六話 悪しき呪紋
ジョットの『心像』は師匠の幻惑呪術から傍系し、更に独自の改良が加えられたもの。彼の流派は戦場での暗躍に有用な呪術を専門としていたが、ジョットが目指したのは公での有用性ではなく個へ向けた侵害性、つまり実用的な暗殺術の確立だった。
従来の幻惑呪術の発現法といえば、厳かな正装に身を包み、清書された術式を精読後、その場で高らかに読み上げるというのが一般的であった。
刃の打合音、矢の風切り、怒号や悲鳴の飛び交う
だが、神術も時代と共に進化する。詠唱や朗読を省略したいという思いはどの術門にもあり、それぞれが新たな発現法を編み出した。ジョットの流派も時代に追従し、詠唱の代わりに空に呪紋を描くなどし術を作動させた。
それでも彼は、まだ足りぬ、と考えていた。彼の『心像』は戦場外の日常にこそ活かすもの。油断した要人を謀殺するためには、もっと静音微動な詠唱が要求された。
ジョットが辿り着いた術の発現法は、『対象を目で捉え』ながら『呪紋の描かれた手指を擦り合わせる』こと。
呪紋とは術式を簡略化したものであり、紋形は王家や爵位家が掲げるような家紋にも似る。
昨今の呪紋は、形式さえ正しければどのような用筆を用いてもよい、という技術点まで進歩していた。硬質な羽根筆で清書された術式が必須であった過去を鑑みれば、これは大きな技術革新である。
用筆を選ばぬということは、極端に言えば、肌に馴染むような色の塗料でも良いわけだ。ジョットの手指、爪の至る箇所には、目を凝らさねば分からぬほど淡彩な呪紋が無数に描かれている。前知識なしに彼の術作動を見破るなど、まず不可能だろう。
十五歳でこの理想体系を思い描き、実現させるまでに十年もの時を要してしまった。が、彼の
また、『心像』などと大仰に銘打たれてはいるが、この術が対象にもたらす作用はただ一つである。
それは、相手がそのとき持っている思考形態の真逆を思わせること。それが『心像』の肝要であり最小単位。飢餓の者には飽満を、溌剌には疲弊を、怠慢には精勤を――思考の在り方をそのまま真逆に反転し心根に植え付ける。鷹と侯爵の心を操作したのは、この特性に基づく作用であった。
さあ見せてみろ、とジョットは思う。お前の最悪は何だ?
『心像』は、対象人物が自分の優位を確信しているときほど効果を発揮する。私の身の安全は保障されている、そんな安閑の芽こそが『心像』の格好の餌となる。侯爵の場合は、自身の生還に安堵したからこそ生まれた、真逆の『自決』という発想だったのだろう。
ロゼはジョットを拘束する立場であり、更には彼の犯行の真実までを暴いてみせた。彼女が優位に酔いしれているであろう事は疑いようもなく、またとない絶好の機会に思えた。術師当人にも計り知れない効力があるはずだと、ジョットは笑いを堪えられない。
「ねえ」
ジョットは爪を擦りながら少女の紅い瞳に思念を送っていた。己の術に夢中になるあまり、状況の機微に鈍感になる。彼女の
「さて、どうしてでしょうね? そろそろ始まっていてもおかしくないのにね、
やがて男は爪擦りを止め、唖然としてロゼを見つめた。もはや感覚の失せた下顎を震わせ、事もなげに立ち尽くす少女に愕然とする。
「どうして小指の爪だけを残したのか、これで分かった?」
「え……」
「爪を剥ぐのは、なにも貴方を痛めつける為だけのものじゃない。誘っていたのよ。どうしても貴方に『心像』の呪いを掛けてほしかったから」ロゼは言葉を打ち消すように頭を振る。「正確に言えば貴方の呪いを……そのまま貴方にお返ししたかったから」
そう言ってロゼは、おもむろに亜麻の上衣を脱いだ。補正下着、肌着の類は着けておらず、すぐに裸の上半身が露わになる。発光体のような白肌が乳房ごと現れ、少女の眩しさが増して映る。そのまま彼女はその場で踵を返し背中を見せた。そこでジョットは「あっ」と間抜けに声を上げる。
その背には巨大な呪紋が描かれていた。ロゼの狭い背肌を覆いつくすほど大きい紋章で、彫刻刀で掘られたように悪質に、
「『心像』の、反転呪紋か」
ロゼは背を見せたまま頷く。
反転呪紋は、主作用に副作用を併せ持つ紋型で、既存の正当呪紋を反転描画したものだ。一つは鏡合わせの要領で左右を逆に、もう一つは、鏡合わせから更に紋の四隅を反転したものである。後者はより複雑で、刻まれる紋型はその分、禍々しく歪である。
ただでさえ難解な紋型を、反転描画しながら呪呼するのは至難の業だ。それこそ神人創生に携わったものか、精霊一体をまるごと身体に取り込んだ者――あるいはそのような段階を踏むまでもない、純然たる才の傑物か。
布切れの術師、とジョットは思う。
ロゼに白皮の病を植え付け、千里紅眼を付与した張本人。この反転呪紋の正体は間違いなくその術師であろう。しかし、これをただの偶然として良いものか。布切れの呪紋がよりによって、どうして俺の術の反転型なのか?
