七話 衰世

 男は声なき叫びを上げる。声帯を齧り取られたのか、それとも喉に風穴でも開けられているのか、開いた口元から漏れるのは空気が抜け出すような間抜けな音。

 肉刺しで抉られた胸元から蟲が入り込む。肉を食まれるぐちぐちとした音が規則的に鳴る。そのような音は全身からしていた。

 痛覚は既に失われているようだった。いくら蟲に齧られようが、食まれようが、刺されようが、吸われようが、もう何と思う事もない。どころか手足、胴、下腹部、指や舌などの末端部が身体のどこにあるのかさえ判然としない。視力は失われ、触覚受容器も機能しない。あるいは四肢などとっくに離散し、肉と呼べる部位など食べ尽くされてしまっているのかもしれない。


 そのような状況下でもジョットの意識は顕然とうつつに残っていた。

 蟲に喰い犯され、肉体が細切れに擦り切られ破壊されていく過程を、一秒ずつ丁寧に思い知る。気絶や昏睡という赦しもなくただ自生の終わりを苦悶と共に待ち侘びる。


 生と死の境はどこにあるのだろう、とふいに思う。これが呪術に見せられた幻影であるということも忘れて。

 ジョットには、他人の命を奪う機会がこれまで幾度もあった。人というのはきっかけ一つで簡単に死に至る。頭を強く打ったとか、猛毒を含んだとか、心臓を貫かれたとか、そんな呆気ないもの。きっかけの一つで人命は、そよ風に煽られた蝋燭の火のように音無く消失する。

 故に彼は、生と死の間には必ずきっかけがあり、明確な境界線が存在するのだと考えていた。が、今にしてみればそれは、死の経験もない無知な男による率然たる僻目ひがめでしかなかった。

 ジョットは我が身を持って知る。肉体を失いつつもなお魂を宿した自意識に。自分が今生きているのか、死んでいるのかも分からぬ容体に。


 確信として胸中を占めるのは、生と死には境界線などないということ。二つを繋ぐ線はどこまでも真っ直ぐで、地続きに結合している。きっかけや段階はそもそもなく、魂の混成すら曖昧に、生体と死体は連綿に調和している。俺はいつの間にか死んでいて、きっとその死んだことにさえ暫く気づけないのだろう。

 そのように彼の脳は死の迫真に触れている。これが死の全景、真実の手触りなのだと。やけにひんやりとした、窯から出したばかりの硝子のように滑らかな輪郭。それでいて内容物は生々しく、静かな戦慄を湛えている。天使が優しく抱擁し冥界へと送り出してくれるような――そんな象徴性もなくただただ無機質でしらっぽい世界。


 やがてジョットは視力を閉ざした。有るかも分からぬ四肢をだらりと垂れる。喉の風穴から吐息を漏らす。蟲の侵食に身を委ねながら、彼は安らかに眠りに落ちていく。



 * * *



 男は覚醒する。

 つい先刻まで感じていた死の光景はすっかり霧散していた。春の暖かみがあったが、そこは一条の光すら挿さぬ闇黒き一室であった。

 確かな肉存感がやけに重く、しばらく起き上がれずに呆然と目を瞬き、ようやくのことで半身を起こす。彼はいつの間にか寝敷の台に寝かされていた。

 闇に目が慣れるのを待ったが、依然として室内の形相は見えてこない。仄かな生活臭と他者の存在感が残滓として鼻先に纏わりついている。

 両手の指先には包帯が巻かれていた。顎裏と胸の傷にも医療措置の痕が見られる。ジョットは寝台から立ち窓辺と思しき場所へと歩み寄る。掛けられた厚い毛布を剥ぐ。鎧戸の影が薄らと見て取れるが、羽の隙間にも板が打ち付けられており、やはり光は入ってこない。無理にこじ開けようと手を伸ばそうとして、そこで彼は動きを止めた。

 ふいに、寝台と対面する壁際へと目を向ける。


 物憂げに佇む室内の常闇。椅子の軋り、呼吸音、衣服を擦る音もなく、幽寂としている。だがその存在は漆黒の没空間の座で無音に居座っていた。ジョットには、それが分かる気がした。


 ――芸がない。


 ジョットは口元で笑う。「俺はどれだけ寝ていた?」と、虚空に向けて言葉を放る。


「……ひと月ほど」


 闇は事も無げに応えた。出し抜けに碧色の炎が焚かれる。化粧台に置かれた角燈ランタンの灯かりだった。

 椅子に三角座りで佇む娘の孤影がぼうっと浮かび上がる。白皙はくせきの肌と長い雪髪が碧炎を受け、仄々ほのぼのと光りだす。あまりの眩さにジョットは目を細めた。相変わらず娘は発光体じみた神々しさで、目を背けたくなるほどに美しい。


「よかったわね、生きてて」


 ロゼ・ランベルティは眉ひとつ動かさず言う。炎に映し出されたのは、華やかさとは無縁の黴っぽい私空間。永き闇に毒された静謐が重々しく在中している。

 化粧台と寝台の間に割り込むように、銀輪付きの配膳台が置かれていた。そこにはささやかな薬膳料理が並べられていた。


「お腹が空いているのでしょう?」


 ジョットは腹を摩る。我が身の細り具合に驚き、次に口元を触ると、びっしりと髯が生えていた。肌は艶がなくかさついている。ロゼと対面するように寝台に腰掛け水菜汁の器に触れた。器は淡くを帯びており、ほんのりと湯気が立ち上っていた。


