ハムスターばいばい 第4話

 二ヶ月前のあの日、私は居間でテレビゲームをしていた。


 隣の部屋から、ママとパパが言い争っている声がした。パパがママを注意すると、ママは必ず言い返した。それにパパがまた言い返して、喧嘩は止まらなかった。


 私は沈黙していた。

 声は聞こえていたけれど、大人が何を言っているのかよくわからない。難しい言葉がたくさん出てくる。二人が言い争っている理由はわからなかったけれど、言葉は理解できなかったけれど、思ったことがある。なぜ謝らないんだろう?と。謝れば終わりになるのに。私はハラハラしているしかなかった。


 たまに、どしんと肉と肉がぶつかる大きな音が、ママの悲鳴が聞こえることがあった。そんな時、私はドキドキが止まらなくなった。もう止めればいいのにと何度も思ったし、実際「喧嘩しないで」と二人の前で泣いたこともあったけど、全て無駄だった。またどちらかが理由を見つけて怒鳴りあいを始めるのだ。そんなことが日常茶飯事で、その日も二人は意味不明なことを言い合っていた。


「だから子供をあの時、ちゃんとおまえが見ていればよかったんだよ」


「なんで私のせいなの? あんたも血をわけてる子供でしょ。全部わたしに押し付けないで」


 「子供」とは私と奈々のことだ。それは理解できた。と同時に私はぞくっとした。「子供」っていう種類でまとめられたのが嫌だったし、とばっちりが私にも来るかもしれないと思った。


 二人はその後も言い争い、もう出ていく、出ていかない、別れる、別れないを繰り返していた。そして

「じゃあ、本当に帰ってこないからな」と言い、パパが出ていった。

 見てはいないけれど、玄関からパパが出ていく音がした。そんなに激しい音ではなかった。出ていったというより、消えてしまった感じがした。一瞬の静寂はママの泣き声でかき消された。

 そこから二度と私は、パパと会うことはなかった。


 ***


 カレンダーは1月14日。

 ママはパパがいなくなってからお酒ばかり飲んで茶色の髪がボサボサになっている。飲んだ缶は片付けないでテーブルや床に散乱している。まだ中身が入っていたり、つぶしてあるものもあった。ママはきれい好きだったはずなのに。今のママは部屋も私も奈々のことも見えてない。ボロボロだ。

 携帯電話を頻繁に手にとってチェックしている。パパからの連絡を待っているんだ。


 奈々は、パパとママのことも知らずに、よだれを垂らして呑気に眠っている。夫婦喧嘩が理解できないのだ。


 ***

 私はどうしたらママを元気にできるか考えた。

「ママ、見て! 今日の桃子、ピンクベイビーズのお洋服!」

 と、買ってもらった服をママの前で着てくるりと回って見せたけど、ママは笑いも怒りもしなかった。私の向こうにある空間をぼんやりと見つめてため息をついただけだった。


 ***


 カレンダーは1月16日


 学校から帰ると、タバコのにおいがした。居間にいくと知らない男がいた。私を見て「これがおまえの子供?」とママに聞いたけれど、ママはやっぱりこの時も答えなかった。

 その人はママと一緒に布団にもぐった。

 障子の隙間から覗いたら、ママが頬を赤くしてはあはあ言っていた。

「ママをいじめないで!!」と勇気を出して言ったら、男に腹を蹴られた。昼間の給食が吐き出そうになった。その時、ママは笑っていた。ゲラゲラと天井を突き破る勢いの声で。


 ***


 カレンダーは1月18日。

 私はママが服や化粧品を旅行鞄に詰めているのを発見した。


「ママ、何してるの?」


 ママはいつものように答えなかった。


「ママ……?」


「……ごめん! もう桃子のこと飽きちゃった! ほんとごめん!」


 宿題忘れてごめんね、というのりでママは両手を合わせて笑っていた。私はまたドキドキが始まった。声を振り絞ってママに聞いた。


「……どうして?」


「思った通りの顔に育たなかったからよ」


 ママは旅行鞄に服を詰めながら私を見ないで言った。


「あとその服、ぜんぜん似合ってないから」


 その言葉を聞いたら、舌べろが渇いて、口のなかがいっきにさみしくなった。ドキドキが最高潮になっていた。息をするのも忘れてる。気がつくと私はおしっこを漏らしていて、足下に黄色い水溜まりが出来ていた。温かい液体は空気に触れるとすぐに冷たくなって、私の心を芯から冷やした。


