なのかもしれない。

「どうすんのよ! こんなに難しい曲私の教室で弾ける人誰もいないよ?」

「えええ!? 嘘!?」

「嘘でこんな怒号が飛ばせるかいっ!」

 あ、もう死んだよ……。余りに絶望的過ぎて一生分の三点リーダ使い尽くしちゃいそうだよ……。

「そんな理解に苦しむネタぶちかます余裕があったらとっとと練習するよ! もうここまで来ちゃったら練習するしか道はない! 行くよ、あーやん!」

「は、はいぃ」

 どうやらまた口に出ていたみたい。


 順調に時は過ぎていく。でもだからと言って私のピアノの腕も順調に向上する訳じゃなかった。

 マンガじゃないから。ここは現実なんだ。

地道に譜読み(楽譜を見るだけですらすら弾けるようになる練習)を進め、手の形が違う、違うそうじゃない、ここではこう弾くんだ、なめてんのかと毎秒一回のハイペースで怒られながら練習を続け、気づいたら夏休みの真っ只中になっていた。

 本番まであと三か月。まだまだ序盤の譜読みも終わっていない。

 こういう時ばっかり時間が経つのって早い。


「違う違う! 何度言えばわかるんだ!」

「ど、努力はしているんだけど」

「練習してんのか!」

 バンバンバンバン!

 譜面台が何度も強く叩かれた。

 思わず肩がすくむ。

 秀星も肩で息をしてる。

「なんだよ、その顔は」

「……」

 多分、顔に出ちゃってる。自分でも分かるもん。戻そうと思ってるのに戻らない涙が頬を伝った。

 お互い必死なんだ。秀星は間に合わせたいし、私は私で期待に応えたいし。

 でも一方はピアノと長年付き合ってきた超ベテラン、一方は初めて二か月、おまけに楽器音痴の超ド素人。お互いの努力をあざけ笑うように私の指と頭は混乱してばっかりだった。

 努力は比例するなんて笑える話。頑張れば何とかなるなんて、この年齢になっちゃえば無理だよ。

 考えれば考える程どんどん涙がぼろぼろ溢れた。

「ごめん……ごめん」

 視界の隅で秀星の手が悔しそうにギュッと握られるのが見えた。――嗚呼ごめんなさい。期待ばっかりさせて出来ないなんて一番駄目なのに。私ってば最悪。

 もっと早くにピアノを始めていたら……。

 もっときつく断っておけば……。


 もし秀星が違う学校に行っていれば……。


「もう、やめよう」

「はぁ? おま、何言って――」

「こんなの音楽じゃないよ!」


 勢いよく扉を押し開けて、飛び出してしまった。もう心が限界だった。

 嗚呼、もっと良い別れ方はあったはずだ。どうしてこうなってしまったのか、いつからこうなってしまったのか。

 ぐるぐるそんなことを思いながら学校前の石畳を蹴り飛ばすように走った。

 石畳の感触がジンジン足の裏にしみて痛かった。


 結局、それ以来音楽室に私が練習の為に行くことはなくなってしまった。


 気持ちはもやもやしたまま二か月が経った。

 あの後私は真っ先にちとせの家に行き、彼女の部屋で泣きはらした。

 今まで言えなかったこと、罪の意識、申し訳なさ。

 全部全部聞いてもらった。ちとせはただうんうんとだけ言いながらずっとずっと背中をさすってくれていた。

 それでも申し訳なさがすっかり全部消えた訳ではなかった。いつまでも心の奥にしこりみたいに残っている。

「もう良いんだよ、あーやんは解放されたんだからさ」

 ある日のあの時みたいなシチュエーション。

 今日もちとせは飴を噛み砕く。今日はオレンジ。現実のものよりも甘く加工されているあのオレンジの味。本当はもっと苦い。

「う、うん」

「元々はあいつが悪いんだし。あーやんをうまく丸め込んで出来もしないこと無理矢理やらせたんだから」

「……」

「あーやんが気に病む必要はないの。ね? ほら元気出しなよ。なんならクレープでも食べに行く? 放課後なんだしさ」

「そう、だね……」

「んもう、どうした? いつもの元気はどこ行った? ほらほら行くよ!」

 鞄を背負ってあの日の石畳を歩く。影が長く伸びていた。

 音楽室からは締め切った空間からやっとの思いで飛び出してきた音符が風に乗ってやって来ている。

 きっと秀星だ。でもあの曲は「Ocean」じゃない。でもどこかで聞いたことがある曲だ。

「何なのかねー、あーやんめっちゃ傷ついてるのにこれ見よがしに弾きやがって。相手にすることないよ、あーやん。それより早く行こう! クレープのお店閉まっちゃうよ」

「う、うん」

 ちとせに手を引かれて私は学校に背を向けた。

 どんどん聞こえにくくなる音。

 なんだか後ろ髪引かれる思いだ。


 ――あの音にもう興奮して地図を広げた船長はいない。形式化された音の中に海も広がらない。霧も見えないし、鐘の音はとてもじゃないけど聞こえない。


「喜びの島……」

 その瞬間ハッとなった。

「今、凄い音しなかった!?」

「した……!」

「ピアノに誰かが突っ伏すような……」

 ――秀星!