「子供の頃からずっと引っ掛かっていたの。どうしてあの布切れは、私の未来を知っているかのような口振りだったのか。私の『子』が、世界に影響を及ぼす……そんなのが私の天命だって、どうして」
ロゼは上衣を着直す。
「そこで私はこう思った。布切れはきっと、私の人生の転機すらも予期している。背中に刻まれた呪紋も、その転機・展望を示唆しているのかもしれない。そう考えたの。そんな折、小間使いのある術師の存在を知った。実はね、お父様の事件よりもっと以前から、貴方に目を付けていたの。貴方が毎晩毎晩、使用人部屋の隅で自分の指や爪に描いていた呪紋。その呪紋が私の背中にある紋の反転型であったということ。そんな光景を『視』たとき、私は直観した」
振り返ったロゼの顔には、どこまでも安らかな笑みが浮かんでいた。
「ああ、この人が私に転機を与えてくれるんだって。この邸宅で何かをやらかして、このつまらない南の王都から、私を連れ出してくれるんだって……」
唐突に、黒い異物がジョットの視界に現れた。それは反転呪紋の副作用が始まっていることを意味している。異物は砂粒のように微細で、数え切れぬほどの相当数の上、粒の一つずつには六つ足が付属していた。六つ足はぞわぞわと蠢動し彼の視界を絶えず這い回る。六つ足の蠢動に留まらず、胃の奥底からも物理的な異物感があった。食道を這い上がり、胃液を逆流させるような急激な嗚咽感が沸き上がる。
「ああ、ごめんなさいジョット。今はそれどころじゃなかったわね」
ロゼは両手を打ち鳴らす。乾いた音が地下室中に響いた。
「さあ、貴方の最悪を見せて」
砂嵐の狭間から何かが突き上がる。それは視界を覆うほどの大きな百足だった。成人女性の前腕ほどの太さで、甲殻は赤黒く、ねっとりとした艶がある。信じがたいことに百足はジョットの口から吐き出されていた。嗚咽感の正体はこれかと僅かな理性のままに悟る。食道の内壁を痛いほどに押し広げながら百足は這い上がる。全身を滑らせながら彼の頭に絡まり、胴体に付着した胃液を塗りたくる。無数の足がかさかさと擦り合い耳元で不快音を奏でる。
――そういや俺は、昔から蟲が大嫌いだったな。
いつしかジョットの身体は、大量の蟲で覆われていた。蛾、蟷螂、蠅、蜻蛉、蛆、蚕……気を失いそうになりながら、しかし彼に休む暇はなかった。唐突に体内で強烈な異変を感じ、激しい痛みと共に吐血する。身体の中に肉食虫でも入り込んでいるのか、体験したことがないような強い芯痛感だった。至る部位の表皮が蟲に齧られ始め、引きちぎられるような痛みが走る。かと思えば鞭で打たれるような衝撃を受け、また、神経を直接切断するような痛みに全身が跳ねた。
――そうか。俺は、蟲に喰い殺されるのが一番怖い。
目に映る世界が赤と黒に明滅する。男の絶叫は止まない。爪を剥がれた方がまだ良かったと意識の端に思う。痛みに意識を失うことさえ許されず、ジョットの気の遠くなるような地獄が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます