終章 夜光蟲
白昼の砂道を一台の荷馬車がゆっくりと走っていた。砂道は西の都の外側から北へと周回するように敷設されており、荷台を抱えた二頭の馬の足でも、一日も掛ければ踏破することができる平坦な路であった。
西の都を通りすがる際、隊列を組んだ騎馬隊の一軍とすれ違った。まさに今旅立ちを始めたという風情で、騎士らが鎧兜の下から覗かせる眼光は血気と希望に滾っている。よくよく観察すれば、隊列の隅では無駄話に興じる者の姿もあった。彼らの行く先は、同盟国軍の中心地である中央義軍の仮城であろうと察しがついた。
城下町の方では、勇者たちの出立を鼓舞する大祭典が催されているようだった。様式的な行進曲をなぞる吹奏楽器と太鼓の音、大勢の人々の賑やかな笑い声が聞こえてくる。
城下町の外壁を見失わぬよう、回り込むようにして荷馬車を走らせる。ジョットは御者台で尻の位置を正しながら、適宜手綱を操る。外壁を見詰め、勝ち戦と信じて疑わぬ西の都の民々を想った。
腰の水袋を外し、一口だけ含んで咥内を潤す。後方の荷車をちらと顧みた。
馬車に付属した荷台には幌が張られており、荷出し口は厚めの遮光幕で隠されている。そのため内部の様子は窺い知れない。おそらくその中でロゼは、
昨晩は南西都市の片端に位置する農村宿で一晩を明かした。同じ寝床を共有しながらその晩も、ロゼはジョットの肉体を要求した。当然これは宿主に隠れて行う行為であったが、自分の上で休みなく動き続ける白妙の娘に、ジョットは何か末恐ろしい狂気を感じていた。
彼女の頭には『孕む』、『産む』という強い目途のみが焼き付けられている。己の色情を発散しようなどという欲念はなく、それが自身に課せられた使命であるように娘は毎晩のように男に情事を強要した。
行為の始終は原始的であり、またどこか昆虫的でもある。雄の蜜蜂は交尾の最後、女王蜂に交尾器を千切り取られ自然死してしまうという。用済みの雄蟷螂は雌に頭を咬まれ餌となってしまうし、東の最果てに生息する毒蜘蛛は、雌に強いられるがまま十何度の交尾を経て、やがて衰弱死に至る。
そうした昆虫の雄たちの最期を想像しながらジョットは身震いする。蟲と同じような死が自分にもやってくるのではと、ロゼと身体を重ねながら考えない夜はなかった。反転呪術の作用により死を見た彼にしてみれば、死ぬことそのものはさして恐るべくことではない。ただ自分が人としての尊厳を失い、ただの雄蟲と成り散り行くという終わりが厭なだけだった。人生をかけ純真に呪術を鍛錬してきた男にとってそれはどんな拷問よりも苦しく、恥辱的なことであった。
そのような不安をふいに寝床で漏らしてしまったことがある。十も歳下の女に斯様な弱い事を吐き出すことも憚れたが、それほどまでに彼はロゼの狂気にやられ、すっかりと精神を弱らせていた。
「貴方には、私の子を育て上げるという役目がある」
身体疲労の汗を頬に浮かべながら彼女は言った。
「俺が、育てる」
阿呆のように繰り返すだけのジョットに、ロゼは依然と整わぬ息を吐きながら頷く。
「子を産めば私は、きっと死んでしまうから。私たちは人なのだから、蟲の世界とは事情が違うのよ。交尾で死ぬのはこの場合雄ではなく……うん。そうね」
曖昧に濁したまま、彼女は目蓋を閉じて微睡んだ。
陽が落ちて幾許。
荷馬車は、西の都から半日ほど北上した宿場街に到着した。いかにも場末といった廃れた街並みであるが、一刻の猶予さえ惜しい旅路においては他に選択肢はなかった。
