エピローグ
カラン、と氷が音をたてて揺れた。コースターの上に浮かんだグラスを見て、わたしははっと我に返る。
「お疲れさま」
フィーネがにやにやしながら、すっかり水っぽくなった紅茶のグラスを片付けようとしていた。
「フィー! それくらい自分で持って行くわ」
「いーのいーの」
彼女はひらりと手をふり、杖をつきながらすたすたと歩いていってしまった。
脚の包帯はあの日からずっと巻かれたままだ。本人が言うには、傷は治りつつあるということだったが、痛みはまだとれないらしい。それでも大動脈には当たっていなかったおかげで、命に関わるような怪我にはならなかったことは幸運中の幸運だった。
平和な暮らしが戻ってきた……と思う。けど、やっぱり宇宙船国家間の争いはなくなっていないし、国を守るためには軍事力も捨てることはできない。わたしが以前思い描いていた世界は「戦争は嫌」だと言って簡単に実現できるわけじゃなかった。
「はあ……もうこんな時間なの」
時計は夜の11時を指す。勉強に集中して、時間が見えなくなるなんて……以前のわたしだったら考えもできない。
わたしは、今よりも強くならないといけない。
事件の後、医療区画で手術を受けたフィーネのお見舞いに行った。目覚めた彼女は、不安でいっぱいになっていたわたしの顔を覗きこみ、笑いかけた。わたしたちが出会ったときとは逆なのに、フィーネはやっぱり強くて、わたしはやっぱり弱虫なままだ。
唇を動かそうとする彼女に、わたしは無理に話さなくていいのだと伝える。けれど、彼女はわたしの口の前で人差し指を立て、
「サラ。退院したら……話したいことがあるの。聞いてくれる……」
弱弱しい言葉が、吐息に乗って聞こえる。わたしはフィーネの手を両手で握りしめる。
「うん、聞くわ。もちろんよ」
医療システムに呼ばれたドクターがやってきて、ナースと共に彼女の容体を確認する。わたしはベッドから離れて、彼らがせわしなく動き回るようすをじっと見ていた。フィーネはドクターがかける言葉に頷いたり、指を動かしたりして意思を伝えていた。
やがてドクター電子カルテを片手に、わたしたちに今後の処置について丁寧に説明をした。そして最後に、電子カルテを何度も見返して、首をかしげながらわたしに尋ねる。
「姫様、恐れながら、こちらの方はご親戚にあたられる方でしょうか」
「いいえ。でも大切な人なの……」
答えかかったわたしの袖が引かれる。
「フィー……?」
彼女は微笑を浮かべ、わたしをまっすぐに見つめていた。
それからしばらくして、フィーネは退院した。そして今夜、大切な話があるといってわたしの部屋へ来ている。
フィーネとわたしはセミダブルのベッドにもぐりこんで、しばらくお互いの頬をつねったり、頭を撫でたりして遊んでいた。
「あたし、地球にいたんだ」
わたしは羽布団に顔をうずめながら尋ねる。
「地球? フィーは宇宙で生まれたのではないの……わたしと年はそう変わらないじゃない」
「ううん、違うよ。あたしは地球に住んでいたんだ。もう何十年も昔の話だよ。サラが生まれてくるよりずっと前、地球付近の小天体同士がぶつかって、その星の破片の軌道と地球の公転の軌道が重なるというのが判明した頃に生まれたんだ」
彼女は普段よりずっと、ゆっくりと言葉を選んでいく。ひとつひとつの記憶を噛みしめるように、わたしに語りかけていく。
「だから知ってる。地球から脱出した人たちどんな思いだったのか、残ることを決めた人たちはどんな思いだったのか。地球の空気、色、景色、音……昨日のことのように思い出せるよ」
そう言って、フィーネは目を細めた。
地球の暮らしなんて想像もつかなかった。ただフィーネがその思い出をすごく大切にしているのはわかったから、わたしはこの日の彼女の言葉を、死ぬまで忘れない気がしている。
「あたしの親は軍人でね。父は戦闘機の操縦士、母は科学者だった。ちょうどヒトガタとか宇宙船とか、そういった謎の超科学技術が次々に発見された時期だったからそれを研究していたんだよ。地球を離れるとき、あたしはコールドスリープ……って、サラは知ってる? 人間を冷凍して、何十年も身体を保存する技術なんだけどさ。それであたしも、両親たっての希望で冷凍処理を施されることになったんだ。その後、目覚めたら《キャロライン》にいて、そのときにはもう両親は戦争で死んじゃってた」
