エピローグ

第38話:わたしの生きる世界

 従業員用の裏口を出て、ポケットに手を入れる。硬貨を数枚ピックし、金額を確認せずに自販機に投入する。緑茶かウーロン茶が飲みたかったのだが、ランプが灯ったのは見るからに甘そうなカフェオレだけだった。これも巡り合わせだ、と自分に言い聞かせ、ボタンを押す。鈍い音とともにドリンクが排出される。缶にはでかでかと「期間限定、増量中!」と書かれていた。


 プルタブを起こすと、ミルクと砂糖の甘ったるい香りが鼻孔に侵入してくる。ゆっくり缶を傾ける。薄茶色の液体が胃をゆっくり冷やしていく。喉を鳴らすと、糖分が体内に充満していく感じがした。


 ここは喫煙スペースも兼ねているが、今日は珍しく誰もいない。おかげで柵の向こうにある大通りがよく見える。


 わたしは休憩中に、この街並みを眺めるのが好きだった。


 せわしなく移動するスーツ姿のサラリーマンがいて、ベビーカーを押す主婦がいて、部活帰りの中高生がいる。当たり前の日常、ありふれた光景。何万回何十万回も視界に入れているはずなのに、飽きることがない。


「……」


 第九十九代目魔王が討伐されてから、もう三年になろうとしている。


 魔王が死んだからといって劇的に何かが変わったわけでもない。外国では相変わらずテロや戦争は絶えないし、食糧問題も貧富の格差も解決の兆しは見られない。この国でも、殺人事件や性犯罪は毎日のように起きている。努力はきっと報われるとか、因果応報とか、そんなものは存在しない。真の平和とは程遠い世界だ。ヒーローが活躍したって、怪人が暴れ回ったって、世の中はそう簡単に良くも悪くもならない。


 記念すべき百代目の魔王も、表立って世界征服を宣言しているわけではない。誰もその姿を見たことはないし、ネット上には様々な画像がその正体として出回っている。中には現総理を魔王だとのたまう者もいる。まあ確かに、この国を牛耳っているのはその人に違いないのだが。


 代わりに、新ヨンダラーが新たな魔王軍の象徴として若者に人気を博している。ストラップや缶バッジ、シューズ、靴下など、グッズは前四天王とは比べ物にならないほどの売り上げを叩き出しているという。


 うちのゲームセンターにも、毎週のようにフィギュア、マグカップ、Tシャツといった景品が続々入荷してくる。


 一番人気は、サイボーグ鳥人の『R・MARK2』だ。右半身と翼が機械化されており、凛々しさとカッコよさを併せ持っている。怪人でありながら、女性に優しい紳士的な一面もあり、ティーンに絶大な支持を得ている。


 わたしも、過去にこの怪人に助けられたことがあった。


『……教えてください。あなたの信じるものって……なんですか』


『我が信じているものは――自分自身だ』


 あの日、レイヴンはわたしの問いにそう答えた。


『それは……他人を信用するなということですか?』


 三年前、刑務所を出てから働き始めたゲームセンターで同僚の男の子に襲われた。女として、人として大事なものを奪われる直前、突如現れたレイヴンはわたしを守ってくれた。


『わたしは、他人を信じたせいで、こうなったっていうんですか?』

『他人を信じることは容易い。相手の表面的な良い部分に目を向け、称賛し、見習っている振りをしていれば良いのだからな。だが自分を信じることは、簡単にできることではない。いくら頑張っているつもりでも、それが本心なのか自分にはわかってしまう。すなわち、己の弱さも、醜さも受け入れるということなのだから。常に自分自身と向き合い、片時も忘れてはならない。辛い時も、苦しい時も、悲しい時も、自分が何を思い、何を感じ、どうすべきなのかを考えることでしか、未来は開けない。そんな、非効率的で信ぴょう性のない手段だけが、自分を成長させる。強くなりたければ、自分を信じられるようになれ』

『自分を……信じる……』


 レイヴンの言っていることは抽象的で、正直意味がわからなかった。それでも、自分を信じることでしか未来は開けないという言葉は確かだと思えた。


 騒動の後、警察から何度も事情聴取を受けた。一時は仮釈放取り消しになりそうだったが、店長が必死にわたしの味方をしてくれた。務めているお店の意見箱には「阿婆擦れ女を解雇しろ」というメッセージもあったが、店長はわたしをずっとあのゲームセンターで働かせてくれた。


 刑期満了から一年後、わたしは正社員となった。それと同時に、別店舗の店長として異動を命じられた。この街には、わたしの過去を知る者はいない。お店に遊びにくるお客さんの平均年齢は高く、おじいちゃんおばあちゃんの憩いの場となりつつある。彼らはわたしを娘のように親しく思ってくれ、よく差し入れをもらう。タケノコがあんなにおいしいなんて、都会にいた頃は気づかなかった。