「まるで俺がいつ目覚めるのか、知っていたようだ」


「知っていたわ」ロゼは頷く。「知っていて、この時に合わせて作らせたの」


 ジョットはじっと白き娘の目を見詰める。地下室で見たあの紅眼でなく、正常とした澄んだ碧眼。彼女の目は微動だに震わず、彼に解答を寄こそうとしない。ジョットは黙って食事を始めた。




 ジョットは食事を終えると、水で浸した手拭いで顔を拭いた。時間をかけて念入りに、全身の垢を隅々まで落としていく。伸びた髯を短く切り、剃刀で剃り落とす。清潔な寝巻に着替え、寝敷も新しいものと交換した。寝室の扉を開けると、そこから続く廊下も真っ暗だったがそこには若い女中が立っており、ジョットを見るなり深々と頭を下げた。両手を差し出してくるので、彼は無言で古い寝巻と敷物、手拭いや剃刀を手渡した。

 一部始終をロゼは黙して眺めていた。

 その後は重い疲れが肩に降りてきて、ジョットはまた寝台の上で微睡んだ。ロゼはもう一眠りするよう彼を促す。その言葉に甘えるように、ジョットはまた深い眠りに落ちた。


 次に目覚めたときには半月が経っていた。

 ジョットはまた薬膳料理を食し、身なりを整え寝敷物を交換した。ロゼは眠る前と同じ体勢のまま、やはり黙って彼の様子を眺めている。彼に対し何かしらの事物を語るのはまだ早いというように、口数も少なくただそこに居る。

 疲れは未だ和らがず、ジョットは眠欲に任せて更に眠る。

 次は七日眠り、その次は四日眠り、また次には丸一日を眠って過ごした。




 丸一日の眠りから覚醒したとき、ジョットは驚くほど身体が軽くなっていることに気づいた。指に巻かれた包帯はいつの間にか外されており、九本の爪は綺麗に生え揃っている。肉刺しの傷跡もほぼ完全に塞がっているようだった。

 用意された食事はもう薬膳ものではなく、貴族家らしい豪勢な配膳であった。胃の底から漲る食欲を開放するように次々と皿を空けていく。同じ配膳をもう一通り腹に収めると、多大な満足感と共に彼は寝台の上で胡坐をかいた。


 それを見て白き娘はにこりと微笑む。久しぶりに見た表情の変化だった。角燈の碧に照らされながら、彼女は事の次第を語り出した。


「今、世では戦が起こっているわ。発端は今日から数えて、およそ二週間ほど前に」


「戦」


 感慨もなくジョットは反芻する。大方、四大都市同士の小競り合いであろうと、せいぜいの予想がついた。大した驚きもなく彼は、戦ね、と呟めく。

 そもそもジョットは西の都から派遣された暗殺者である。ランベルティ侯爵の命を狙ったのも南の都の軍事力削減が目的であった。そのような素性も当然彼女には見抜かれているはず。

 自分が何故この娘に生かされ、こうして手厚く世話をされているのかは甚だ疑問であったが、その事情は今から語ってくれるのだろうと呑気に寝台で横になる。


 だが、ロゼが話し出したのは、現世が抱えた『特殊な現状』であった。予想だにしない筋書にジョットはいつしか腰を上げ、深く話に聞き入っていた。

 娘が口にする言葉の一つ一つは何か冗談めいており――それこそ創作神話の世界のような――突飛もない出任せにしか思えなかった。しかしこれを笑い話ととり笑い飛ばすには娘の語り口はあまりに詳細で、侯爵の死を語った際と同様にどこまでも純然としていた。またその内容は現在の事象に留まらず、近い未来への予言めいたものまで含まれている。

 つまり、この世界が今後どうなっていくのか、というものであった。


 だが、とジョットは頭を振る。ロゼが体得するのは『千里紅眼』。それは千里先の光景を知見するものであり、間違っても未来を視るものではない。語りの締めとして「あと二十年で世界は崩壊する」と放つロゼの言に根拠などあるはずもないのに、それでもジョットの胸には覆し難いほどの真実味が植え付けられていた。


「旅の支度をして、ジョット」ロゼは音もなく椅子から降り立つ。


「どうするつもりだ?」ジョットは不安げにロゼを見上げる。侯爵を殺害し、報復に殺されるべきはずだった俺は……これから、この娘に一体何を要求されるというのか?


「どうするもなにも、あとこの南の都に、いつまでも居たって仕様がないから。私はこれから北の都に向かう。貴方は、黙って私に着いてくるだけでいい」


「着いてきて、俺はどうする?」


「まずは私を守ること。世は恐慌の最中さなかにあって、道中もきっと殺伐としているし。布切れの予言に従うなら、貴方を連れ出さないと意味がないから。それから……もう一つ」


 ロゼは手の甲で旅路着の埃を払った。


「北の都で、私は貴方の子を産む」

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