「そうだったの……」
「うん。それでさ……あたしの両親が亡くなって、あたしがまだ眠っていたとき……《キャロライン》王に長女が誕生したの。それがサラだよ」
わたしは目を丸くした。どう答えればいいのかわからなくって、ただただフィーネを見つめる。
「ちょっと待って。話が見えないわ、わたしの実の親が王様……?」
「そう、だからサラは元々王族出身なんだよ。別の人に育てられたのは敵の目から隠すため。で、現王は実のお兄さん」
「えっえっ」
目が飛び出すかと思うほどの衝撃に見舞われているわたしを、フィーネが笑って撫でる。わたしは彼女にしがみついた。
「……本当、なの?」
フィーネはわたしの頬に愛おしそうに触れ、頷いた。あれほど憎み、戸籍上の兄にすぎないと思っていた人は、血のつながった兄だった。
わたしは、まぎれもなく王家の血を引いている。
義兄は……兄はきっと再び家族と暮らしたいと思っていた。フィーネの表情を見て確信する。大切な家族を失いたくなくて、わたしの実の父母はわたしを別の夫婦に預けることを決心した。そのとき、兄はどう思ったのだろう。激しい時流の中で、不安に思ったのかもしれない。そして、ヒトガタという家族を守れるだけの力を得たからこそ、わたしを王家に連れてきた……。
わたしは兄を非情な人だと思っていたけれど、非情なのはわたしのほうだった。
食事の作法を叱られたことも、勉強をさせてもらっていたことも、忠告を受けたことも……なにもかも全部、わたしのためだった。わたしが弱いまま、なにもかも失って後悔しないため。それに気づいたのは、本当になにもかも失いかねない事件を起こしてしまってからだった。まだ、兄のことを完全に受け入れられたわけじゃない。けれど、わたしは《キャロライン》のことがもう以前ほど嫌いではなかった。この国でなら、フィーネと幸せに暮らせるかもしれない……そんな夢を見ている。
「サラはね、みんなに愛されて生きているんだよ……」
フィーネはわたしの額に優しく口づけると、髪をゆっくりと撫でる。……何度も、何度も。
わたしは彼女の胸に顔をうずめ目を閉じる。
心臓の音が聞こえる……彼女は生きている。そしてわたしはここで息をして、その音を聞いている。これがどれほどの努力の上に成り立っている奇跡か、今のわたしにはわかる。
兄は、船内に不穏な動きがあることを早くから察知していた。自分を囮に不穏分子を洗い出そうとして――わたしが騙されてしまっていたせいで事は大きくなってしまったけれど――彼は生きている。そして以前と変わらず、不愛想な表情でわたしを叱るのだ。
あんな事件があっても、宇宙船国家 《キャロライン》は宇宙船国家 《キャロライン》のままだった。
一方、《マリー》はというと、事件に対して知らんぷりを決め込むことにしたらしい。王同士の会談が秘密裏に行われたが「第三王子が独断で起こしたことで、《マリー》とは一切関係ない」の一点張りで無かったことにされしまった。あのとき合同軍事演習は、ヒトガタの参加が「手違い」で《キャロライン》本船から演習場に向かうことになったことを除いて何事もなく進んでいたし、演習中は《マリー》本船もまったく動かなかった。マシェリが仕損じれば、最初からそうするつもりだったのだろう。
後日、漂流していた《マリー》の小型船が見つかったが、四人の男たちの死体以外にはなにも見つからなかったと聞いた。結局首謀者の死体は見つからず、行方不明ということで《マリー》は早々に捜査を打ち切ることを決めた。
「フィー、わたしを守ってくれてありがとう」
電気を消し、わたしたちは改めて抱きしめあう。
互いの温度をたっぷりと感じた後、身体を離し、フィーネはわたしをまっすぐに見つめる。彼女はわたしの肩に触れた。柔らかな手のひらで頬を支え、ゆっくりと引き寄せられる。
「キス……していい?」
鼓動が速くなる。胸からあたたかい気持ちがあふれてくすぐったい。早く触れて。この胸騒ぎをすくいとって。
わたしは頷く代わりに瞳を閉じた。
宙の王家 さゆと/sizukuoka @sayutof
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