第5話 憧れとの差

優は自宅に戻って早速、祖父に勇のことを尋ねようとした。

しかしどう切り出すべきか悩んで、恐る恐るいつものようにダイニングテーブルで彩子と談笑している浩一の隣に腰掛けた。


「あら、こっちに来るの珍しいわね」

「うんまあ、たまには。なんか、おじいちゃんが学生だった頃の話聞きたくなって」

「なんだ珍しいな。じじいの、というより暇人の話は長いもんだぞ」


浩一は何から話そうかと考えて、楽しそうに唸った。彩子もそうねえ、とやけに嬉しそうに呟いた。


「学生の頃の浩一さんはね、本当に格好良かったのよ。もちろん今もだけどね」

「なんだか照れるものだね、昔話とは。僕は特に青かった記憶があるから」

「情熱的って言うのよ」


昔話のはずが結局惚気話になりそうで、優は内心どう誘導すべきか考えながら薄く微笑んだ。

格好いい、情熱的。彩子の贔屓目もあるかもしれないが、学生時代の浩一の姿はそれだけで想像できそうだ。


「実はね、私高校生の時はいじめられてたのよ。それを救ってくれたのが浩一さんだったの。だから私にとってはヒーローなの」

「救うなんて、僕はそんな大層なことをしたつもりはないよ」


まるで血の気が引くように、すっと心が冷めるのを感じた優は、しかしそれを顔に出さないように努めた。

人望があって人に囲まれ、いじめられている人を助けるだけの勇気がある。さらに恩を着せるわけでもなく大層なことではないと言ってのける。

優は浩一と自分の差を感じ取っていた。本人たちは昔のことだからと簡単に語っているのだろうが、本質を比べてしまえば一層違いが明確になりそうだった。そして優は、茂木真琴を救えるのはこういう人間なのだろうと考えた。


「自己満足みたいなものさ。僕はずっと彩子さんに話し掛けてみたかった。皆がそうだからと声を掛けられない腑抜けになってたまるかっていう身勝手さだったかな」

「そういうところが情熱的なのよね」

「まあ身勝手でも情熱的でも、結果的に彩子さんとこうなれたんだから万々歳だ」


学生時代の話を聞くほどに、優の心は冷めていく。浩一は現実の人間なのだからもっと現実的な過去のことを口にするのだと、勝手にそう思っていたのだ。

聞けば聞くほど、浩一はまるで創作物の中の人間のようだ。誇張して語る人間は表情や口調でそうだと分かるものだが、彩子と浩一の様子からはそういったものは感じられない。


「なんか凄いね、青春映画の主人公みたいだ」


どんな時でも己を貫き、周りの人々を納得させてしまう、綺麗事で作られた人間。たった1人の愛すべき誰かと出会い、年老いてもなお互いを愛し合える。

確かに憧れだ。勇だけでなく、浩一は全ての人間の憧れになり得るのだ。浩一の人生は、多くの人が憧れ、そして不可能だと悟ってしまえるようなものだ。

隣に座っているにも関わらず、優は浩一との間にまるでスクリーンのような隔たりを感じていた。


「どうした優、飽きたか」

「ああいや、そろそろお腹空いたなーって」

「そうか、それならそろそろ夕飯にするか。今日は親子丼だからな」


自宅のドアを開けるまでは浩一に勇のことを聞き出そうと決めていたが、いざとなるとどう切り出すべきか分からず、優は台所に向かった浩一の姿を目線で追った。

優は浩一の姿でない勇についてはまったくの無知である。今更ではあるが、そもそも訊くべきかを迷っていた。

学生時代の浩一の姿をしているだけで、実際の年齢や浩一との関係性については不明なままだ。勇が一方的に浩一に憧れているだけならば、浩一が勇についてあまり詳しくない可能性もある。

眉を寄せて考える優に困ったように微笑んで、彩子はしみじみと学生時代のことを口にした。


「大袈裟だろうけど本当にね、浩一さんが助けてくれなければ死んでたかもしれなかったの」

「死ん……?」


その一言は優にとって、突如浴びせられた冷水のようだった。


「……違う」

「え?」


勇の正体など今はどうでも良い、優先順位が違う。今すべきことは茂木真琴の自殺を止めることだ。茂木真琴を救わねばならない。

彩子の言葉は優にそう思考させた。というよりも、なるべく意識の端に寄せようとしていた最も大きな問題を思い出させた。

このままでは真琴は、かつての彩子がそうしようとしたように、悲しむ人がいるであろうことにも気付かず自殺して、真琴を気に掛けていた者全ての心に腫瘍を残すのだ。そして自殺を選んだことで他の選択肢を全て捨て、将来起こるであろう全てをなかったことにしてしまうのだ。優は瞬時に、自分自身もそのひとつであったのだと気が付いた。


「ありがと、おばあちゃん」


優はカップに残っていた紅茶を飲み干して、台所のシンクに置きに行った。

スライスされたタマネギと鶏もも肉が小さく煮立つフライパンの中で揺れていて、浩一はそれを見ながらボウルに卵を溶いている。


「おじいちゃん」

「どうした、もうすぐできるぞ」

「あのさ、夕飯の後で相談したいことがあるんだ」

「そうか、悩みならいくらでも聞くぞ」


浩一が簡単にそう言ってのけたので、優は人差し指に引っ掛けたカップの重さのようにまた浩一との差を身に感じた。そして、きっとこの差を感じなくなってようやく真琴を救える人間になれるのだと考えた。

半熟の卵をレードルで掬って白飯の上に乗せ、三つ葉を飾れば完成だ。親子丼と切り干し大根の小鉢が駿河家の本日の夕飯だ。


「いただきます」

「いただきます。久しぶりだわ、浩一さんの親子丼」

「はは、さあどうぞ、召し上がれ」


出来合いの食事の配達サービスが広く普及しているが、半熟卵の親子丼は配達サービスでは食べられない。食中毒のリスクを考慮して、配送される食事は完全に火を通しているか、生物はチルド保管されている。そのため半熟は自宅で作るか飲食店に直接赴かなければ食べられない。

最近は配達中に車内で自動調理を行う車も開発されているが、利用者の火傷のリスクだとか電気容量の都合だとかで実用には至っていない。

配達サービスのクオリティは年々上がっているものの、揚げ物は揚げたてでの提供は難しくグラタンのチーズはどうしても多少固まってしまう。

毎日手作りされている駿河家の食事は高級な食材は使われていなくとも贅沢なものだ。


「どうだ優、うまいか」

「うん」


浩一の親子丼は実際美味なので、優は頷いて箸を進めた。

間も無く帰宅した両親に椅子を譲って、優は台所のシンクに食べ終えた食器を浸けた。浩一は両親の分の親子丼を作っており、浩一を待つ間手持ち無沙汰な優はやはり自分で皿洗いをしようと袖を捲った。

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