第37話:ミモリ

 ちううぅ、と、まろやかな茶色の液体がストローを伝って吸い込まれていく。喉を鳴らすと、ミモリは破顔した。


「やっぱりこれだな。どんなに高級な豆やミルクを使っていようと、この味には勝てない」


 そう、人の好みは明確だ。


 ミモリには聞きたいことが山ほどある。だが今はいつヒーローが襲ってくるかも読めない状況なので、優先順位の高い順に尋ねることにした。


「魔王様を殺したのは、あなたですか?」

「ああ、そうだが」


 まるで名前を確認されるかのような、フランクな返事だった。


「……愛人の立場を利用したって、毒殺も簡単ではないでしょう。別荘だろうと隠れ家だろうと常に護衛がついていて、食べるもの、触れるもの、封筒の開封やトイレにだって事前チェックが入るんですから」


 カフェオレを体内に補充して落ち着いたのか、ミモリは椅子に背中を預けていつものような余裕の態度を見せる。


「とはいえ、さすがにラブシーンにまでは介入してこないよ。ああいうのは何よりムードが重要だからね。いくら一国の頂点に立つ男とはいえ、部外者がいては萎えてしまうというものだ」

「キスの時に、毒の入ったカプセルでも口移ししたんですか」


 僕は逃げを打った。

 それを察してか、向かいからフフン、と嘲りのような声が漏れる。


「口内に異物が入ってきたら、誰だって気づくさ。もっと確実な手法だよ」


 僕はミモリの性格をよく知っている。鬼形香火の一件でもわかるように、この人は女性を性的に貶めることに対して何の躊躇もない。男尊女卑を嘆いたり性欲の塊である男を蔑んだりなどもってのほかだ。ゆえに、事を有利に運ぶためなら、自らの身体も当然のように道具扱いするに決まっている。


「……確かにありますね。体内に直接毒を送り込める方法が。しかも、キスと違って女から行く必要もない。準備をして、ただ待っていればいいんだ。穴に侵入してくるのを」

「童貞の課長くんは知らないかもしれないが、世の中には女性用の避妊具というものもあるんだよ」

「童貞は余計です」


 避妊具の内側に塗布した毒は、尿道口を通じて下腹部からゆっくり全身に回っていき、阿藤の命を奪った。これも一種の腹上死というやつか。こんな情けない死に方が公表されることはないだろうが。


「やつとの逢瀬はいつも現地集合、現地解散だからな。逃げるのは容易だった。とはいえ私に嫌疑がかかるのは時間の問題だろうがな」

「だからNHDAにすぐ連絡したんですよね。魔王様がじきに死ぬこと、城内の戦力が整っていないことを」


 襲撃のタイミングが良すぎるのも当たり前のことだ。なぜなら、魔王の動きや内情を一番よく知っている人物こそが、裏切り者だったのだから。


「内通者の正体は、あなただ」


 魔王軍の中にいると噂されていた内通者の存在。ノスタルジーをはじめ、ほとんどが僕を犯人だと疑っていたようだが、それこそがミモリの狙いだった。両親を怪人に殺された僕ならやりかねないと注意を向けさせ、その裏でヒーロー側に情報を流していたのである。


「フェニックスが行方不明になっているのも、あなたの仕業ですか?」

「そうだ。やつは普通の方法では殺せないから、今は拘束して動きを封じている。さすがに私一人では無理だから、協力者もいるがな」

「協力者というのはヒーローですか? それとも怪人ですか?」

「本当に知りたいのか? そんなこと」

「いえ、特に興味ないです」

「だろうな。課長くんの淡泊な性格には助かるよ」

「でも、どこで監禁しているのかは想像つかないですね」


 ノスタルジーの撚蛇ネットワークでも見つからないくらいだ。山奥でも廃工場でもなければ、NHDA本部内でもないだろう。そもそも身体を縛られていたとして、全身が炎に包まれているフェニックスであれば簡単に脱出できる。


 ミモリは得意げに、人差し指を地面に向けた。


「まさか、魔王城にいるんですか?」

「いや、深海だよ」

「……なるほど」


 確かに海中なら、周囲を燃やして力任せに逃げることもできないし、助けも呼べない。人間や怪人なら十分もすれば窒息死確定だが、不老不死の身ではそれも叶わない。また、普通の蛇であれば海を泳げるが、原材料が毛髪の撚蛇では、身体が軽すぎて海中に潜れないのだ。