「ちとせ先帰ってて!」

「え、え? 何? あーやんどうしたの?」

「秀星が、倒れたかもしんない!」

「何言ってんの、さっきの人たちの会話気にしてんの? あれは大丈夫だよ、ピアノを思いっきり叩く音だから」

「違ったらどうするの!?」

「違わないから」

 淡々と言うちとせの態度に頭が急に寒くなった。――今思えばこれを頭が真っ白になったというのだろう。

 だから何て言ったかは正直なところ全く覚えていない。

 ただちとせに後から聞いたら私は泣きながらこう言ってたんだそうだ。


「ちとせは心配じゃないの!?」


 思い切り階段を駆け上がり無音の教室に飛び込む。

「秀星!」

 そこに広がる光景を見て愕然とした。椅子も机も片づけられた広い床の上で大の字になって秀星が寝転がっていたのだ!

 どうしよう、私のせいだ! 勝手にいなくなったから、心労をかけたんだ。あんなに必死になって教えてくれたのに、私のバカ、バカバカバカ!

「秀星!」

 慌てて駆け寄り肩をがくがく揺らすと――。

「わあわあ、や、やめれ!」

 案外簡単に目覚めた。

 あ、あれ?

「倒れたんじゃないの?」

「暑くもないのに倒れるわけないだろ。上手くいかなくて鍵盤思い切り叩いただけ。ちょっとピアノに悪いことした」

 そっか。そうだったんだ。良かった、本当に。

「とにかく良かった……」

「それはそうと、お前あんずじゃないか」

 ――あ。

「お、おじゃましましたあああ!」

「待てこら!」

 やばい、やばいやばい!

 逃げなきゃ殺される!

 ――と思ったのだが、流石は男子。私なんかひょいと追い抜かして音楽室の扉を背に回し、ガシャンと鍵を閉めてしまった。

 今度こそ殺される! ぼっこぼこだ! ぼっこぼこのガチャグショドカバキだ!

「逃がさねえ」

 威厳たっぷりに背後で不動明王みたいな炎をたぎらせて迫ってくる秀星。

 後ずさりしながら距離をとるものの、ここは部屋の中。すぐに壁際に追い詰められてしまう。

 へたへたと座り込んだ。

 わあ、なんて迫力。現世にも鬼はいたのだなあ。

 嗚呼、来世は少なくとも平穏無事に過ごしていたい。

 ――と、突然相手もしゃがみこんだ。

「ひぃぃいいい!」

 何する気なんだ、何する気なんだ!

 思わず腕で防護するような姿勢をとった。

 奴の口が開く。きっと炎でも吐くんだ!

「お、お助けぇえ!」

「何言ってんだ、いいからちょっと歌え」

 ……。

 ……え?


「な、何歌えばいいの?」

「Memory」

「『CAT』の?」

「そう。歌詞見るか?」

「あ、いや、良い。大好きな曲だから」

「だろうな」

 前奏がしっとりと流れた。

 曲に合わせて息を吸って――。


 老いぼれてしまった老猫の記憶だ。それがMemory

 昔の栄光にしがみつきたいんじゃない。ただ恋しいだけでも片付けられない。悲しいんだ。悲しくてあったかいんだ。こんなに若いちっぽけなただの少女じゃ分からないような悲しみと、優しさと嬉しさと……色々な思いが混ざり合った彼女の記憶。月光にもかもかと照らされた霧の街が脳裏に浮かぶ。彼女の悲しさも愛情も全てが私には体験できない、愛しき記憶の歌なんだ。

 私はこれを初めて聞いたとき、本当に感動した。意識もしないうちに涙がぼろぼろと零れた。

話している言葉は日本語訳を介してしか理解できなかった。本物の英語が何を言っているのか、これ程知りたいと思ったことはなかったんだ。


 これだから音楽はやめられないと思う。


「Touch me! It`s so easy to leave me!」

 嗚呼、本当に、本当に大好きなんだ、この曲が、音楽が。

 胸に響いて染み渡る。これだから音楽はやめられない。

 曲が終わった頃にはいつもみたいにぼろぼろ泣くんだろう。私はこの曲を涙なしには歌えない。


「俺が第二の意味で音楽を凄いと思ったのはお前のこの曲がきっかけだ。魂ががたがた言わされた。学校の音楽の授業であんなに感情を移入させてあんなに大きな声で『泣いた』のを見たのはあれが初めてだった。これが音楽なんだって思った。気づいたら俺も泣いていた。無意識に涙が溢れて息ができなくなった。本当に感動したんだ」


