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 夕夏との連絡は途切れ途切れになった。既読がつくのは明け方と夕方で、返信も素っ気ない。アカネに尋ねても事情は分からずじまいだった。

『アヤちゃんも知らないんだ』『あの子も複雑っぽいからねー』

 淡泊に聞き返される始末。引き合わせたのはアカネなのに。

 でも、ある程度の察しがつくにはつく。理由がわからない。境遇が真逆ならわからなくもないのに、夕夏の方はほとんど総てを終わらせていて、当の私は恵まれ過ぎているからそうする必要がない。可能性は複数あるけれど、私ならいずれにせよむしろ母から止められる。詮索は無粋。もしかすると当人たちにしかわからない、わかってほしくもない、わかってしまってはならない、そんな領域だからこそ。

 アカネともあまり遊べなくなった。職場の不出来な後輩に悩まされた結果、ゲーム中で頻繁に寝落ちするようになったのだった。画面の中で飛び回っていた少女が、いきなり落下して動かなくなる。しばらくするとまた動き始めるのだけど、すぐにまた動かなくなった。息抜きのゲームで息を詰まらせては元も子もない。

私は私で大学の試験が重なった。人間関係リセットの時期がきたのかもしれなかった。私たちにとっては大して珍しいことでもなかった。

 だから、二月の頭になって、試験を終えて帰るところで、急にLINEで夕夏からの連絡があったときには、冬の風を直に飲んで世界が勝手に傾いたのだった。凍え切ったスマホの充電はみるみるうちに消耗していった。

『今日、うち来れる?』

 あまりに唐突な申し出だった。断る理由は見つからなかった。

 満杯になった電車が揺れる。外の粉雪とは対照的に、密集したヒトの臭いで蒸されている。寒すぎるからこんな混むんだよ。鬱陶しい粉雪。流れる粉雪を見ていると、入試の日を思い出した。高校入試からの帰り道、圭助や片倉と一緒にまだ乗り慣れない電車で帰った日とよく似ている。あれはもう、そうか、八年前、いや、九年前かな。ろくでもない冬の夕暮れ。いつもの駅を通り過ぎた。

「やっ、お久」

 人混みに押し出されるかのようにして見慣れない駅に降りると、あっさりと夕夏に出迎えられた。茶色いコートが様になっていたけれど、暫くぶりだからだろうか、はっきりとは見えないのに僅かな違和感があった。

 道幅だけが立派な廃れかけのメインストリートを歩く。

「急にどうしたの。随分と久しぶりだけど」

「今日が何の日か知らないの?」

「……あんまり関係ないから」

「何言ってるの。今日こそアピれば良いのに」

「チョコをあげる相手がいないよ。夕夏ちゃんは?」

「私は来年に賭けてるから。それに今日は私の誕生日なんだ、実は」

「そうだったの? おめでとう、バレンタインが誕生日ってお洒落だね」

「誕プレが大概チョコレートに変わっちゃってただけよ」

 要するに、こんな日を一緒に祝って欲しい、ということか。彼女にしては酷くぎこちない。やはり、と邪推。

 それなりにキレイ目なアパートが夕夏の住まいだった。ワンルームに通されたとき、かねてからのその邪推が確信に変わった。

「散らかってるかもしれないけど、どうぞ」

「お邪魔します」殺風景な部屋。夕夏には似合わないし、生活感すら最低限。暖房はかけっぱなしになっていたらしい。

 冷蔵庫から白い小箱が取り出されて卓に置かれる。冷蔵庫の中はほとんど空っぽになっていた。夕夏に促されて、戸棚からコップを二つ取り出す。小箱からはショートケーキが二つ。生クリームにイチゴ。コップにオレンジの炭酸が注がれる。冷えた板張りの床に座った。

「今日は特別」恥ずかしがる私を追い立てるみたいに、夕夏は自分に向けて高らかに歌う。ハッピバースデートゥーミー、ハッピバースデートゥーユウカ。誕生への祝福。ささやかなハッピーバースデー。

「ああ何年ぶり? こうやって誕生会みたいなのするのって」

 上品にケーキを頬張った夕夏は幸せそうに嘆息していた。

「ふふふ、美味しい。ケーキはやっぱり格別ね。生きてるって感じがする!」

 どうしようか。ケーキを前に思考を巡らせる。どこからどう見てもショートケーキで甘ったるい匂いがしている。砂糖の塊であることは明白で、この後を想像しただけでも肩のあたりから総毛立つ心地がした。

