翠の鳥

雨伽詩音

第1話翠の鳥


 母さまはいずこにおいでなのでしょう。かの小さき一柱の神が渡った常世の国で、打ち寄せる波の音を聴いておられるのでしょうか。はたまた母なる神のおわします根の国にお隠れになったのでしょうか。月の君がきこしめす夜の国はあまりに暗い。こうしてひとり膝を抱えておりますと、夜の底にひそむもののけたちに素足の先から食われてしまうようで、なんとも寂しい心持ちがいたします。

 暗い座敷の中、かつて母さまと身を寄せ合って、児戯めいた夢物語に花を咲かせるのが楽しみだったのを今でもよく覚えております。物語の中で、あるときは母さまが雅やかな姫君となり、あるときは私が貴公子となりまして、あまりに幼くつたない恋物語に夢中になって、うつつの侘しさを紛らわせるのでありました。

 平生、私たちと世間をつなぐものはただ野外の景色ばかりでしたが、桜の花の咲くころや、陽を受けた紅葉が明々と輝くさなかに母さまはきまって笛を奏でました。

母さまは背筋を伸ばし、凜とした面差しで笛を奏でておいででした。ひとたび母さまが笛を構えれば、それまでもの憂く、暗い部屋の中にさっと一筋の光が差し込むような、厳かな空気に包まれたのを、幼心に感じたものでございます。母さまの笛は芸の道の陰にひっそりと咲く花を思わせて、どこか哀切な響きをたたえておいででした。

そのしおらしい血を引いたのでしょうか。母さまからさずけられた笛を奏でておりますと、なんともわびしい音色がこぼれてきまして、花ひらく頃に雪の降るような心地にさせると人は云います。いいえ、それはもののたとえではございません。母さまから受け継いだ笛を奏でますと、はらはらと淡雪が舞うのでありました。

 なお、人と云いますのは私の義理の母上さまでございまして、母さまがお隠れになってから、伯父上さまはご自分のもうひとりの妹ぎみに私を託されたのでした。母さまより三つ年若い妹ぎみは、たいそう麗しいお方でいらっしゃいます。

 母さまを姫百合の可憐な姿にたとえるなら、母上さまはにおやかな蘭になりましょう。きぬをお召しになるにも、御髪おぐしを整えるにも派手好みなお方でして、帝より賜った絹で仕立てた鮮やかな衣がよくお似合いでございました。

 母さま亡きあと、母上さまは私をふたたびお座敷の奥に閉ざしまして、私の笛を雪笛と呼んで忌み嫌ったのでした。さりながら、ひとたび笛を奏でればもの悲しい音色に誘われて、花がひらけば雪が舞うというので、母上さまのご息女で、私の義理の姉上さまは、物珍しい私の笛がたいそうお気に召したご様子でありました。

 姉上さまはことあるごとに雪笛をご所望なさり、さればと母上さまは私から笛を取り上げまして、姉上さまにあてがわれたのでございます。されどいくら吹けども雪は降らないご様子で。

 母さまの形見の笛を奪われた私は、ただ忍ぶより他はございません。笛といいますのは、ほんの少しの湿り気でも音色が変わるものでございます。手荒なまねをされねばよいがと、祈るような気持ちでおりました。母さまに譲られましてからは、真綿で笛を包み、桐箱に入れて守ってきた笛でございます。もし万が一のことがあればと、気を揉む日々がつづきました。

 姉上さまは母上さまに似て、かんのつよいお方でして、気位ばかり高くて琴を習うにもこらえ性がなく、あの有様では芸達者な伯父上さまの顔に泥を塗る、というのが家中の噂となっておりました。

屋敷の奥に閉ざされた私の耳にも下女たちの噂が届きまして、さる高貴な方の前で琴の調弦を間違えたの、諸国より取り寄せられた鳥を集めた百禽園ひゃっきんえんで、羽を広げた孔雀に驚くあまり腰を抜かして、お付きの者に助けられたのと、尾びれのついた話が飛び交う始末。

 常日ごろより雅やかな鳥のごとく振る舞っておいでだった姉上さまでしたから、孔雀が孔雀に驚いたと、おもしろおかしく語りぐさになっていたようで。

 それでいて伯父上様がひとたび招けば、いつもの高飛車なご様子はどこへやら、しおらしく控えておいでだったようです。琴をご所望になった伯父上様に、奏でてご覧になったのはやさしい手習いの曲であったとか。伯父上様の怪訝そうなお顔を見て赤面なさり、うつむいた睫が震えるさまは、あたかも孔雀が雛にかえったようだと、笑いぐさになっていたのでした。