「地殻変動が起きるか、長年かけて海水を蒸発させれば地上に出られるかもしれないが、その頃にはとっくに精神はぶっ壊れているだろうな」


 くつくつと、喉の奥を鳴らすミモリ。子どもがいたずらを企てるような口ぶりだが、やっていることはヤクザ顔負けである。


 フェニックスを海に沈めることでノスタルジーに撚蛇で探索させ、戦力を削る。魔王の暗殺と合わせれば、突発的な計画でないのは明らかだ。


 ミモリが怪人に対して恨みを持っているのは疑いの余地もない。


 問題は、その動機。


 ここから先は、僕のターンだ。


 今回の騒動と、僕が今もっとも知りたいことは、おそらくつながっている。


「……あなたの正体について、ずっと考えていました」


 三森鏡子を彷彿とさせる男性的な口調に、ぐうたらな性格。

 ブラックコーヒーを嫌い、甘いカフェオレを嗜む。

 大雑把なようで、実は相手のことをきちんと見ている。


「僕はあなたを、半堕落したお姉さんなのだと予想していました」


 目の前で両親をアルケニーに殺され、絶望に突き落とされた僕の手を、お姉さんは握ってくれた。その際、噴出した僕の心の闇を一部吸収してくれたのだと、そう願っていた。でも現実は、都合よくはいかなかった。


「お姉さんはやっぱり、死んだんです」


 内側から、感情がぐっとこみあげてくる。瞼の下がひくひくと震えている。目元が熱い。


 この一言を口にすることが、こんなに辛いなんて思わなかった。


 もっとしっかり考えなければいけなかったのに、僕は真相を突き止めることをどこかで避けていたのだ。僕は淡泊なんかじゃない。自分を守るために、肝心なことから目を背けていただけだ。


