7 精霊の誘い



 朝、けっこう早く起きる。

 とはいえ、孤児院ほどではなく、無理矢理起こされるのではないから平和な方だ。

 服を着替えると、部屋を出る。

 服は、サイズぴったりで、孤児院のときとは比べ物にならないものになった。この家に相応しくなったと言うべきか。

 こんなに服の質が違うのだと、前世含めて人生で始めて実感した。


「おはようございます、セナ様」


 向かいからやって来ていたメイドが二人壁際で頭を下げ、セナに挨拶をした。

 セナも「おはようございます」と挨拶を返す。


「どうぞ脱いだ衣服は置いておいてくださいませ」

「あ、……つい」


 示されて、手元のパジャマを意識した。完全に無意識に持ってきていた。

 ここに来てから何度か言われていることだけれど、身に付いた習慣が新たな習慣に塗り替えられるには時間がかかりそう。

 笑顔でパジャマを受けとったメイドが頭を下げその場を離れ、もう一人がセナを丁寧に食堂へ先導すべく歩き始める。

 セナは食堂への方向を歩きながら、振り返ると、メイドの背中が見えた。

 メイドがいる生活には、まだ慣れていなかった。様をつけて呼ばれるのにも。

 喋る動物には慣れたのになぁ……。

 様付けは、あだ名の一種だとでも思えばいけるだろうか。


「……今日は課題やっつけなきゃ」


 それはそうと、今日の予定である。

 ガルが留守の間に残していった課題の残りを片付けなければ。

 教科書の本と、手作りっぽい手書きの問題があるのだ。彼が留守の間は自習という形で、本を読んで問題を解くということをしている。完全に宿題だ。


『セナ』

「!」

『精霊が来てるぞ』


 気配もなく、音もなく、実に突然現れた存在があった。

 ずっと隣を歩いていたのだと言うように、けれど絶対に今の今までいなかった生物が横を歩いている。


「……ベアド」


 ベアドルゥス、その聖獣である。


「びっくりした」


 声をかけられた瞬間だけ跳び跳ねた心臓を押さえながら、「……幽霊みたいに静かに出てくるの本当に止めてほしい……」 と呟いてしまうのは仕方ない。


『ユウレイって何だよ』

「え?」


 大きいので、下手をすれば普通に横を向いていても同じ高さで合いそうな位置にある目が、純粋にこちらを見返した。

 綺麗な、透き通る、形容のし難い色をしている瞳。


「幽霊は、……」


 幽霊という言葉がないのか、幽霊という考え方がないのか。

 そもそも幽霊って何なんだろう。

 幽霊とは何かを説明しようとして、止まった。

 見たことがなくて、説明しろと言われたら、死んだ人が死にきれなくて残ったものとでも言いようがない。正しいのかも分からない。


「……何でもない」


 考えた結果、説明を放棄し、なかったことにすることにした。

 万が一、概念がないということもあると、ややこしい。

 死んだ人の魂は巡って、記憶はなくともまた生まれる。

 そんな思想を持つ世界だ。こちらがイメージする幽霊が存在しないということが、物理的にも存在する可能性……。

 タタッと、唐突な、短い足音が聞こえた気がした。


「セナっ」

「うっぐ」


 腰が壊れるかと思った。

 後ろから何ものかの突撃を受け、倒れそうにもなった。


「え、エデ」

「おはよう、セナ!」


 突撃者は可愛い精霊だった。

 小さな精霊らしい光を引き連れ、後ろから遅れて現れた少年も「や、おはよう」と挨拶をする。


「おはよう……」

「大丈夫?」


 大丈夫かと聞いてきたのは、少年の方だ。

 とりあえず「大丈夫」だと答えたものの、『精霊らしく』ふわっと飛び付いてほしいと思ってしまう。


『精霊が来てるぞって教えただろ?』


 そういえば。

 ベアドに言われて、そんな記憶があった気がした。


「セナ、これからどこに行くの?」

「朝ごはん食べに食堂」

「朝ごはん! わたしも食べる!」


 はいはいっ、とエデは手を挙げた。

 まるで、年上の子や大人の真似をしたがる幼子のような様子だった。


『エデの分なんてないだろ』


 可愛いなぁ、と見ていたセナの隣のベアドが、ばっさりエデの言葉を切った。


「ひどいっ」

「食べたいなら、わたしのを分けるよ」


 どうせ多いから食べきれない。

 大は小を兼ねると言うように、多目に用意されているとしか思えないのだ。足りないより余る方がいい、という方針かもしれない。

 これまた質も品数もグレードアップした毎朝の食事を思いつつ言うと、エデが「本当?」と瞳を輝かせる。


「失礼ながら、精霊様、セナ様」


 セナが先にそちらを見て、エデが次に見る。

 見た先には、近づいてきていた食堂の前、執事が立っていた。

 エデが「何かしら」と聞く。


「少々時間をいただければ、朝食を整えることが可能でございますが……」


 会話を聞かれていたようだ。




 朝ごはんを食べる。

 誰に取られる心配もなく、静かな食事の時間だ。ガルがいないので、昨日まで一人で(時々ベアドが来る)静かに食べていたのだけれど、今日は。


「セナ、はいっ」


 こんなに賑やかな食事は初めてである。

 結局、エデは新たに朝食を作ることを断った。時間が少しでもかかるのが嫌だったのだろうか。