 ぼやけた姿のあなたが言う。――今もその時みたいに泣いているのだろうか。


「音楽室中が静まり返って、ただひとつの声だけがそこに佇んで長い時の記憶を紡ぎ、歌い上げた。幼い頃からピアノに触れているにもかかわらず、俺が見失っていた音楽をその時知れた気がしたし、その時から音楽というものが見えづらくなった」

「……」

「これだから音楽は面白いよ。こんな出会いがあるなんて思ってもみなかった」

 胸がいっぱいになる。彼の表情はまだぼやけてる。想像するしかないけど、きっと彼は……。

「なあ、あんず。もう一回やり直せないか。お前が見ている音楽の景色を俺も一緒に見てみたい。あの時お前がドビュッシーの『喜びの島』を聞いて『古代文明アトラス』って言った時に確信したんだ。俺とは違う景色が見えてるんだって」

「……喜びの、島?」

「ああ、そうだ。――あの時は俺も悪かったかなって思ってる。好奇心だったんだ。喜びの島と違う海の景色を見せたらお前はどうやって歌うかなって思ったんだ。いつの間にか重荷にしてしまったみたいだけれど」

「そうだったんだね……」

「もっと違う方法でも良い。お前とステージに立ちたいんだ。……お願いだ!」

 息を呑んだ。――大丈夫、言うことは決まっている。

「……もう断ろうだなんて考えてないよ。思いをぶつけてくれたし、私もずっともやもやしてたから」

「……」

「確かにあの時はちっとも進まなくて、お互いイライラしてたし辛かった。でも嫌な記憶にかき消されて見えづらくなってたけど、ほんの偶に褒められたときはすっごく嬉しかった」

 無意識のうちに彼の手を取っていた。

「ねえ、あの曲でステージに立とうよ。大丈夫、一か月もあるんだから!」



 文化祭当日。

 私たちは予定通り「Ocean」を曲目に指定して出番を今か今かと待った。

「いつも通りな」

「ハイ」

「恥ずかしがらずに行け」

「ハイ」

「楽譜のこの部分をちゃんと歌うのを忘れずにな」

「ハイ」

「……緊張してるのか?」

「ハイ」

「……」

 すっと秀星が目の前に立って私の肩を掴んだ。

「大丈夫、俺がついてる」

「……!」

 どうしてこんなに頼もしいんだ。全く、場数を踏んでる奴は凄いなあ。

 その瞬間アナウンスが会場に響いた。

〈以上で第一部を終了します〉

「行くぞ!」

 背中がバシンと叩かれた。一瞬息が出来なくなる程強かったけど責める気にはならなかった。


 まずは秀星が一人ステージに上がり序奏を演奏する。私が全く弾けないので少々編曲してもらったのだ。

 グリッサンドが入ったところで私が滑稽なステップで調子よくステージに上がる。手にしているのは……。

「あれ、タンバリン?」

「ぷっ、小麦らしいや」

 シャンシャカ、タンバリンを鳴らして踊る。タイミングの良い所で私も偶にピアノを触る。部分的に切り取ってソロだけでは補えないところを私が弾くという算段だ。らしく聞こえるように彼が編曲したのだから本当に天才は凄い。

 会場はもちろん大盛り上がりだった。手拍子いっぱい笑いもいっぱい! 一か月間みっちり練習しまくった甲斐があった。音楽って本当に楽しい!

 ――、――。

「「ありがとうございました!」」

 曲が終わって礼をしたにも関わらず拍手は鳴りやまない。

 ――まずい、アンコールだ。何の用意もしてねえ……。

「ねえ、どうしよう」

 彼に耳打ちすると

「俺にやらせて」

と言った。これは助かる! これだから天才はべん……じゃなかった、凄いなあ。

「だからお前は歌え」

「……っ、は!? い、いやいやいや、持ち歌なんて」

「Memoryがあるだろうが」

 あ。そうだった。

「俺が旅立つ前に『ステージの上』で聞かせてくれよ」

「……!」

 私は力強く頷いていた。


「あーやーん!」

「あ、ちとせ!」

「良かったよぉ! 何とかなっちゃうもんなんだねぇ。あんなに難しい曲を楽器音痴のあーやんが」

「楽器音痴は余計だよ」

 そう言って二人で笑いあった。やっぱり止めなくて良かったな。だってこうやって心の底から楽しめたんだから!

