貴女の視る瞳の月

ペトラ・パニエット

夕月詩織の回顧録

 春野未来はるのみらいは、常に遠い目をしていた。

 そんな彼女を追うことが、私の生きる意味だった。

 だからこれは、私、夕月詩織ゆうづきしおりの回顧録にして、墓碑だ。


 最初に彼女を目に留めたときは、いつだったろうか。

 いや、私と彼女の物語に現実的な認知上の話など必要ではない。彼女が私を占めて以来、それらはどうでもいいことだったのだから――彼女の服が四季であり、彼女の言葉が実体で、彼女こそが時だった。

 だからこれは、彼女が春だった頃の話。

 唐突に彼女が「月が綺麗ね」といったあの、月が綺麗な夜のことなのだ。

 そのとき、私の目に夜空も月も見えてはいなかったが、あまりにも真実然として呟いた彼女の双眸には確かにそれが映っているのだと、不思議と信じられた。

 だから、私はこう言ってしまったのだと思う。

「ええ、そうね、とても綺麗」と。

 彼女はそこではじめて私を捉えた。彼女の眼に映る私は、物質のそれよりも幾分落ち着いて、気品のあるように見えた。

 そこから、私と彼女の関係は始まった。


 季節がいくつか巡るまでの間は、彼女が最初に話した。

「今日は風が気持ちいい」だとか、「花が綺麗」だとか、「陽射しがうららか」だとか。

 そういった光景は、常に彼女の瞳に映っていたから、それがどのように見えるものなのかは鮮明に理解できた。

 私と彼女はあのとき、同じものを見ていた。たとえそれが、彼女の眼にしか映らないものだとしても、それは疑う余地のないことだった。

 思えばこの頃が、私にとって一番の幸せな時だったのだと思う。この頃の記憶を思い返せば、いつも二人は笑っていた。

 私は、彼女の眼を通して彼女の世界を見るのが好きだった。


 それがこじれ始めたのは、彼女が「今日は、詩織に私の友達を紹介しようと思うの」と言い出したときだとこれまでずっと思っていたが、今ならわかる。

 互いに名乗りあった日だ。

「そういえば、貴女はなんて名前なの?」と無邪気に訊く未来に、なぜ夕月詩織の名を名乗ってしまったのか!

 そうしなければ、彼女が春野未来を思い出すこともなかったのに。彼女の流麗な声が、それらしからず詰まるのを感じたことを、もっと深く考えたなら。


 ――私たち、もう友達ね。詩織。


 誇らしげにそう告げて私の名を呼ぶ彼女の顔に、そのときの私はあらゆるものを忘れ見惚れてしまっていた。


 春野未来と夕月詩織が友達になったことで、私たちは、ときどき、私から話を始めるようになった。

 なんのことはない。彼女が語らずともその瞳には美しい景色が映っていたし、私は彼女の友だった。

 満天の星河も、桜も、花も薫風も、その他の光景も、彼女の眼に映っているなら、すべて私には見ることができた。

 私たちは隣り合ってものを眺めることが出来ていたに違いなかった――私たちは相も変わらず仲良く笑いあっていたし、二人の間に穏やかな時が流れていたのだから。

 そのためだろう。

 あの頃の私たちがそんな時間が続くことを疑うことがなく、かつてにもまして一緒にいるようになっていったのは。


 さて、未来が「友達を紹介する」といったときのことだ。

 その事をはじめて聞いたとき、私の心に警鐘が鳴り、言い様のないざわめきを感じたのを覚えている。

 それがアンジェリカ・シェラツァード=ネーベンフラウとして表れる直前にはほとんど雷霆らいていを受けたようになっていたが、そのあとの私は不思議と落ち着いていた。

 アンジェリカもまた、彼女の瞳に映るものだった。

 彼女は未来や私より快活で奔放であり、金糸をたなびかせる整った顔立ちの彼女はまた、その姿よろしく気心も良い。

 そんなアンジェリカは未来いわく、昔からときたまふらっと彼女の前に現れるらしかった。

 その日から、私たちの話には穏やかな折々の風景の話の他に、アンジェリカのちょっとした冒険譚が添えられるようになった。

 それでも、私たちは前より一緒にいたし、新たな友のもたらしてくれる話は起伏に富み面白かった。

 私たちはまだ幸せでいられた。

 この頃を回顧するなら、アンジェリカは私たちの良い友人になったが、だがあの警鐘が少なくとも私にとって正しい予感だったということもまた、今では事実だと確信をもって言えることなのだった。