 それでも、震えるフォークで柔らかなスポンジを一口サイズに切り分ける。

「ごめんね、私って友だちと誕生会もしたことないし、そもそも友だちの家に遊びに行ったこともないから。プレゼントもチョコレートも持ってない」

 不慣れなのは無駄に過ごした十九年ぶんの経験のせい。口に運んだショートケーキは想像以上に甘ったるい。こんな甘いものが世の中にあったんだったっけ。甘い以外の味がしないくらい。

「良いの良いの。こっちが突然招いたんだし。別に気にしやしないって。私だって呼ばれたことないしお互いさまってことで。これも経験よ」

 自分の家だからなのか、足を崩して座る夕夏はいつもよりラフだった。女性らしい上品な食べ方も、外食しているときより荒っぽくて遠慮が感じられない。食べることを楽しんでいるみたい。

「彩ちゃんの誕生日はいつなの?」

「一二月二六日。私の方が誕生日早いって意外だよ。夕夏ちゃんの方が歳上なんだって思ってるのに」

「え、何でよ。あー……でも、それもそうか。てか言ってよ、誕生日祝えなかったじゃん」

 冗談めかして夕夏は口を尖らせる。

「……ねぇ、本当は違うよね、私を呼んだ理由って」

 その仕草がいかにもわざとらしくて。明るく振る舞おうと頑張っている姿が痛々しくて耐えられなかった。

 所作が止まる。イチゴを突き刺したフォークをくわえながら、夕夏は下唇を噛んだ。

「戸籍を変えたの」

 咀嚼しながら、口元は手で隠される。私の後ろの壁へと視線が流されていた。

「んー、ホントのとこ、私はこのまま消えるつもりだったのよ。引っ越すの、誰も私のことを知らないトコに。今までの私からさようなら。

なんだけど、どうしてもねぇ」

「どこに引っ越すの」

「言わない。それだけは彩ちゃんにも言えない。

 でもいつか私が落ち着いたとき、もしかしたら明かしちゃうかもね。あんまり期待できないけど」

「そっか。それで忙しかったんだ」

 言わない理由も理解できる。過去を一切合切棄て去るのに昔なじみなんて必要ない。夕夏は彼女ではない他人に成るのだから、私は彼女にとって邪魔なだけの存在にすぎない。

 駅で出迎えられたときの違和感の正体もこれが理由らしかった。疲れている、もしくはやつれている。飾り気が普段より薄れている。

「そうそう、足りない分を稼ぐために働きづめ、それが終わったら荷造り。もうメンタルもダダ下がりでさあ。あれよ、フルボッコにされたってヤツ」

 根元が黒くなった金髪を弄る。ケーキはもう食べ終えていた。

「彩ちゃんってさ、戸籍変えるんよね」

「うん」

「手術もするんよね」

「来年には。戸籍も来年のうちに」

「遠いね」

「うん」

「S字でやるの?」

「ううん、膣無し」

「そっか。まあ、そうなんだろうなって思ってた」

「どういう意味?」

「私もそうすれば良かったなって」

「……夕夏ちゃんはS字やったの」

「いいや、反転だった。でもあれ、色々痛いし、お金もかかるし、要は身体に穴開けるってことだから。今さらだけどね」

 立ち上がると、夕夏は冷蔵庫から缶ビールを幾つか持ってくる。

「飲む?」「……うん」

 ただ苦いだけの液体が流れ込んだ。

「前付き合ってた男がいたって話したじゃん」

「東京の?」

「まあ、そっちもそうだけど。別れたのってバレたからなのよね」

「……やっぱり、したらバレるの」

「全然バレない。私の場合はね。自分からカムしたの。そしたらフラれちゃった。別に好きでもなんでもない男だったのにねぇ」

 夕夏は缶ビールをあおる。露わになった首筋は男のそれとは到底思えない。本当に、ずるいほど、女らしい。

「私は女として生きる。女だし」

「どこからどう見たって女よ」

「それは彩ちゃんもそうでしょう」

「私は」

「何にも言わなかったら、彩ちゃんが元男とか絶対気づかない。保証する」

 たくましい言い切りだった。反論しても惨めなだけ。私だって反論したくない。そうあって欲しい。夕夏は嘘を吐いていない。

「誰かを好きになって恋をして、誰かに好きになられて、セックスして、結婚したい。ただの、そこらへんにいるひとりの女として。こんな日にはチョコレートを贈りたいし贈られたいし、ただの友だちとチョコを交換してみたい。していたかった――馬鹿みたいな、子どもの妄想よ」