「あ、そうだ。ところであーやん、君のバディ君にはお礼言ってきた?」

「バディ君?」

「秀星君だよ」

「あ! してない!」

「お礼は早いうちに行ってきなよ。多分奴は今日も音楽室だよ」

「そうだね。それじゃ行ってくる!」

「ほーい、いてらー」


 オレンジの夕日が廊下を温かく照らす。廊下のちょっとおしゃれな手すり、金庫のドアノブ。五か月間……いや、正しくは三か月間嫌という程見続けてきたその景色がもうすぐ終わろうとしている。

五か月って本当あっという間だ。

 扉を開けるといつものように秀星がピアノを弾いていた。今日のは……悲しいと嬉しいが非常に絶妙なバランスで混ざり合った悲劇的な恋の歌だ。

 男はある女性を一目見た瞬間に恋に落ちた。学校ではマドンナと呼ばれる程奇麗な女性だった。しかし男はとある事情があって彼女にその思いを伝えられずにいる。酷くもどかしい思いを抱えながら彼らはただの友達として過ごしている。

しかしどんなに思いが伝えられずとも彼は一方で幸せだった。彼女と恋をしている錯覚をし、一人どんどん舞い上がっていった。加速していく想い、深くからこみ上げる彼女への想いに安らぎと不安を日々感じた。安らかに過ごす日も激しく情熱的な日々を過ごす日も、彼女への喜びと絶望を感じずにはいられなかった。

「ショパンのバラード一番だよ。君にはこの歌が何に見えている?」

「酷く悲しい恋の歌……喜びと絶望が入り混じっているよ、こんな想いになったらきっと私、生きていられないかもしれない」

「恋、か……。まさにぴったりだな、この歌に」

「どうして?」

「恋は盲目、恋はやがて冷める。あの時熱をもって確かに感じていた頬の紅潮を、人はやがて忘れてしまう」

「……」

 曲はいつの間にか寂しくなっていた。

「これだから音楽は本当に面白いよ。まさに鏡だ。人間をよく表している」

 ――突っ伏した。今、曲の中の男が彼女とのほぼ永遠とも言えそうな別れに絶望して床に突っ伏した。

 泣いた……。

「なあ、お前には今何が見えている? 俺の想像している通りに曲が見えているか?」

 瞬間的に自分と重なった。そうだ、これから少しも経たない内に彼は遠い場所に旅立ってしまう。

 さっき自分で言った言葉がふと思い返される。

『こんな想いになったらきっと私、生きていられないかもしれない』

 気づかなかった……。これが、恋。

 いつの間にか彼への想いは逆さまになって、こんなにも取り返せない状態になってたんだ……。

 酷く、辛い。

「一時期ちょっと大変だったけど、俺は楽しかったよ」

「わ、私も!」

「気付くには遅すぎたなぁ、お互い」

「うん……」

「こうすれば良かったってなるのがもうちょっと早ければ結果はもう少し変わっていたかもしれないな」

「そう、だね」

「違う曲にしたり演出をもうちょっと変えたり。朗読会にするのもありだったかもしれないな」

「……そうだね」

「……」

「……」

「……なあ、あんず」

「……」


「その想い、せめて愛であってくれよ」





 それ以来、連絡を取り合うことはなくなった。

「小麦」が聞いて呆れるね、秀星。私ってこんなにしおらしい人だったっけ。

 でもある日新聞を見て嬉しくなったよ。


『日本出身の竹下秀星 国際ピアノコンクールで初優勝! 曲目はドビュッシーの「喜びの島」』


 その時、古代文明アトラスは彼の中でどのように展開してどんな神秘を見つけただろう。






 やっぱり私の近所にも、他の地域と同じようにピアノ教室がありました。

 地域に一つ、ピアノ教室。

 そんな決まりみたいなものをきっちり守るが如く、こんなド田舎にもピアノ教室はありました。

 その存在を知りながら私はピアノを習わなかった。――それに一時期酷く後悔した日がありました。

 でもおかげで輝かしい青春を送れた気がします。

 嗚呼、本当に音楽って面白い。

 今でも私の中には彼とのあの日が鮮明にあります。


 タンバリンを片手にひたすら音楽を楽しんだ。


 ――まあ、三十年も前のことなんですけどね。

 でも、もう少し夢を見させてくださいな。

 だって、あの日の想いは彼への愛でもあるんですから


おわり

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タンバリン 星 太一 @dehim-fake

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