4. ファイル

「猫が居そうな場所と言えば、まずはやっぱり図書室じゃない?」

人気の無い図書室、というのも、この校舎内における図書室の立地が、非常に不便なものになっているからだろう。この学校の校舎は、四階建ての教室棟、二階建ての特別教室棟、四階建ての職員室棟の三つに分かれていて、それぞれの一階と二階は渡り廊下で三校舎とも繋がっているのだが、三階以上は校舎間のアクセスが無い。教室棟は、学生の本拠となるホームルームが入っているので全ての階層、全ての教室を頻繁に使うのだが、職員室棟の三階は職員の会議室となっており、学生は全く立ち入る機会が無い。そして、図書室はその会議室の真上に当たる、職員室棟の四階に有るため、教室からは校内で一番移動に手間のかかるスペースであるので、受験勉強に使われることも無ければ、図書室の本懐であるところの本の借用に利用している生徒も僕は見たことが無い。勿論、美術室は特別教室棟一階に配置されているため、そこから脱走した猫が職員室棟に訪れ、更に四階まで駆け上がって図書室に迷い込むとは考えられない。因って、彼女の今の発言はちゃんちゃら可笑しいのだが、どの道どこを探しても見つかる展望が僕には皆無であった為、些細なことは気にせず、当面は彼女に付き従うことに決めた。職員室棟の階段、三階と四階の間の狭い踊り場で僕を待ち伏せて居た彼女はいやに楽しそうであった。

「早いな。部長ももう来てるのか?」

「ううん、部長はここには呼んでないよ。図書室を探し終わった後で、外で待ち合わせてるから。明日の英語の予習が終わってないから、って。」

「へえ。じゃあとっとと図書室を探して、次に向かおう。どうせこんな所には居やしないんだから。」

「急っ勝ちだなあ、櫟井君は。」

階段を昇り、職員室棟の四階、蛍光灯の不調で薄暗い廊下を暫く歩くと、古い扉の上に、図書室と消えかかった文字で書かれたプレートが見えた。

「十三年前に、教室棟と特別教室棟は改修工事が行われたんだけど、この職員室棟だけは予算の都合で改修出来なかったんだって。各クラスに割り当てられてる掃除の担当場所にも、職員室棟は数えられてないから誰も掃除する人がいなくて、ここまで劣化と汚れが目立つらしいよ。」

「僕は嫌いじゃないけどな、先に進むことだけが美しさでは無いから。」

「進むことだけが美しさでは無いけれども、停滞することはだらしなさの表れだよ、櫟井君。それに、この図書室は決して止まっている訳じゃないよ。」

彼女は、立て付けの悪そうなドアを三回ノックし、ゆっくりと引いた。経年劣化の音が薄暗い廊下に響いて、帰って来る。ドアの向こうは思っていたよりも数段明るかった。

「樒さん、御無沙汰して居ります。先日の件では本当にお世話になりました。」

図書室前方のカウンターの奥には、一人の女子生徒が居た。当然と言えば当然なのだが、図書室とは本来、本の貸し出しを司る施設である為、その管理業務に就く図書委員が毎日番交代で図書室に幽閉されているのだ。今日の図書委員はどうやら、樒の知人らしく、ドアを開け顔を覗かせた彼女に挨拶をした。先日の件というのが少し気に掛かったが。

「ああ、今日は下田さんが当番なんだ。ごめんね、ちょっとだけお邪魔しても良いかな?」

「ええ、勿論。是非ごゆっくりなさってください。何か御用事が有れば、何なりと私にお申し付け下さい。樒さんの御友人の方も是非。」

重たい前髪の陰に覗かせる眼からは、一抹の困惑が見て取れた。僕達が、図書室と言う彼女の聖域を侵したことに対する困り顔であるのか、それとも。しかし、その答えは僕が気にする間も無くこの図書委員の口から知ることが出来た。