 あれからミモリさんとは一度も会っていない。担当の保護司が変わってしまったからだ。後任者も急に担当変更を伝えられたらしく、ろくな引継ぎもなかったらしい。


 たまに思うことがある。ミモリさんは、実は怪人だったのではないか。


 根拠はない。ただ、時折見せる寂しげな表情や、竹を割ったような口ぶりに、どこか浮世離れした印象を抱いていた。


 前総理、阿藤黒三がのと同日、魔王軍本部はヒーローたちの活躍によって壊滅した。建物は全焼。焼け跡から当時存在が認識されていた怪人の、九割以上の遺体が発見されたという。その中に、ミモリさんの名はなかった。


 今も生きているのだとすれば、現魔王軍の一員として暗躍しているのだろうか。接した期間は短いけれど、彼女の言葉は今も胸に刻まれている。


『正しく生きれば人生が楽しくなるとは限らないし、人の道を外れたらしっぺ返しが来るとも限らない。ただ、どちらの道を歩むにしろ、覚悟は必要だ』


 今のわたしに、覚悟は備わっているだろうか。

 自分自身を心から信じられるだろうか。


 その答えはすぐに出るものではないし、きっと一生はっきりしないままだ。


 でも、不安はない。


 幸せとは言えなかった入所前の人生と、出所後の激動の日々は、きっとわたしの糧となっているはずだ。昔のわたしが見たら、これが未来の自分だと信じられないくらいに。


 現実は甘くない。一方で、厳しいだけじゃない。


 道はきっと開ける。だからわたしは歩み続ける。


 それが生きるということだからだ。


 ふと柵の向かい、大通りの反対側に、青色が現れる。


 粒子のような煌めきを放っていて、深く、どこまでも澄んだ色。まるで、ラピスラズリの花のような。点のように小さな青は、少しずつ移動をしている。それは女性の髪に他ならず、まるで森の奥地で静かに流れる滝のような清らかさだった。


 隣には若い男の子も一緒だ。顔までは識別できないが、並んでいる二人は仲睦まじい様子だった。会話はなくとも、長年連れ添った唯一のパートナーのような距離感。いつかわたしにも、こんな相手が見つかるのだろうか。


 裏口の扉が勢いよく開かれる。


「あ、店長さん、ここにいたんですか」


 半年前からビル二階の携帯ショップで働き始めた、大学生の男の子だ。快活な性格で、うちのお店のスタッフとも仲が良い。どんなに忙しくても疲れた表情を見せず、彼に好意を抱いているお客さんもいるらしい。今日は遅番だったっけ。


「お疲れさま。何か用?」

「いえ、特に用事はないんですが……」


 もにょもにょと、声が小さくなっていく。それをごまかすように自販機でわたしと同じドリンクを購入し、横に並ぶ。


「……店長さんと時間被るのが久しぶりだったんで。ちょっと話がしたかっただけです」


 彼はどうやらわたしのことを、親しく思ってくれているらしい。


 こうして二人きりの時だけ接し方が弱気なのは、純粋に可愛いと思う。こないだわたしが飲みの誘いを断ってしまったから、落ち込んでいるのかもしれない。たまにテレビで紹介されている、日中はカフェ、夜はスペインバルの人気店に行ってみないかと声をかけられた。スタッフみんなで行くのかと思いきや、二人きりがいいと言う。ただ、その日は本当に用事があったので遠慮させていただいた。


「……」


 覚悟。決意。信念。


 そんな大層なものじゃないけれど。


 さっきの二人を思い浮かべ、口を開く。


「明日は遅番だから、お昼なら時間あるけど。こないだのお店、行く?」

「……は、はい!」


 顔がぱあっと明るくなる。


「じゃあ、明日の十二時に現地集合ね」


 余裕のある素振りを見せているが、内心バクバクだった。なんせ、この歳で男の子とデートを一度もしたことがないのだから。普段から仕事ばかりでろくな私服を持っていないし、メイクだって最低限だ。いざ気合を入れて、当日ドン引きされたらどうしよう。


 いくら年齢を重ねたって、仕事に慣れたって、覚悟を固めたって自分を信じたって、人生迷ってばかりだ。おそらくこの先、ずっと同じことの繰り返しだろう。それは憂鬱でもあり、楽しみでもあった。


 ポケットからスマホを取り出し、アドレスの交換を持ちかける。友達のいないわたしはメッセージアプリをインストールしていなかった。連絡先一覧に登録してあるのはバイト時代の店長と今働いているお店、あとは本社の番号だけだ。


 互いのフルネームが電話番号・アドレスとともに画面に表示される。男の子は中性的で、気品を感じる名前だった。きっと両親の願いがしっかりと込められているのだろう。


「鬼形香火さん……」


 一瞬、身体がびくっと震える。小学校の授業参観で、名前の由来を発表した時のことを思い出す。先生の引きつった顔と、冷え切った教室の空気を。


「香る火って、アロマみたいで可愛いですね!」


 胸の奥に、ぽうっと灯がともる。

 名前を褒められるなんて、初めての体験だった。


「じ、じゃあ、休憩終わるから。また明日ね」


 わたしは慌てて裏口のドアを開け、お店に戻った。


「……人生、ホントわからないことだらけだなあ」


 これを温もりと呼ぶには、あまりに熱すぎる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

義瞞(ぎまん)のペストマスク 及川 輝新 @oikawa01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