 二本目の缶が開けられる。私の方はまだ半分以上残っていそうなのに。

「でもそれは無理。だって私は女じゃあない。女に生まれついてなんかない。なのに私は女だよ。ひっどい矛盾」

 初めて飲んだアルコールに顔が熱くなる。けれど頭ははっきりしたまま。眠たくもならない。

「そんなこと……」

「良いの、そこはもう良いの。だから私は一生女として生きる。女に成る。

 って恥ずかし、こんな宣言しちゃってさ。これからずうっと、死ぬまで嘘を突き通すんだって誰かに約束してみたかっただけ。忘れて」

 高らかに笑い飛ばそうとする夕夏には、沈鬱な影がぐにゃりと纏わりついている。言葉に合わせるかのように歪んでいた。女ではない、けれど女だ。

「うちらってさ……こんなこと、言って良いのかわかんないけどさ……どうやっても、生まれつきの女には成れないじゃない。それっぽく近づくことはできるけど、女として、愛する誰かの子どもを産むなんてできないもん。私たちは」

 夕夏が口を閉ざすまで、私は相槌を打つこともできなかった。女に成り損なうのは私の方で、夕夏ではないはずだった。

「……夕夏ちゃんでも、そんなふうに考えてたんだ。そんなのは私みたいな……」

「駄目。そっから先は言わないの。言ったらその通りになっちゃうって言われてるでしょ。鏡に向かって毎朝、あなたは可愛いあなたは可愛い、ってちゃんと唱えてる?」

 まあね、たまには。曖昧に頷く。

 そんなの夢の中でもできやしない。鏡なんて見たくもないのに、見ずにはいられない。そんなときに唱えられる願望なんてありはしなくて、むしろ向こうの方から呪詛が投げつけられるのに。

「女には成り切れない、子どももつくれない、そんな……夕夏ちゃんが私なんかと同じように悩んでるって、意外」

 私たちは遺せない。手術をしても子どもは産めない。私はそもそも女ではなくて、どちらかといえば女として生きていく方が気楽で、無理がない。でもそれは、生命に逆らっているのかもしれない。

「そりゃあね。悩んだって仕方ないのに。

もう、戻れない。後悔はしていない。嘘でも見栄でも建前でもない。でも、だからってそこを割り切るのは難しいんじゃないかな」

もちろんそんなこと、ピンクの錠剤を飲んだその時から決まっていた。少なくとも私はそれを望んだ。今も望んでいるから注射も続けている。それは夕夏もそのはずで、だからこそ矛盾した欲動を抱え込む。

「一生ついて回ってくるんだよ、私たちの男って。どれだけ逃げようとしても無駄。影みたいにして、死ぬまでぴったりくっついてくるの。だから、そのことをどれだけ認められるかじゃないかなって……まあ、私はそう思うワケです」

 子どもが欲しいなら来世にかけるしかないね。

彼女はそう笑って肩をすくめた。その細くて分厚い肩が、このときだけ、プレパラートみたいに簡単に割れて砕けてしまいそうだった。

 私は彼女みたいに笑えなくて、ワンルームは静まり返った。暖房がやけにうるさく思えた。私たちは動くことを忘れてしまったみたいに、互いから目を逸らしていた。

「泊まっていきなよ、今日はもう」

 いっとう低い掠れ声が、静寂にくっきりと刻まれた。

 家へ電話して夕夏の家に泊まると告げた瞬間、向こうの側の空気が張り詰めた。母は案の定『駄目。帰ってきなさい』と冷たく言い放った。

「どうして」

『どうしてもこうしてもなかろうが。良いから帰って。向こうの迷惑になるじゃろう』

「迷惑? そんなことない。私から言いだしたんじゃないし」

『なら余計に帰ってきなさい』

「理由訊いてるんだけど」

 こんなのなら電話しなきゃ良かった。

『急に泊まるとか聞いとらんけぇ』

「……ねぇ。私、もう二一なんだよ」

『あの子の家なんじゃろ、あの……同じやて言ってた、あの子の』

「だったら何」

『あんなぁ……』

「何。言ってよ」

 沈黙があった。

「言ってよ。駄目なら、理由を、はっきり」

『そんな子のとこに泊まるんわなぁ……ちょっと許可できんって』

「そんな子って何」

『後で話そう、それからじゃけ』

 噛み合わせが悪くなったみたいな、投げやりで話にくそうな口ぶり。深呼吸。引き下がる気はない、けれど。でも、何も言わないまま? そんなの。

「何だよ、それ。今言ってよ。そんな子だから駄目なのか? ねえ、言って? 納得させてみてよ」

『はあ、それとこれとは話が違うじゃろう。駄目じゃあて言うとるのに』

「違わねぇよ。じゃあ昔の私が男のままだったらよかったのか? それとも、向こうがか? 

