第6話 不可解
「さてと、悩みっていうのは何かな」
彩子の淹れた紅茶がカップから湯気を立てている。それに不似合いな小さな卓袱台が置いてある4畳半の和室が浩一の部屋だ。物置にされようとしていたところを浩一が貰い受けたのだ。
「ええと、その。単刀直入になっちゃうんだけど」
「うん」
「例えばクラスにいじめられてる人がいて、その人が自殺を考えてたらどうすべきなのかなって……」
浩一は目を瞬かせて腕を組んだ。ふむ、と呟いて俯き、少しの間考える素振りを見せた。
優は浩一の返事を待つ間、落ち着かない様子で膝の上で指を動かしていた。
浩一はかつていじめられていた彩子を救ったのだ、きっと何か役立つことを言ってくれる。優はそう期待していた。
「優はどう考えてるんだ」
「え?」
「その子にどうして欲しいとか、自分はこうしたいだとか」
「それは……その子には自殺しないで欲しいよ」
まあそうよな、と浩一は頷いた。
浩一に要求されて優は状況の説明をした。いじめられているクラスメイトがいること、現在は集団無視を受けていること、自殺の意思が綴られた日記を見つけたこと。
おおまかな説明だったが浩一には粗方伝わったようで、浩一はなるほどなあ、と零して紅茶を啜った。
「そうだなあ、まあ今僕がひとつ言えるとすればだね」
「うん」
「どうしようもないんじゃないかな」
「……へ?」
優は悪い意味で予想外の言葉に拍子抜けした。
数秒の沈黙の後に戸惑いを覚えて、優は自分の手元と浩一の顔に視線を往復させた。対する浩一は緊張感のない表情のままだ。
「ええと、あの……なんで?」
「その子はもう自殺しようと決めているんだろう? 一度決めてしまうと頑なになるし、並大抵のことでは意思を覆すのは難しいだろうね」
「いや、その、そうだろうけど」
「まあ少し厳しい言い方をするとだね。その子と接点の少ない優が何かしようとしても、その子の心を動かすのは難しいと思うんだ」
「あー……」
優は浩一の言葉に納得できてしまうことに気が付いて返事を見失った。
まともに話したことのない人間に、誰にも話していないであろう自殺の意思について触れられても、ならば生きようとは思えないだろうと安易に想像できて頬を掻いた。
「無責任になってしまうけど、自殺するかしないかはその子の意思であって、僕らがどうこうできる問題とは限らない」
「……それってつまり、何かすべきではないってこと?」
「さあなあ。優がしたいならすればいいさ」
浩一が想像していたよりも投げやりなことを言うので、優は眉を寄せた。
一緒に暮らしているにも関わらず、どこかで浩一のことを綺麗事か情熱的な言葉ばかりを吐く人間だと思っていたのだ。
彩子が救われたと聞いて、優は浩一をますますそういう人間なのだと思い込んでいた。
「なんか、あれだな……。おじいちゃんってもっと、おばあちゃんが言ってたみたいに情熱的で、救世主みたいなこと言うのかと思ったけど」
「なんだ、言っただろう。僕はあくまでも身勝手で、彩子さんに話しかけたのは自分が話しかけたかったからだよ」
「……おばあちゃんはそれで救われたって言ってたじゃん。そのつもりで話しかけたんじゃなかったの」
「運だとかタイミングが良かっただけさ。ここだけの話、僕は彩子さんを救うつもりはなかったんだ」
夕飯前の昔話の時のように、優は心が冷めるのを感じた。
やはり浩一はスクリーンの中の人間で、表皮は液晶ディスプレイでできているのではないかと優に思わせた。
昼間は青春映画の主人公のように見えていた。しかし今は、矛盾や未回収の伏線を置き去りにした低予算なドラマの、綺麗なところだけを無理矢理まとめたような都合のいい人物に見えていた。
「救うつもりが、なかった?」
「厳密に言うとだね、救えるなんて思っていなかった」
「……へえ」
「まあそれは置いておいてだ。多分だけど、その子は他人に期待なんかしていないよ。だから自殺なんて考えてるんだろうね」
