2 突然の提案
「生きてます。大丈夫です」
セナは立ち上がって、覗き込もうとした男性から一歩下がって離れる。
「それは何より」
セナの前まで来ていた男は覗き込もうとするのを止めたが、代わりに。
『襲われる前に助けられたと思うぞ』
声と共に、白い獣がやって来た。
男性の横を通りすぎ、軽やかにこちらやって来る。
大きな獣が遠慮なく距離を縮めてきたので、大型犬も目の前にしたことのないセナはちょっとびっくりする。
けれど、白い獣の方は気がついた様子もなく、とうとう距離をゼロにした。ふわりと、毛が肌を撫でた。
白い獣は、周りをくるりと歩く。
「ベアド?」
少し離れたところにいる男性が、驚いたような声を出した。
ベアド、というのがこの白い生き物の名前なのだろうか。あの人のペット? 番犬? とは言え犬、には見えないのだけれど。
白い獣には、模様があった。
少し青みがかかった銀色で、豹柄が浮かび上がっている。模様が黒色なら、この獣は間違いなく雪豹だっただろう。
「ベアド、どうしたのですか。珍しいではありませんか」
『うん、何かな、うーん』
さっきから誰のものか分からない声が、すごく近くから聞こえた。
もっと言えば、雪豹のような獣から。
……いや、まさか。確かにこの場には姿か三つ。自分と、男性と、白い獣。セナ自身のものではない声は二つ。数は合うからと言って、まさか。
セナが凝視する先で、白い獣は今度はセナの全身をくんくんと嗅いでいる。
なに? 何かにおいする? おいしいにおいでもする……?
肉食獣の姿だと認識し直して、一抹の不安が過る。
『んー……あ』
全身をくんくんしていた獣が、鼻面をセナの手のひらに潜り込ませた。ひっ、と変な声が出そうになった。鼻が冷たかったんだ。
けれど、次の瞬間、もっと驚く。
ぴたり、と鼻がくっつけられた手から光が溢れた。
何事!?
驚いた瞬間、思わず手を鼻から離した。
獣はびっくりした様子もなく、その鼻は光っていなかった。
『ガル、見てみろ。すごい適性だぞ』
光ったのは、自分の手?
まさかと思いながらも、セナが反射的に手を見ると、手のひらに銀色の大輪の花が描かれていた。
「なに、これ」
「失礼」
まじまじと見ていた手のひらを、誰かの手が掴んだ。
びくっとして顔を上げると、
「これは……」
白い衣服の男性が、掴んだセナの手を見ていた。
時間にして何十秒か。
手を凝視されて固まるセナと、手のひらに視線を注ぎ続ける男性。
「……ベアド、これを消しなさい」
ふっと、手が離された。視線も離れて、白い獣を見る。
『いいのか?』
「ええ」
『お前、養子欲しがってたろ?』
「それはそれです。ここで偶々出会った一般人の少女をわざわざそうすることはありません」
『ふーん』
「……残念そうですね」
『俺が残念そう? そんなことないぞ。けせばいいんだな、了解』
会話をよそに、手のひらを見ていたセナは、また驚く。
手のひらに表れていた花の模様が、ぱっと光が弾けて、なくなったのだ。
「不躾なことをしました。すみませんでしたね」
「え、いえ」
「さて、ここはただの子どもがいるようなところではないようです。家まで送りましょう」
家、と聞いて、ここに何をしに来たのか思い出した。
あっ、と地面を見ると、落とした布からきのこが零れ落ちていた。慌てて拾い始めると、男性が手伝ってくれる。手は、とても綺麗だったけれど、女性のような手ではなかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。ここには、これを採りに?」
「はい」
「危険ですから、あまりお勧めは出来ませんよ」
はい、とセナは言った。
今日、初めて獣のような何かに遭遇して、ここは本当に危険な場所だったのだと思い知った。
「花……?」
周りを見ていた男性が、セナがきのこを収穫していた辺りに目を留めた。
言葉通り、花が咲いている。セナも知っていたけれど、きのこが採れるならわざわざ採って売る必要もないし、それならここで生えていた方がいいと取ろうとは思わなかった。
「ノアエデンなら未だしも、普通の冬の地に花が咲いているとは珍しい」
『そこだけ何らかの力の名残を感じるぞ』
「力、ですか。……まあいいでしょう。まずはここから離れるのが先です。行きましょうか」
背を押され、森の出口の方へ歩き始めることになった。
「あの、助けてくださって、ありがとうございました」
危うく二度目、死ぬところだった。
見上げて遅すぎるお礼を言うと、男性は微笑んだ。
「私の本職ですから、お気になさらず」
本職?
猟師か何か?