 ふざけんなよ。てめぇ、自分の目の前で何が起こってるのか理解してねえじゃねえか。男だろうと女だろうと関係あるか。ましてトランスしたからって、何で意味不明な価値を付け加えてんだ」

 母の気配が小さくなった。話すことはもうない。まくしたてて息があがっている。何でだよ、何でこんなヤツが私を。それ以上は罵倒にしかなりそうもなかった。

 そのまま電話を切った。

「……良かったの? お母さんだったんでしょ」

 夕夏は少し唖然としているようだった。

「良いの。私は何にも悪いことはしてない。友だちの家に遊びに行って泊まるだけ」

 そうね、と夕夏は含みをもたせたまま即答した。

「もうとっくに彩ちゃん二一なんだし、いちいち親がどうこう口出すのがおかしいって。それはそう」

「驚いた? あんな私」

「ん、いや、そうじゃない。ただ、彩ちゃんとお母さんって何だかんだ一緒に住んでるんだし、お金も出して協力してくれてるんだし。だからなって」

「……わかってるよ」

 テーブルに肘を置くと肩の力が抜ける。そのまま姿勢がゆるゆると崩れていくのがわかった。

「お金は出してくれる。理解もしようとしてくれてる。正直なところ私は恵まれてるって思うよ、そういう面では。感謝もしてる。けどさ……」

 それ以上は言いたくなかった。夕夏からの追求もなかった。

 夕食を近くのコンビニで買うことにして外に出た。真冬の冷気にあたりながら歩くうちに、さっきまでの沈んだ空気が拭われていった。さっきまでのあのワンルームは暖房が効きすぎて空気が滞留していたのだろう、きっと。

「ケーキの後に夕ご飯って倒立してるね。私たちらしい」

 互いに自分の分のレジ袋を提げて歩く。私がそんな毒を吐けるくらいには、今の夕夏は最高に醜い。街にはろくすっぽ人がいなくて廃墟みたいだ。時折、流れた明かりが夕夏の崩れかけたメイクを露わにする。きっとそれは私も同じ。

 私たちが買い出しに行っている間に部屋の空気は軽くなっていた。サンドイッチにグラタン、夕夏はカルボナーラ。最低限の義理になるかも怪しい生チョコ。

「今日は特別ってね」

タガが外れたかのような食べ方だった。決して下品ではなく、ごく当たり前にコンビニ弁当をつついているだけだけれど。

「これって何か月分の脂だろう」

「三ヶ月くらい? 砂糖は一年分かな」

 生チョコをためつすがめつしながら、夕夏は言った。

 クレンジング、洗顔石鹸、化粧水に乳液。さらには私の持っていない類のジェルにパックに、と持って帰りたいくらい揃っていた。デパスまであった。

 交代でシャワーを浴びて髪を乾かした。メイクを落とした私を見ても夕夏は顔色ひとつ変えなかった。夕夏の方はすっぴんでもいつもとさして変わりはなかった。

 布団を貸してもらって横になる。底冷えは、着てきたダッフルコートで誤魔化す。

 自分の部屋よりも、ひたすらに安らか。何をするでもない。そのまま、肩ひじ張らずにありのままでいられる。私たちに嘘はいらない。見せかけの女は必要ない。

「彩ちゃんは戸籍変えても彩ちゃんのままなの?」

 真っ暗な中で尋ねられた。

「うん。彩花。私が女の子だったらこの名前だったんだし、本当の名前とも似てるからわかりやすいかなって」

「それでいいの」

 肯定なのか問なのか判然としない平坦な口調だった。

「夕夏ちゃんはどうしてユウカなの?」

「それね、実は偽名。通称名もある意味偽名だけどね。これから使う予定がないって意味では偽名。

もう適当に名乗ってるだけなのよ。親に付けられた名前とは無関係だからって理由で。だからいずれ、ホントの名前に変える。向こうではその名前で生きてくつもり。

どっちみち名前は必要だもの。こうして自らを突き動かして彩っている、そんな、ありていに言って蛹みたいな時期だけに使う名前と、その後、本当に使う名前」

「じゃあ新しく使う名前は」

 私にそんな思考はない。思考してこなかったからこそ。過去の一切を棄てることは、過去の名前と同じひとではいられないことに結びつくのだろう。

 間があった。ただ訊いただけで、教えてくれなくても良かった。

「トウカ」

 私の手に暖かいものが触れた。夕夏の手。

「トウカ。透明の花」

「そっか。

 ……トウカらしいね」

 息をしなくて良いくらい、今この瞬間だけは穏やかだ。

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透花 四葉美亜 @miah_blacklily

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