その晩とある宿に泊まった二人は、三名のならず者の欲牙に曝された。
部屋にロゼを残して厠へ向かったジョットは、用を足した後、棍棒を携えたならず者二名に囲まれた。宿場の反対側を通る路地裏である。出合い頭に振り下ろされた棍棒を右肩で受け止めたジョットは、そこで大体の事情を察した。
ジョットは控えめにも良い身なりをしておらず、奴らの目当てが金銭であったと思えない。宿の一室の窓辺で、やたらと騒がしいなと見れば、向かいが酒場であったことを思い出す。恐らくならず者たちは、ロゼが部屋で目出し笠を取る瞬間を酒場から見ていたのであろう。
「酒酔いの俗物が」
ならず者が再度降ろした棍棒を左腕で受け流す。そのまま右手で棍棒を奪い取ると、ならず者の鳩尾に蹴りを入れた。棒の先で腹を突き上げると、ならず者は地面に吐しゃ物を撒き散らした。怯んだ片割れが逃げ出そうと踵を返すが、ジョットは両足で地を蹴って宙に飛び、勢いのままに片割れの脳天に棍棒を叩き込んだ。
宿場の部屋を開けると、ロゼはちょうど一人の酔漢に組み敷かれているところだった。酔漢はジョットを見るなり醜く笑い、手にした短剣を見せびらかすようにロゼの首元に当てがった。
「
酔漢の歯は半数抜け落ちていた。酒の匂いに加え、家なき浮浪者の酷い悪臭が漂った。ロゼは不快そうに顔を背ける。
「旦那、そこで黙って見ててくんねえかなあ。すぐ終わるからさ。そのこわいの、捨ててくれよ。でないと、ひどいことになるよお」
ジョットは右手にした血痕と脳漿が付着した棍棒を一瞥し、床に放り捨てる。何も持っていないと証明するように両手を広げた。
「勘弁してくれよ」
「だめだ。もう勘弁できねえよ。両手を上げて、頭の上で組んでくれ。そしたら一歩も動いちゃならない。もちろん声を出すのもだめだよ」
またロゼの首筋に短剣を当てるので、ジョットは言われた通り頭の上で両手を組んだ。
「なあ旦那、いい女をもらったなあ。おれにもその幸せ、分けてくれよ。こんな肌白くってさ。顔も綺麗で愛らしくってさあ。まるで天使か、妖精か、女神さまか……なんだかこうして見てると、こいつ、人じゃねえかもしんねえって気分までしてくる」
それを聞いてジョットは笑い出した。短く吹き出したというものではなく、壺底から湧き上がる笑いであった。抑えきれぬので、軽く腰を折って耐えてしまったほどであった。
同調するようにロゼも笑い出す。こちらも負けじと心底可笑しいという風だった。当てがわれた短剣が軽く皮膚を破るほど、ロゼはその可笑しみに悶えた。
「人じゃない。たしかに人ではないのかもしれんな、その娘は」
ジョットは組んだ両手を擦り合わせた。
「まさに蟲。人を喰らう、夜光蟲だ」
座に異変が生じる。訝しむ酔漢の表情が一変し驚愕に満ちた。娘の首筋に当てていた短剣が酔漢の意思に反し、持ち上がっていくのだった。彼の右腕は抵抗するようにぶるぶると震えている。柄の握りは固く、指先が黄白くなっている。左手で抑え込むも右腕は止まろうとしない。
「ん、うんん」
たまらず酔漢は寝床から立ち上がる。逃れるように後退っていき、やがて壁際まで追い詰められていた。ジョットは両手を降ろし、更に深く両手を擦り合わせた。
「なんでだ。なんでだあ?」
短剣の先が酔漢の喉元に突き付けられる。右腕に力を込める。左手の抵抗も虚しく、剣先が徐々に喉へと埋まっていく。動脈の脈動に合わせ、鮮血が断続的に床板を汚していく。短剣が根元まで首へと潜ったとき、酔漢はその場に倒れ伏した。
