紡ぐ

スヴェータ

紡ぐ

 結婚を報告するため、久しぶりにここへ座る。厳かな仏壇。右を見上げれば曾祖父、曾祖母、祖父、そしてその妹の顔。正面を見上げれば曾祖父を慰労する賞状がある。


 夫は何度も正座の練習をした。なるべく美しく見えるようにとこだわっていて、私もそれに協力した。練習の甲斐はあったらしい。夫はとても美しく座れていた。


 線香を折る。蝋燭に火を灯すのは面倒だったから、そのままライターの火で炙るように火をつけた。刺さずに倒す。ふわふわと煙が上がる。白檀の香りは嫌いだったが、久しぶりに嗅ぐとなかなか良いように思えた。


 目を閉じ、手を合わせながら会話をするのだと夫には伝えていた。細かいことは気にせず、昔おじいちゃんやおばあちゃんと話した時のようにしてほしいとも。おりんを鳴らして、手を合わせる。夫をチラと見ると神妙な面持ちで目を閉じ、手を合わせていた。何だか微笑ましく思えた。


 私も会話を始める。もちろん一方的に話しかけるだけなのだけれど、目を閉じて手を合わせている時間は不思議と会話をしている気持ちになれた。穣さん、ひいばあちゃん、おじいちゃん、清香おばちゃん。私は結婚しましたよ。どうぞ見守ってくださいね。


 いつもより少し長めの会話を終えると、夫の方を見た。夫はまだ目を閉じて拝んでいたから、もうそろそろ行きましょうかと声をかける。しかし夫は動こうとせず、熱心に、熱心に会話を続けているようだった。私はこれ以上声をかけるのが憚られたから、少し離れた場所で静かに見つめた。


 10分。あまりに長い時間、夫はそうしていた。最後の1分、泣き出した時はどうしようかと思ったけれど、やはり声をかけることができず、黙ってその姿を見つめていた。やっと顔を上げた夫にハンカチを差し出し、大丈夫?と話しかける。小さく、しかし穏やかに、大丈夫だと返してくれた。


 その後、何事もなかったかのように私の両親と食事をし、夕方まで過ごした。帰り道、車中であの10分間のことを聞いていいものか悩んでいると、夫が何やら躊躇いながら、不思議な話を始めた。


「ミノルさん……彼は僕の故郷の近くで亡くなったんだろう?妻と5人の子どもを残して。帰れなかったそうじゃないか」


「どうしてそれを知っているの?私、あなたにそのことを話したかしら」


「いや、聞いていなかった。ミノルさんから聞いたんだ。本当に悔しそうだったよ。子どもの成長を側で見届けられなかったこと。妻に苦労をかけたこと……」


「待って。どうやって聞いたの?」


「目を閉じて、手を合わせている時にだよ。そうして会話をするんだろう?」


 そうは言ったが、本当にできるだなんて話ではない。俄かには信じがたい、いや、信じられない。しかし死後の世界を信じていない夫がこんな話をしたから、嘘だと断定できなかった。


「それで、穣さんは他に何か?」


 つい、私は尋ねた。この不思議な話の終わりを見たかったから。夫は何を聞いたのだろう。もしくは、何の意図があるのだろう。鼓動を耳の側で聞きながら、夫の言葉を待った。


「……僕の故郷がビイスクだと聞くと、言葉を少し詰まらせていた。 とても、とても寒いところだったって。僕も何と言ったらいいか分からなくて」


 夫は、ひと言ずつ、紡ぐように言葉を続ける。私は黙って続きを待った。耳で眺めているような感覚。繊細な、淡い色の糸。それがいくつも織り込まれ不思議な布ができる様を、不思議な形で眺めていた。


「それで、僕は謝ろうとしたんだ。ロシア人としてね。でもその前に『君には何の責任もない』と止められた。僕はいよいよ何と言えばいいのか分からなくなったんだ」


 見知らぬ曾祖父と、夫の会話。その間に立ち込める、沈黙の霧。きっとお互い美しい姿勢で向かい合っているのだろう。何だか絵みたい。もしくは、風景。だんだん色が見えてきた。そんな気がした。


「言葉を探していると、ミノルさんは穏やかに笑って、僕の左肩にトンと手を置いたんだ。そして……」


「そして?」


「……こう言ったんだ。『会ったことはないが、いつも見守っていた。よく顔を見せてくれる優しいひ孫だ。伝えてほしい。恨みを繋げないでくれてありがとうと。そして君にも。あの子を見つけてくれて、ありがとう。どうか、どうか幸せに』って」


 ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙がこぼれた。溢れて、もう止まらなかった。車を道の脇に停めて、ひとしきり泣いた。バカみたい。こんなの、嘘かもしれないのに。しかし夫はこんな嘘をつく人ではない。ああ、やはり本当なのだ。私にはできなくても、夫にはできたのだ。嬉しい。本当の声を聞けて、私は嬉しい。


 夫は、紡ぐ人。伝えられなかった思いと聞くことができなかった声を、1つ1つ、糸にしてくれた。それらの糸で織られた布は、淡くて、暖かくて。不思議な話の終わりは、思ったよりずっと穏やかだった。


 間もなく私は、ビイスクへ行く。紡いでくれた夫とともに。とても寒いところだけれど、不思議な布が暖かいから大丈夫。夫がいるから、大丈夫。


 その後、数年ごとに帰国するたび、私たちは仏壇の彼らと会話した。しかし夫はもう曾祖父の言葉を聞くことはなく、私と同じように静かな会話を楽しんだ。


 ある年、3つになった娘を連れて仏壇の彼らに会いに行った。娘にも教えている。「おめめを閉じて、おててを合わせておしゃべりするのよ」と。あの時のように線香に火をつけ、おりんを鳴らす。チラと夫の膝に座る娘を見たら、ニマニマ笑っていた。


「ママ、あのね、ミノルさんって人とおしゃべりした。おりこうにねって」


 夫と顔を見合わせた後、右上の曾祖父の顔と正面上の賞状を眺めた。また1つ、紡がれたらしい。

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