森を出ると、小さな町に入る。
雪豹のような獣は消えた。どこに行ったのか、そもそもどうしてあの獣は喋っていたのか、疑問が次々生まれるものの、質問は止めておいた。初対面の人だ。
孤児院の近くまで来たので、ここですと指で示すと、町を見ていた男性は目を細めた。
「孤児院の子でしたか……」
ここまで送ってもらったのも送ってもらいすぎだと思ったのに、男性は孤児院まで行っていいかとついてきた。
「これは中々の環境ですね……まあ、孤児院はこんなものでしょうか」
孤児院の敷地内まで入ると、運悪く、怒鳴り声が聞こえてきた。セナにはもはや日常茶飯事だけれど、この人に聞かせるのはちょっと決まり悪く、見てみると。
「ふむ」、と彼は真剣な顔で孤児院の建物を睨むようにして見ていた。
「君」
やがて、淡い茶の目が、セナに向けられた。
「名前は何でしたか」
「セナ、です」
「セナ、君に少し話を聞きたい」
何の。
「セナは、ここの暮らしが好きですか?」
好きだと言う子どもがいると思うのだろうか。反射的に思ってしまった。
「口が裂けても好きだとは言えません」
「そうでしょうね。そこで、君に提案があります」
「提案……?」
「はい。君、私の養子になりませんか?」
養子?
「衣食住の心配はもちろんなし。最低限ではなく、良いものを得ると約束しましょう」
好条件すぎる付け加えが、胡散臭いと思わせてきた。
何しろ、セナ自身には縁がないと思われた申し出だ。おまけに、さっき出会ったばかりの子ども。
「……どうして、わたしを」
「君に才能があるからです」
男性は即答した。
しかし、才能なんて、心当たりがなさすぎてやっぱり胡散臭い。
「実は先ほど、森で思わず申し出をしかけたのですが、『ああいう』ものは志願してくるのが普通ですから。大人しく元の生活に戻してあげるのが筋だと思ったのです。ですが、目にした環境がこれでしたので、提案を。──セナ」
さっき教えたばかりの名前を呼んだ男性は、麗しく微笑んだ。
「将来安泰の道を手に入れることに興味はありませんか?」
「あります」
この言葉にはあるに決まってると思った。
お先真っ暗、一寸先さえ闇で、将来不明のセナには、素晴らしすぎる響きだった。
将来安泰。正反対すぎることばじゃないか。
この人、もしかしてすごくいい人?
ころっと、思考が疑いを塗りつぶそうとしてしまう。
「念のため。多少の危険が伴います」
「……危険?」
おっと、不穏な響きだ。
「ええ。君には魔獣たちと戦う職を目指してもらうことになります」
「魔獣……」
「君が森で見た獣です」
あれが、魔獣というものだったのか。
あまりに黒く、集まった彼らは闇を作り、その黒の中に、いくつもの赤い目が浮かんでいた。
「……戦う……」
「あれは各地で被害を及ぼしているもので、ここに現れたのであれば、また現れるでしょう」
「また、ここに、来るんですか」
「もちろん私が見かけたからには対処する部隊を送らせますが、あれらが町にまで来て人を襲う可能性は今この瞬間にもあります」
ぞっとした。
生きるのに精一杯でも、そんな種類の危険を感じたことはなかった。
あんな獣が突然現れて、もしも遭遇してしまったら。
「戦う術なく、いつ飢えて死んでも魔獣に襲われて死んでもおかしくない環境で、不安を抱えて生きていくより、せっかく才があるのです。戦う術を手に入れ、将来出世して本当に何もかもが安全な生活を手に入れてみる気はありませんか?」
脅威と同時に、それに対抗する術の存在を教え、暮らしと教育と将来の安泰の可能性を共に与えるという提案をした男性。
「私の名前はガル・エベアータ。それなりに名のある家の当主です。私の申し出を受けてくれるなら、君に生きる術と環境を与えます」
欲しかったものがある。
この先、こうなればいい、こうならなければ思っていたこと。
孤児院を追い出されたあとは、どうにかして仕事を見つけなければならない。そして、いつかは穏やかな生活を手に入れられたら、将来に不安を覚えない生活を手に入れられたら。
けれど、孤児院を出て、果たして生きていけるのかどうかも心当たりがなかった。何をして生きていけばいい? 手に職なんてない。将来が真っ暗すぎた。
この環境から、抜け出せるなら。
自分で生きられる術を、どこでも雇ってくれないような非力な子どもである自分に力をくれるなら。
勉強くらい励んで、魔獣なんていう敵わないと思ったあれにさえ怯えずに済む暮らしを手に入れられると言うのなら。
期待に応えられないかもしれないなんていう不安なんて、今の環境と提案の差を比べてしまったら、不安は強制的に塗りつぶされた。
この奇跡のような好機を逃す馬鹿がいるだろうか。
「よろしくお願いします」
その決断は、早かったかどうかは分からない。
他にろくな選択肢はなかったから。
会ったばかりの男性──ガルの提案は、魔獣と戦うなど厳しいようで、だからこそこの世界で生きていくための全てが詰まっている気がした。
「決まりですね。これから私は君の父となります」
……そうか、養子ってそういうことだった。
大変麗しい父親ができることになりました。
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