浩一の言うことは非人間的で慈愛など感じさせない、だからこそ正論と言える。
他人に期待なんかしていない、という一言に優は妙に切なくなった。いくら優が真琴のことを考えていても、真琴にしてみれば他人に過ぎない。自分で分かっていても、人に言われるとより重く胃に溜まっていくようだ。
「とりあえず、どうすべきか自分でも考えてみるよ。ありがと、おじいちゃん」
「まあ碌な助言ではないけどな。他には何かないか」
「他? そうだな……」
真琴の件に関して考える気力が削がれてしまった優の脳裏に、勇の姿が浮かび上がった。
訊くべきか迷ったが、真琴の件への反応がやたらドライだったことで、優は浩一に気を遣うのが何となく馬鹿馬鹿しくなった。
「宮木勇って分かる?」
突然出てきた勇の名前に、浩一はやや目を見開いて驚愕したようだった。その表情が明らかにイエスと言っている。
「どうして勇を知ってるんだ」
「おじいちゃんが昼寝してる時に寝言で言ってたから、何なんだろうって」
「ああ……そうなのか」
優は帰宅した時点では勇のことを訊くつもりだったので、何か聞き返された時の回答は滑らかに口にできた。
浩一は不思議そうにしていたが、無理矢理納得したようで数度頷いて紅茶を飲み干した。
「宮木勇は僕の中学生時代の親友だよ」
「……へえ、今はもう交流はないの?」
「高校生の時に亡くなってしまってね」
「そうなんだ……。ごめんね、そんなこと聞いちゃって」
優には気を遣うつもりなど最早なかったが、それでもそうすべきだと知っているので気を遣った振りをした。
勇はやはり幽霊なのだろうかと考えて、優は帰り道での会話を思い返した。自分と同じ生身の人間とは思えないが、体温のある身体を持っているのも確かで、幽霊と言い切るのも合点がいかない。
「その人、どうして亡くなっちゃったの?」
「さあなあ、ある日いきなり自殺したって連絡が来てね。別々の高校だったからよく分からないんだ」
優は相槌を打ってから紅茶を飲み干した。
勇が約60年前の人物であることにも、既に死亡していることにも大して驚きはしなかった。しかし自殺というのがどうにも釈然としない。
姿こそ昔の浩一だが性格自体は本人のままのはすなのだ。優には勇が自殺するような人物には到底思えなかった。
「僕はね、勇が自殺した時ひどく情けなくて悲しかったね」
「まあ、そうだろうね」
「自分が勇をこの世に留めさせるものになり得なかったということだからね。連絡もなく急に自殺してしまって、死ぬ前にこいつと1回くらい会っておこうだとか思われもしなかったというのが悲しかったね」
「これから自殺する人がそんなこと考えるかな」
「だが自殺する人は身の回りを綺麗に整頓してから、飛び降りる時は靴を脱いで揃えると言うじゃないか。まあ、勇はそこまで几帳面で真面目でもなかったけどね」
浩一が眉を寄せるのを見て、優はようやく彼が現実の人間のように見えた。もう終わったことに理由や理屈をつけたがるところが、往生際が悪くて人間らしいと感じた。
「僕らは自殺する気がないから、これから自殺する人の気持ちなど分からない。だから想像するだけ無駄には違いないんだろう」
「そうかな。人の気持ちを想像するのが思いやりとかじゃないの」
「それは確かにその通りだね。しかしだね、もし優がその子の自殺を止めたいと思うのなら、きっとそれでは足りないんだ。非常に残念なことに、いつの時代もどんな時も、人の心を動かすのは思いやりのある思慮深い人ではなく、大体思いのまま行動する人ばかりだ。影響力というやつさ」
あくまでも身勝手で彩子に話しかけたという浩一の言葉を思い返して、優は浩一の言いたいことをぼんやりと理解した。
しかし理解してもどうにも納得はいかなかった。勇が自分の憧れる姿に見えているとして、明日の勇が浩一に見えるような気がしなかった。
令和の亡霊 津田享 @sudaaki
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