 お姉さんはサバサバとした話し方だった。だがここまでわざとらしい男言葉ではなかった。

 お姉さんは微糖を好んでいた。ミモリの好きな加糖と飲み比べてみると、だいぶ甘さが抑えられている。

 お姉さんは優しかった。ミモリは優しいだけじゃなく、厳しさも併せ持っている。


 似ているようで、違うのだ。


「あなたは三森鏡子じゃない。別人だ」

「私はミモリだ。三森鏡子ではない」

「そうじゃない、あなたは……」


 心当たりはある。僕はその人物をよく知らない。お姉さんから聞いただけだから。


「あなたはお姉さんの友達だった。僕がお姉さんのことが大好きだったように、あなたもまた、お姉さんを大切に想っていた」


『キミに会わせたい子がいるんだ。きっと友達になれるよ』


 あの時の約束は叶わないはずだった。

 僕たちはとっくに会っていたんだ。魔王の愛人と、半怪人として。


 コーヒーはとっくに温くなっており、湯気は立っていない。僕とミモリの視線を隔てるものはない。


「……やっぱり課長くんが、お姉ちゃんの話していた子だったのか」


 口からこぼれた「お姉ちゃん」という言葉には、懐かしさがこもっていた。


「お姉ちゃん、言ってたよ。『近所に枯れた価値観の小学生がいる』って」

「枯れてなんかいません。ただ現実的なだけです」

「ゲーマーが現実的って」

「ヒーローごっこしたりコンサートに行ったりするより手間もお金もかからないじゃないですか」

「コスパ気にする小学生なんて嫌だよ。無邪気に必殺技の真似でもしていた方が、お姉ちゃんに可愛がってもらえたんじゃない?」

「べ、別に、可愛がってほしくなんか……」

「あ、照れてる。耳赤いよ」

「かか、会議室が暑いからですよ!」

「……ふっ、ふふっ」

「……はは……」


 なんだこれ。


「私たちにこんなやり取りは似合わないな……」

「同じこと考えてました」


 ミモリは、これまで見たことのない穏やかな顔をしていた。怪人でも魔王の愛人でもない、まるで古くからの親友と再会したかのような、喜びと期待に満ち溢れていた。


「……会いたかったよ」


 顔が熱い。


 急にキャラ変わりすぎだろ、この人。


「も、もう、とっくに会ってるじゃないですか……」

「なんてったって、お姉ちゃんの忘れ形見みたいなものだからね」

「いや、親子じゃないですから……。それより、僕のこと恨んでないんですか」

「え、どうして?」

「だって、僕のせいでお姉さんが死んだんですよ。あの日、家まで送ってもらわなければあんなことには……」

「私だってそれくらいの分別はつくつもりだよ? 悪いのは怪人。キミは何も悪くない」

「でも、原因の一端であることに変わりはなくて……」

 頭頂部に、手のひらサイズの温もりが宿る。

「どうして撫でるんですか」

「ずっとそうして戦ってきたんだね。怪人と、自分と」

「そうじゃなくて……」


 いくら怪人のせいだとしたって、やはり僕も悪いことに変わりない。僕は責任逃れをしたくない。どうしたって許されないけれど、戦い続けることが、前だけを見て突き進むことが、贖罪の道なのだ。


「もう、自分を許していいんだよ」


 その一言は、鎖でがんじがらめにして、石膏で塗り固めて、他人の出入りを固く拒絶していた僕の心にすっと染み込んでいった。


「もう、いいんだよ」

「……僕は……ぼく、は……」


 ミモリの思いやりを拒否する言葉が続かなかった。視界がぼやけて、拭う前に勝手に涙が流れてくる。強がろうとしても、声がどもったり裏返ったりしてうまく出せない。

 頭上に灯っていた温かさが、上半身に広がっている。ミモリの両腕が、僕を包み込んでいた。


「よく頑張ったね」


 ここが会議室で良かった。防音素材のおかげで、嗚咽が外に漏れることはない。それに安心して、僕は声を上げて泣いた。七年間積もり続けた自責と後悔をひたすら吐き出した。無力さは雫となって流れ出し、服に、床に溶けていく。怒りは咆哮となり、すぐに空気中に霧散してしまう。だから何の心配もいらない。安心して、お姉さんの死を嘆くことができる。自分の弱さを受け止めることができる。他人に甘えることができる。この瞬間、止まっていた時はようやく動き始めた。


 大きな横揺れが、意識を引き戻した。僕は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、天井からパラパラと破片が落ちてきた。


「……君はここで、死ぬつもりだったんだろう?」


 ミモリが僕の顔をポンチョの端で優しく拭う。


「だからわざわざ、ノスタルジーへの報告場所に魔王城を選んだんだ。ペスト衣装をまとっているのも、ヒーローからするため」


 魔王軍本部が襲撃を受けることは予想がついていた。自宅を出る前、僕はNHDAに電話を入れた。魔王軍の上層部が脆弱になっていることをリークするためだ。


 その際、協会の幹部が教えてくれた。


 内通者から同じような連絡を受けていること。

 今日、魔王の暗殺計画が実行に移されること。


 裏切り者の正体がミモリであることを、すぐに確信した。


「……いくら半分人間とはいえ、僕のやってきたことは怪人行為であり、悪そのものです。懲役刑に甘んじるつもりはありません」

「君に死なれたら、私は寂しいな」


 寂しい、なんて説得の仕方、聞いたことがない。


「せっかくお姉ちゃんの友達と出会えたんだ。もっと話したいこともあるし、お姉ちゃん抜きにしたって、私は君のことが好きなんだ」

「……一応聞いておきますけれど、友達として、ですよね」

「さあ、キミはどっちがいい?」


 いつも通りの、試すような意地悪な笑みだった。


 轟音の後、ヒーローの雄叫びがなだれ込んできた。声の塊はだんだん大きくなってくる。部屋の隅で縮こまっていた撚蛇が、ひっくり返った。


「さて、ここからどうやって逃げようかな。知恵を貸してくれるかい? 魔王軍きっての策略家、課長くん」


 僕は机に置いたペストマスクを見つめた。


 僕にとってこの仮面は、人として歩むべき正しい道のりを隠すための、欺瞞の象徴だった。


 高校生としての僕。

 怪人ペストとしての僕。


 どっちも自分自身に変わりない。重要なのは、体質でも所属でも見た目でもなく、僕がどうありたいかということ。


 ペストマスクを被る。ラベンダーの、優しさの中にある力強い香りが、僕を奮い立たせてくれる。


 僕は宣言する。


「任せてください。あなたをここから連れ出します」


 こうして、僕の初恋は終わった。

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