「樒さん、あの。」

「うん?どうかしたの?」

「いえ、頼み事と言いますか、相談事と言いますか……。」

「ああ、成る程。今丁度、別の人からの頼まれ事の真っ最中なんだけど、良いや。何かあったの?」

「お忙しいところ、すみません。実は、図書室でも受験生の為に何冊か赤本、と呼ばれる過去問題集の貸し出しを行っているのですが、今日来てみたらその赤本が、十数冊も増えてたんです。それも全く新しいもので、図書室の管理する本であることを証明するシールも貼ってないので、恐らく誰かの私物だと思うのですが。」

「減ったんじゃなくて、増えた、か。盗まれた訳じゃないから、被害を受けたっていう感じじゃあないのね。司書さんから、新しい赤本を入荷した、みたいな話も無かったの?」

「はい、不審に思ったので訊いてみたのですが、特に。」

「赤本が増えたのはいつか分かる?」

「昨日、私が委員の仕事を終えて十八時頃に帰宅する頃には特に違和感も無かったので、その後だと思います。図書室はずっと前から鍵が壊れていて、後ろのドアが施錠出来ないんです。だから、十八時以降に後ろのドアから図書室に入って、赤本を置くことは誰にでも出来ますね。盗むので無く、置いて帰る、というのが不気味ですけど。」

「成る程ね、じゃあ多分、もうすぐ持ち主が取りに来ると思うから大丈夫だよ。」

「分かりました、ありがとうございます。」

「ちょっと待て樒、どういうことだよ。全く意味が分からないんだけど。図書室に赤本を大量に置いて帰る意味も分からないし、それにどうして君は持ち主を知っている。図書委員の君も、分かりましたじゃあ無くって、誰がどういうつもりでそんな奇行に走ったのか気にはならないのか?」

「こら櫟井君、そんな剣幕でまくし立てたら下田さんが困っちゃうでしょう。」

「いえ、私でしたら大丈夫です。……気になるかと問われて仕舞うと、気にならない、と言うのが適当だと思います。私は、図書室に異物が有って、落ち着かなかっただけですので。」

図書室と呼ぶにはどうも手狭な一間に、受付カウンター、椅子にテーブル、本棚と、ぎっしりと敷き詰められている。本棚には少しの隙間も無く、新書、ノベルス、参考書等が並び、どれも漏れなく均等に埃が被さっているので、どの本も長らく手に取られていないものと思える。本棚と本棚との間には、人が一人、身体を半身にすれば漸く滑り込むことが出来る程の間隔しか無く、それが何とも言い難い圧迫感、閉塞感を生み出しつつも、整然と並んだ蔵書の落とす影からはある種の包容力さえも感じられる、確かに不思議な空間だった。陽射しからも嫌われた校舎北側の部屋であるし、それに輪を掛けるように遮光カーテンが僅かな反射光さえも許さず、随一の薄暗さを保っていた。何本かもう点かなくなってしまった疎らな白色蛍光灯は、天井まで届きそうな幾重もの本棚によって僅かな燎を届けるに留まる。読書をするには凡そ暗過ぎるきらいがあるが、人が思案に耽るには、人が忘却の真似事に没頭するには、人が全てを断絶するには、この程度の光量、窮屈さ、荒廃加減、軒並み、それを目的として作られているのではないかとさえ思わせる、そんな不思議な空間である。しかし、そこに居るべくして居る、図書委員の彼女は。そんな空間に居続ける彼女からすれば、この秩序と無秩序の境界線上の空間から発せられる陰鬱で愉快なエネルギーを吸収し続けた彼女からすれば、この安寧を微小なりとも崩さんとするものへの違和感というのは、誰かが私物の本を失くして、困っているかも知れない、という気遣いから来る心配等を心から排斥して仕舞う程に、大きなものであるのか。図書委員の彼女の言ったその台詞が、胸に支えて仕方無い、そんな僕には少しばかり、その感情は理解し兼ねた。

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