 精霊の少女は向こう側から、皿に盛った黄色の花をセナに差し出した。

 この花は、食べられる花であるようで、よく食卓にのぼる。

 セナが受けとると、自身も花を食べている。

 エデには花が似合うが、どちらかというと側にあるのが似合うのであって、食べられるところを端から見ると何とも言えない心地が過る。

 まあ、にこにこしてこちらを見ているのでどうでもよくなる。

 それに、この花、甘みがあっておいしい。


「ノエルは食べないの?」


 エデの隣で、微動だにせず座っている少年精霊に尋ねた。

 すると、少年は瞬きをし、隣の少女を見て会得したようにセナに目を戻す。


「僕たちは、本来食事は必要ないから。人間が意味する食事という形は特に。エデはこうしてここで出されれば気が向けば食べるけど、僕は食べない。エデだって今日は単に、セナと同じ場所で同じものを食べたかったんだろう。そこにもあんまり意味はない」


 エデはお茶を飲み、クッキーを食べていたようだけれど、ノエルが飲食したところを見た記憶がない。

 僕は食べない、という言葉に気がついた。


「でも、時々この家に果物とか野菜とかを置いておいてくれてるのは、ノエルやエデたち精霊なんだよね?」


 人の生活する町のない領地。

 どこで衣服や食料を手に入れているのかと思って、ガルに聞いた。

 食べ物に関しては屋敷のあるエリアで育てられていたりするが、衣服他は、やはり領地外から手に入れているらしい。

 その食べ物に関しては勝手に実り、時に親切にもキッチンに置かれていることがあるそうなのだ。

 精霊によることらしく、育てていない何もないところから食べ物を生み出せるなんて、精霊すごすぎる、と呟くと、聖なる獣たるベアドは『俺だって、ちょっとくらい出来る』と言っていた。本当かどうかは不明である。


精霊僕たちは、地上に直結し、実りをもたらす存在として生まれているものだから。元々仕事の一つであり、そういうことをするのが自然なんだ」

「仕事……」

「そう。とはいっても、すごく嫌な人間にまでしてあげるわけじゃない。人間は選ぶ。その上で、そうすることが喜びでもあるんだ」

「今は精霊はここだけにしかいないから、する対象がわたしたちしかいない、ってことになる?」


 本を読んでも、初日に説明されたことが書かれていた。

 そのうちの一つが精霊は今ノアエデンにしかいない、ということ。


「それなんだけど、外にもいると言えばいるんだ」

「いるの?」

「地で眠っているだけで、いるかいないかで言えば『いる』。ただ、恩恵は一つももたらしていない。ここから外の人間にとってはいるって実感できないから『ノアエデン以外にはいない』なんだよ」


 本を書いたのは人間だ。そして、セナが聞かされたのは『世の常識』。


「どうして眠ってるの?」

「地の状態が悪いから。居心地は良くない。これからもっと悪くなることはあってもよくなることはない。精霊が元気に、長くは生きられない環境になってしまっている。だから眠って、生命の消耗を避けようとして、例外がこの地にいる精霊」

「状態が悪い……っていうのは、天使がいなくなったから?」

「そう。天使の加護の多くは地上から失われた。聖獣とは違って僕たちは繊細だから、悪魔の類いの影響には弱いんだ」

『聖獣だって繊細だぞ』


 言い方が引っ掛かったのか、単にちょっかいを出したかっただけなのか、床に伏せていたベアドが頭を起こした。


「ベアドも外に出ると元気なくなる?」

『いやぁ、そんなことになったら使い物にならなくて人間が困るだろうけどな』

「聖獣も悪魔の類の力はやっぱり正反対の力なわけで得意じゃないから、『繊細』ってことだよ」


 なるほど……?

 漠然とした理解は出来たような気がするものの、それ以上ではない。


「そんなことより、セナ、今日こそ森を案内してあげる!」


 花を食べていたエデが、かなり雑にここまでの話題を脇に放り投げた。

 本人にとってはそんなことらしい。

 ところで、森、とは草原の先にあるもののようだ。ぼんやりとずっと先にあることだけを知っている森はかなり、遠い。


「エデ」


 今日のランニングコースを変えれば一石二鳥では……?と考えていると、ノエルが制する声音でエデに呼びかけた。


「あの森に人間を入れるときは、領主に許可を取るよう言われているはずだ」

「なにそれ」

「そう言われているんだ。エデにも言ったよ。とにかく、森にセナを連れて行きたいなら領主に許可を取らなければならない」

「どうしてわざわざ許可なんて取らなければならないのよ」

「返さないまでに連れ込むことを警戒されているんだろう」

「む、どうして」

「『前例』がある」


 精霊たちが会話する内容が、セナには何が何だか分からない。

 とりあえず、


「森に入るには、ガルさんの許可がいるの?」


 ベアドに聞いてみた。


『ガルがそういう風にしているみたいだな。セナはせっかく見つけた養子だから、絶対許可が必要だろうな。もしも戻されないなんていうことがあったら、一からだってな』


 ……なるほど。




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