「なんでおしっこ漏らすんだよ。きったな」


 ママは立ち尽くした私に目もくれず、机の上に紙のお金を一枚置いて、家を出ていった。


 私はそれからどれくらい立ち尽くしただろう?とりあえずおしっこがついた服を着替えて、畳の上で力尽きて眠った。このまま死ねるかな? 死にたいと生まれて初めて思った。


「お腹すいた~」


 奈々が、甘えた声を出して帰ってきて、私は我にかえった。


「き、きょ、今日は、お姉ちゃんがご飯を作るね」


 そうだ。奈々がいることを忘れていた。

 慌てて鍋に水を入れた。お湯を沸かして、とりあえず賞味期限が切れてるレトルトカレーを茹でた。


「お姉ちゃんママは?」

 カレーをくちゃくちゃさせながら妹が無邪気に聞いた。

 私は答えることができなかった。


「ねえ、ママは?」


 妹に言ったところで、何か良いことがある? ない。自問自答しながら、私はぐつぐつと沸騰し始めた湯をじっと見つめていた。


「ママはね……お菓子の国に旅行に行ったんだよ」


 ***



 ママが出ていって1ヶ月が過ぎた。現在カレンダーは2月22日を指している。


 油でべとべとの皿や、汁の残ったカップラーメン、何かをふいた茶色のティッシュ、腐った野菜。散らかり放題の台所。ゴミ袋に小さなコバエがたくさん群がって、ぶうんぶうんと羽音をたてている。


 私の服にもコバエがついている。買ってもらった時はもっと綺麗なピンク色だった気がするけれど、今はハムスターの毛とか血とかうんことかハエとかよくわからない汚い汁がついている。


「今日はお握りだよ」


 私は、コンビニの梅干しお握りを、袋のまま妹に差し出す。


「タラコお握りがよかったなあ」


 そう言って奈々は今日も何も考えずに、お握りを頬張っている。


「奈々、私たちの名前の由来知ってる?」


「ゆらい?」


 奈々がご飯粒をつけたまま、丸い顔をあげた。


「ママが好きなアイドルの名前なんだって。そのアイドルみたいに可愛くなるようにってつけたんだって」


 奈々はぽかんとした表情をした。「由来」という言葉が難しくてわからないのだ。


「アイドル?ゆらい? ……こら! キンタマ、机の上に乗っちゃダメ!」


 どうやら私の話に飽きたようで、キンタマと遊び始めた。こいつは何もわかってない。彼女達を見て、私はふつふつと黒い感情が沸き上がってくるのがわかった。


 ***


 夜中に私は妹の部屋に忍び込んだ。

 妹は、予想通り涎を垂らして寝ていた。


「こんなもの」


 警戒するキンタマをケージから引っ張り出し、握りつぶして殺してやろうと思った。

 すると、キンタマが私の人差し指をガリッと噛んだ。


「いった……!」


 思わずハムスターを離すと、ハムスターは私の手をするりと抜けて、ケージから飛び出し、トコトコと暗闇に逃げてしまった。


 私は床に崩れ落ちるようにして座りこみ、髪を両手で鷲掴みにして叫んだ。


「何で逃げるんだよ!!」


 指から血が出てとまらない。


「何で!!何で!!」


 空のケージに何も入っていない財布を投げつけた。お腹もすいたし、もう全部がからっぽだ。


「もう帰ってこないのかな……」


 破れた障子の穴を見つめた。そこには永遠に続く闇が広がっている。


「どこに? いつまで? どうしよう? どうしよう?!」


 私は両手を抱きしめて、二の腕を掻きむしった。

 天井を見つめると、深い深い夜があった。もう誰も帰って来ない。パパも、ママも、ハムスターも。


 私の瞳孔が広がり、虹彩の線が、ハムスターのケージになっていく。

 そこには私と奈々が映っていた。

 汚らしいケージの中から、私たちは空を見上げていた。恐ろしいほどに晴れわたった空を。

 私はその時ふと思った。


 "ここから出なきゃ"


 ***


 翌朝、私がソファに座っていると、パジャマ姿の奈々が起きてきた。

 目を真っ赤に腫らして泣いている。


「お姉ちゃん、キンタマいなくなっちゃった」


 小さな丸い手で、ぐずぐずとした鼻水と涙を拭っている。


「逃げたんでしょ」


「どこにもいないの……お姉ちゃん、殺してないよね?」


 クッションの裏や家具の隙間を見て、ハムスターを探す妹。


「殺してないし! どこかで生きてるでしょ」


 私は汚れたピンクのパーカーを脱ぎ、ゴミ箱に棄てた。そして何の汚れも無い、まっさらな新しい服を着た。


「お姉ちゃんのハムスターは? また、殺してない?」


「それも生きてるよ」


 私は、ポケットから自分の白いハムスターを出して見せた。




 私は彼女の手を握り、家を出た。

 早朝の住宅街は静かで、誰もいない。

 ひんやりとしたアスファルトの道路を一歩ずつ彼女と、しっかりと歩いた。吐く息は白い。


「どこいくの、お姉ちゃん」


 奈々はなんだか楽しそうな表情をしている。


「新しい飼い主を捜しにいくの」


「ハムスターの?」


「……」


 私は何も言わずに奈々の手を改めて握り返した。

 遠くに見える太陽が水槽の中にあるように歪んで見えた。

 瞳にたまった水分がこぼれずに早く蒸発してほしい。私はそう考えながらずっと歩き続けた。



(END)


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ハムスターばいばい 紅林みお @miokurebayashi

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