 いくつか季節が巡った。

 アンジェリカは私たちの良い友人だったが、二人きりの時も相変わらず多かったし、どちらも含めるならそれはほとんどのときだった。

 穏やかなときはまだ流れていると思えたが、なにかが不安を感じさせた。それは、新しい友がいつの間にか不在のときが多くなったり、彼女の見ている景色にも慣れてきたためなのだと、そのときの私は解釈していた。


 ねえ、今夜、アンジェリカは抜きで二人きりで話がしたいの――


 未来のその言葉は決定的だった。

 冬の話だ。雪が降っていた。

 彼女の言葉はこうだった。

 ――アンジェリカが昔、彼女の『一番』だったこと。

 ――でも、今は私が、つまり夕月詩織がそうであること。

 ――もう、隣に貴女がいないことを考えられない。

 つまり、告白だった。

 私はもっと、未来の詩織になれることを期待して、それを承諾した。その頃の私にはそれしかなかった。

 彼女と私はその日、はじめて唇を重ねたが、思えば、未来が私に触れること自体、はじめてのことだった。


 アンジェリカはいつの間にか現れなくなった。

 その時間を、キスや、そういった恋人らしいことが埋めているようだった。

 違和感があった。

 なにかがおかしい。

 未来は恋人としての振舞いに関しては普段の儚さを感じさせないほど情熱的で、その熱量は私に多幸感をくれたが、なにかをかけ違えたような感覚を私はずっと感じていた。

 未来の瞳は、まっすぐ私を映していた。


 恋人としての未来はいささか淫らといってよかった。

 かつてなら穏やかに語らうだけで過ごしたようなときにおいても、隙を見れば口づけを交わすことを望んだ。

 そこがどこであっても、しばらくの時を経れば彼女は欲望に従順であった。

 そういったときの恋人の瞳にはいつでも私だけが映っていて、行為のあとに、いつも白い天井が見えた。

 それが言い様もなく不安で、手早く彼女を探しては目覚めのキスを行った。

 そうして彼女の眼に私が映ることに、私は安心していた。


 愛しているといって。

 昔私にみせたような、きらきらとした目を向けて。

 貴女の見る私は、輝いている?


 それが恋人の口癖だった。

 その口癖を聞くたびに私は、あの懐かしい出会いの月を、もう一度二人で見たいと思った。

「愛しているわ、未来」と口にするたびに何かを躊躇い、それでもまじないをするようにもう一度その言葉を繰り返すのが私の口癖となっていた。


 そして『あの日』。

 私は常々思っていた「もう一度ふたりで月を見たい」という願望を口に出してしまった。

「じゃあ、夜を待ちましょうか」

 未来が言った。違う。

「もうすぐね。今夜も満月だそうよ?」

 あの月は満月だった。でも、そうじゃない。

「ほら、見て。天頂にまんまるのお月様!」

 未来は窓の外の月を指差した。

 違う!

「ねえ、なんだか、あの月を見ているとしたくなっちゃった。キス、するね?」

 未来が私を抱き寄せ、口づけをする。

 彼女の眼には私だけが映っていた。

 私はようやく理解した。

 だが、その唇が離れたときに、彼女がはっと声を上げた。

「あなたの眼の中の私、すごく綺麗ね」

 彼女の瞳の中の私の瞳に、愛しい人が映っていた。

「……そっか、詩織。あなたは、のことが好きだったんだね」

 彼女は窓から飛んだ。

 ここは5階だ。


 それからの私は、この部屋、彼女と同じ部屋で、ずっとあの月を見ている。白い天井をしばらく見ていない。

 きっと、あの時。

 私は彼女に連れていかれたのだ。私の愛した人の亡霊と私をつれて、私を愛していた未来が連れていった。

 だから私はもう夕月詩織ではないし、夕月詩織は私から解放されて、未来の本当の恋人になれたはずだ。

 ……あの後、未来がどうなったのかは聞いていない。予想はつくが、聞くことはなかったから、量子的には生きている。そして、生きているなら、夕月詩織と幸せになったはずだ。

 私は夕月詩織ですらない。

 後悔はなかった。

 綺麗なあの日の月が、瞳の向こうに広がっている。


「綺麗な、お月様ですね」


 隣を見れば、どこか未来の面影がある、少女の姿があった。

 聴覚の端に鳥の声を聞いた気がした。

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