「もうすぐ、お腹に貴方の子が宿るはずよ」
床で仰向けに倒れる酔漢の胸に、ロゼは直接耳を当てていた。彼の心音が途切れる瞬間が聞きたいと、先ほど彼女は言っていた。ジョットは膝を折り、絶え行く命を愉しむロゼと目を合わせた。
「性別も決まってるの。男の子よ。ちゃんと、元気に産まれてくるみたい。名は貴方が考えて。人らしささえあればなんだっていい。この子にとって名前なんて、さして重要なことではないから……」
心臓が止まった、ロゼは言って酔漢の胸から顔を離す。ジョットは酔漢の開ききった目蓋を指で降ろしてやる。十字を切り簡便に神に祈りを捧げる。対するロゼは祈ることなく自然体に、妖しい笑みをたたえ黙するばかりであった。
「あと一か月もすれば、戦は一旦の終戦を迎えるわ。名目を『聖戦』として、人類史に永く刻み込まれるような大事件となる」
ロゼは古びた窓戸を閉じた。酒場からの騒音を残し、室内に血の気が満ちる。
「そして二年後、西の都の外れに『巨岩』が落ちる。東の霊樹林では異種交配が行われ『忌み子』が、亡国・南の王都では『病の根源』が産まれる。そして最後に、この子」
ロゼは自身の腹を摩った。
「十五年後、十三になった四人の子がそれぞれに交じ合う。交じり合って、それからがどうなるのでしょう? 滅びゆく世界に子らがどう抗うのか、未だ視えてこない……」
ロゼは遺体を踏みしめ、寝床で横になる。手招きをしてジョットを呼ぶ。
分からん――と疑惑を払拭しきれないのは、やはり彼女が『千里視』に加え『未来視』の能力まで獲得しているということだった。ロゼの痩躯を抱き寄せながら、鼻をつく血の気配から逃れるように胸元に顔を埋める。幼さの抜けぬ青臭い娘の匂いを嗅ぎながら、ふと頭をつくのは布切れの術師のこと。驟雨のランベルティ邸宅に佇み、ロゼに対し白皮の呪術を仕掛けた張本人。奴は天文学的な技量の持ち主であろうと思われる。心像術そのものが高等であるにも関わらずその反転呪術、更には千里眼と未来視までも少女に刻み込んだ妙齢術師。故人含め、四大都市の長い歴史を見てもそのような天性人は片手で数えるほどしか浮かばぬが……。
そこまで考えたとき、ジョットの脳裏に電撃で打たれるような衝撃が走った。
顔を離し、ロゼの旅路着を剥ぎ取る。裸の背中を眼下に晒した。狭く細い背肌を覆いつくす『心像』の反転呪紋。禍々しい
娘と身体を交えながら、ジョットは土留の反転呪紋を睨みつける。
今から産まれてくる子は、彼女の子でも、俺の子でも……ましてや、人の子ですらないのかもしれない。ロゼ・ランベルティという人智外を差し置いて余りある『人外』。
俺を恨め、とジョットは言い聞かせた。決して母を恨むなと。彼女は正しく被害者である。太陽を失い、人生を狂わされ、雄を食む夜光蟲とならざるを得なかったお前の母は、この滅びゆく世界、第一号の罹災者なのだと。穴が開くほど呪紋を睨みつけ、ぎりと唇を噛む。我が子の不幸を思い目から涙が伝った。
酒気が入り込み、下卑た笑いが届いてくる。
部屋中に充満する血の気が汗と混じり合い蒸発していく。
白き娘は嬌声を上げる。男は荒い吐息と共に果てた。
目蓋を閉じていたはずの酔漢がこちらに顔をやり、光の灯らぬ目を向けた。
<了>
白皮のロゼ 小岩井豊 @yutaka_koiwai
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