1981年2月22日、アニメブームに乗り遅れた私

FZ100

参加してないので、俯瞰して書いてみる

 1981年2月22日、その日何をしていたか問われても思い出しようがない。その頃僕は12歳で島根県のとある市で小学校卒業を控えていただろうということくらいである。1981年3月14日に公開された映画「機動戦士ガンダム」は劇場で観た記憶があるので(地方なので公開時期は首都圏より数か月遅れていた)、その頃ガンダムに夢中だったのは間違いない。1982年3月13日に公開された映画「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編」は上京して渋谷の映画館で観た記憶がある。小さなスクリーンで若い人が多かったように記憶しているが「アニメ新世紀宣言」はそのときの劇場の雰囲気に近かったかもしれない。


 とにかくイベントの存在すら知らなかったのである。また、当時はガンダムはあれで完結で、続編が登場するとは思ってもみなかった。俯瞰してみると、ガンダムというアニメ番組のフォーマットが確立して40年経ったという見方ができるけれど、それが1981年2月22日という一日に象徴されるという趣旨だろう。


 「機動戦士ガンダム」は山陰でも放送された。日曜朝七時くらいの時間帯だったと記憶している。放送開始が首都圏と比べてどれだけズレていたかは分からない。たまたま第一話から見始めて見る間にのめりこんでいったのだけど、今思い出すと画期的なアニメだった。まだ幼かったのでニュータイプがどうとかいう部分は分かっていなかった。超能力者の一種くらいに思っていたかもしれない。


 アニメックという雑誌があったことは記憶している。ただ、当時の僕はアニメ雑誌を購読する習慣がなく立ち読みで済ませていた。価値あるものにお金を落とすという概念が形成されていなかったのである。Wikipediaでアニメックの項を参照すると、アニメの設定資料集やアニメ批評を売りにしていたとある。まさにガンダム特集を売りにした雑誌だったのである。


 とすれば、アニメ評論家の氷川竜介氏が学生時代にバイトしていたのはアニメックだろうか。雑誌に掲載されたアムロのカットは緊張で表情が微妙に歪んでいた。それらは無数のカットから意図的に選択されたものだったということを知ったのは後に氷川氏の著作を読んでだった。


 1981年2月22日に話を戻すと、その日「アニメ新世紀宣言」というイベントに集った人達は当時の僕より年上のセンシティブな高校生や大学生たちが多かったのではないか。女性も多かっただろう。その後「新人類」と呼ばれることになった世代の人もいただろう。新世紀宣言というと、いささか気負った風にも受け取れるけれど、確かにテレビアニメ史はガンダム以前/以後で区分されるだろう。当時田舎の小学生だった僕はまんまとブームに乗り遅れたのである。


 ここでいう「新世紀」に入って何が重要視される様になったかというと、世界観の重視だろう。その頃はまだ設定という言葉で世界観という用語は使われていなかったかもしれない。後には設定の整合性をドラマツルギーよりも優先する傾向の作品が見られたこともある。現在では揺り戻しが来ているだろう。


 ちなみに、先日亡くなった漫画原作者の小池一夫氏がロボットアニメのターニングポイントとして鉄腕アトム、鉄人28号、マジンガーZ、ガンダム、エヴァンゲリオンという五つの波があったことをTwitterで指摘している。小池先生は結局ロボットアニメ第六の波を見ることなく亡くなってしまった訳である。1981年2月22日はロボットアニメ第四の波を観測した日でもあるのだ。


 ロボットアニメ第六の波というのは中々来ないけど、時代は萌えに移って「涼宮ハルヒの憂鬱」「けいおん!」「魔法少女まどか☆マギカ」といった新世紀を代表する作品が誕生している。ガンダムのスケールには及ばないが、十年に一度クラスの作品群と言っていいだろう。1981年2月22日はアニメの進化を実感した日だけれども、それから四十年近くが経過、小粒にはなったけれどもアニメは着実に進化し続けている。

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