5. 法螺
雲の陰を追う。空虚な結果を求める者の道程は、空虚以上の何物にも成り得ない。図書委員から垣間見られた利己精神と、樒の実利主義の片鱗は、僕をこの空間の中で辟易の奥に押し込めるには充分な狂気で有った。僕も大概、他者への気遣いというコミュニケーションメソッドに頼らない道を選り好んで来たつもりであったが、もしかしたら、そういう道を歩んで来た例ほど、気遣いとそのリターンに敏感になり、不要な縋りを、心遣いを、遮断しているのかも知れない。「良い人」であろうとする心掛けは、往々にしてその人を他者の欲望に対し敏感にするのだが、それを達成してやるか否かというのは周囲から自己がどのように評価されるか、承認されるかに因る。もし、僕のこの持論が樒に適用されるのであれば、樒が猫を探しているのは、矢張り彼女が美術部長に対し恋心を抱いて居ることの証左であるのか。僕はそんなことを思案しながら、樒と図書委員の利潤追求を諦観して居た。
「……そう言えば、僕達が図書室に入って来た時に、図書委員が樒に向かって先日は、とか言っていたけれども、何か交流が有ったのか?」
「はい、元々樒さんは図書室に屡々いらして居たので、お話しさせて頂いて居たのですが、丁度先週辺りに樒さんに私の相談事を受けて頂いたのです。」
「へえ、君は本当にいっつも何かを解決しているよな。」
「そんな事、本当に無いよ。人は誰かに悩みごとを話したり、時には協力して貰うことで、それを解決することにある種の責任感を持つことが出来るようになって、果ては一人で解決しちゃうんだもの。私はその担保になってるだけだよ。私に力添えが出来るようなことなんて、ものの一つも無いんだから。」
「そうは思わないけどな。実際、君に直接、積極的に救われた人も居るんじゃないのか?例えばほら、今の。」
「それは私達がちゃんと猫を見付けてからじゃないと説得力が無いよ。それに、今回も多分部長が一人で見付けちゃうんじゃないかな?分からないけど。」
僕には、この時彼女の発言の真意は少しも理解出来なかったので、どういう意味か訊き正そうとしたのだが、それは図書室の建て付けの悪い扉が徐に開く音で掻き消されてしまうこととなった。扉の向こうには、僕、樒の属する三年E組のコミュニティの中核を成す、女子生徒が三人立っていた。
「皐月ちゃん?皐月ちゃんって図書室とか来るんだね、もうこんな部屋、誰も使っていないのかと思ってた。」
僕は生まれて此の方、他人の感情、感傷、信条への干渉を故意に避けて来た、と自任しているのだが、そんな僕にしてはらしくもなく、彼女の軽率な発言に些かの苛立ちを覚えた。既に形骸化してしまっている図書室ではあるが、そんな空間一つにさえ、狂気とも言える執着を抱いている人間が居ることを僕は今し方知って仕舞ったが故に。或いは、彼女であれば、それを知って仕舞っていたとて何も気にせずに事を運んでしまうのだろうか。はたまたもし仮にそうなった時、僕はどういう行動を取って出るのか、その刹那には自分でさえ先の平穏の保証は出来なかった。が、そんな未熟な僕の勘案は直ちに杞憂に閉じることとなった。
「あはは、そんなこと無いよ。現に私は、勉強に集中したい時によく利用させてもらっているし。その時にも、ここの蔵書を読みに来る生徒を何人か見掛けるよ。事実、人の出入りが多い訳では無いし、とりわけあなた達には縁遠い場所だと思うから。そう思うのも仕方が無いよね。」
「へえ、そうなんだ。確かに勉強するには丁度良さそうね。教室だとどうしても友達に気を取られちゃったり、つい歓談したりして仕舞うしね。私も見習おうかなあ。」
思ってもないこと、と女子生徒のうちの一人が尤もなつっこみをしてくれたお陰で、僕の心の支えが静かに下りた。
「すみません、何かご用でしょうか。お探しの本でも?」
「ううん違うの、図書室に忘れ物をしたかも知れなくてね、探しに来たの。」
「左様で御座いましたか、それではお気の行くまで。」
会話はそれきりだった。凡そこの場に居る誰も、冗長な雑談を望んでいなかったらしいので当然と言えば当然なのだが、クラスメイトが五人と図書委員を務める二年生の計六人が静寂の内側で巡り遭ったにも拘らず、漏れなく全員がここに流れるホワイトノイズに従順であるというのが、僕には余りにも不自然でならなかった。樒と彼女達は、教室では進んで会話をするような間柄であった筈なのだが。まあ、どういった仲であれ、特段親交の深い友人とかでも無い限り、教室外で出くわした時の対応なんてこんなものなのか、と僕が今まで経験したことのないシチュエーションであるから、殆ど抵抗無く僕の違和感を説得し、撫で下ろすことが出来た。
「あったあった!これだ。ごめんね委員さん、お邪魔しちゃったみたいで。」
「いいえ、見付かったのなら良かったです。またいつでも勉強にいらしてくださいね。」
「あはは、有難うね。」
そんな生返事をしながら、彼女達三人は、過去問題集コーナーから雪崩れ落ちて来んばかりの新品と思しき大量の赤本を分担して、鞄に無理くりに押し込めて、それでも入り切らなかった分は手提げバックに投げ入れて、既存の古い赤本を残して図書室を後にしたのだ。彼女の言った通りに、『持ち主』はすぐに姿を現し、奇妙な図書室に於ける、奇妙な違和感の根源を須らく持ち去って行った。
猫また @phercephone
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