南蛮人

スヴェータ

南蛮人

 大きな船を背景に、男女が気まずい空気を作り出している。互いに言葉もなく睨み合っているのだ。もう話し尽くしたのだろう。重苦しい沈黙は、いつまでも、いつまでも破られなかった。


 この男女は夫婦。まだ結婚して1年も経っていない。出会いは10年前で、交際期間は7年ほど。2人は長い年月をかけて愛を育んだ。しかしようやく結ばれたというのに、男が「東の果てへ行く」と言い出したのだ。


 男は商人で、一度船に乗ると長い間帰らない。女はその寂しさを嫌というほど味わった。結婚すれば多少寂しさは紛れるだろう。あるいは連れて行ってもらえるかもしれない。そう思っていたのに、行き先は東の果て。女は気持ちのやり場が分からなくなった。


 それを男はうまく察せなかった。むしろこのようなこと分かって結婚しただろうに怒り出したから、半ばうんざりした気持ちであった。売り言葉に買い言葉。ぶつけられた感情をそのまま受け取り、咀嚼することなく言い返した。


 それで、この沈黙。もう随分時間が経ったのに、未だ2人は睨み合ったままだ。救いは、2人して言葉を探しているところ。まだ分かり合おうとしているから、致命的ではない。ただ残念なことに既に十分罵り合ってしまったから、何を言えば良いのか見当が付かないのだ。


「ベアトリシュ」


 沈黙は、男が女の名を呼ぶことで破られた。女はパチッとまばたきをして、さらに力を込めて睨む。やり場のない感情はまだ収まる気配がない。ただ、話を続けられそうなところには、どこか安堵の気持ちがあった。それを悟られないために、女は力を込めたのだ。


「ベアトリシュ。これが俺の仕事なんだ。分かっているはずだ。寂しい思いをさせてしまうのは俺もつらいさ。でも、これは大きなチャンスなんだ。分かってくれ」


 女は落胆した。もうその言い訳を聞くのは12回目。この期に及んでそんな言い訳を繰り返しているようでは何も進展しない。女から「分かり合おう」という気持ちが一気に消えた。


「分かったわ。もう帰りましょう。こんな話、何の意味もないわ」


 2人は気まずさを持ち帰ることとなった。女が先を歩き、男は追い抜くこともできずに少し後ろを歩く。女の背中は細くて、小さくて。男はようやく女のどうしようもない寂しさを感じ取った。


 出航の日、女は港へ来なかった。男はそれを仕方がないことだと割り切り、水平線に望遠鏡を向ける。途端、女の細くて小さな背中が思い出されて、1つ大きなため息を吐いた。


 女は港へは行かなかったが、近くの丘へ立ち港を眺めていた。船が出て行く。もうしばらくは戻らない。そう思うと、あの時は怒りになった気持ちが素直に寂しさとなった。女はただただ、船を見つめることしかできなかった。


 きっと男は水平線のその先を眺めているのだろう。どうしてその時間のほんの100分の1でも私を見てくれないのかしら。女はぼうっと船を眺めながら、そんなことを思った。しかしその頃男は望遠鏡を丘へ向けていて、偶然見つけた女の切なげな表情を眺めていた。図らずも2人は、胸が締めつけられる思いでしばらくの間見つめ合った。


 東の果てに到着した男は、順調に仕事を進めていた。その合間、現地でとある絵師と知り合い、意気投合して何か絵を描いてもらうことになった。男は出航直前の妻との諍いの話をすっかり話して、こう依頼した。


「それで、妻を、ベアトリシュを描いてほしいんだ。笑顔の美しい、華やかな女性でね。それをいつも持っていたいんだ」


「ええ、フィリペさん。分かりましたよ。しかしね、先程のお話も実に良かった。それも是非描きたいのですが、いかがでしょう?」


「構わないが、あの表情は絵では描けないよ。いや、描けないほうがいいか。胸が張り裂けてしまうからね。何にせよ、君の心を動かしたのなら是非描いてくれ」


「ありがとうございます。では奥様のお顔をもう少し詳しく……」


 こうして男は女の顔を描かせた。1枚は希望通りの華やかな女性、ベアトリシュ。東洋的ではあるが、十分その特徴を捉えていた。そしてもう1枚。物語絵のような形で描かれたそれに、男は言葉を失った。睨みつけた顔。望遠鏡越しに見た顔。まさにあの時見たそのものが描かれていたのだ。


 震えながら、男は笑顔の絵だけを受け取った。その後も絵師とは懇意にしたが、もう絵は依頼しなかった。思い出したいもの、思い出したくないもの。男はきちんと分けられる自信がなかったのだ。


 その後、追放により男は帰国。笑顔の絵は持ち帰ったが、女に絵を見せないまま日常に戻った。ぎこちないまま過ぎる日々。それでもいつしか暮らしが形作られると、男は笑顔の絵を捨てた。忘れて、新たに作る。それが幸せの秘訣だと知ったから。


 一方絵師は、受け取ってもらえなかった方の絵を故郷へ持ち帰り、大切に保管した。そして時が経ち、全てが歴史となった頃、その絵はとある陶工によって発見された。


 今ではその陶工の作品にベアトリシュとフィリペが描かれ、「南蛮人シリーズ」の1つとして多くの人に愛されている。ベアトリシュの怒りや寂しさ、フィリペの葛藤や変化。何もかも、伝わらないまま。

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南蛮人 スヴェータ @sveta_ss

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