 いずれにせよ私がこの目で見たわけでもなく、嘘かまことかさだかではありませんが、さような噂が絶えぬ方でいらっしゃいましたから、雪笛にもおのずと飽きるだろう、母さまの大事な形見の品だもの、母上さまと姉上さまが拒んだとしても、いずれ伯父上さまが見とがめて、お返ししてくださるはずだと淡い期待を胸に抱いておりました。

 それはさておき、私がここに閉ざされることになったいきさつをお話しておかねばなりません。そのためにも母上さまと母さまの間柄について触れておきましょう。

かつて母上さまは帝にほど近い、さる重臣のお妾として宮中にお仕えになっており、贅をこらした調度品や、大勢のお付きの者に囲まれて、栄華を極めておいででしたが、その重臣がお亡くなりになってからは、正室がお産みになった若君に遠ざけられて、寄る辺を失ってしまったのでした。

 されども宮中での暮らしというのはそうたやすく忘れられるものではないようで、この家に戻ってきましてからも、その名残を惜しんでおられるようでした。母上さまの命で春秋の候に催される観桜観月の宴は、家中に籍を置く楽人たちの奏でる音曲と相まって、宮中の宴もしのぐほどでありました。そしてなにより、亡き殿方との間に生まれた子とあって、母上さまは姉上さまをたいそう大事にお育てになったのでございます。侘しい楽人の家にあって、母上さまにとっては、姉上さまだけがかつての栄華の証であったのでしょう。

 一方母さまは生まれつきお体の弱い方でしたから、年頃になっても縁談はまとまらず、宮中に昇殿することもなかなかままなりませんでした。いにしえよりこの家に受け継がれた雪笛を守ることだけが、母さまの心の支えとなっていたようです。

 家中の催しにも姿を見せることなく、屋敷の奥でひとりきり、にぎやかな宴の熱気が伝わってくるのを耳にするのは、どれほどお寂しかったことでしょう。宴席の上座にまします母上さまが、往時をしのぐ華やかな装いで笑っておられた一方で、母さまは人知れず臥せっておいででした。

 そうして人知れず屋敷の奥で暮らす日々を送っていたある日、母さまは私を身ごもられたのでございます。お相手は誰とも知れず、母上さまを筆頭に、伯父上さまも声を荒げて母さまを責めました。

 母上さまは下人の子を産んだと母さまを苛み、一族の恥と罵って、母さまを奥座敷に閉じ込めたのでありました。さすがに見かねた伯父上さまは、母上さまをなだめたそうですが、宮中を追われ、かねてよりご自分の身を嘆いておられた母上さまは、さらなる不名誉を蒙りたくなかったようで、頑として応じなかったということです。

同じ血を分けた姉妹の命運は、はじめから分かたれていたのでしょうか。母さまのほの白い胸の奥底には、きっとにわかに表しがたい想いが宿されていたのだろうと思います。

 されど私を目の前にして、母さまは一度たりとも恨み言をおっしゃいませんでした。ご自分の境遇を嘆くあまりに度を失うなどということはなく、ことあるごとに母上さまの身を慮っていたのは、華やかな光の影に、もの寂しい闇を抱いていた母上さまの胸中を誰よりも分かっておられたからなのでしょう。

 それでもただ一度だけ、母さまが雪笛に口づけるのを目にしたことがございます。我が身を守ってくれるのは、懐刀でも弓矢でもなく、ただこの笛だけなのだと苦しげなお顔をして私におっしゃったのは、おそらく夢ではありますまい。

そして母さまが閉ざされた処こそ、私がこうして涙を呑んで日夜を過ごしている部屋なのです。屋敷の最北を占めるこの部屋は、日当たりも悪く、冬はことさらに冷えますゆえに、真冬に私を産んだ母さまは、さぞかしおつらかったことでしょう。幼い頃に夢うつつに聴いた母さまの子守歌が、雪笛の音色のようにさびしく響いていたのをかすかに覚えております。

 先に述べたお話は、母さまが死の間際に語りかけてくださったのでした。されど父さまの名も身分も、私が知ることはとうとう叶いませんでした。

もとより母さまは線の細いお方ではありましたが、死病の床につきましてからは、日に日に体がやせ衰えて、粥や薬湯も喉を通らなくなっていくさまはいたわしいかぎりでありました。

 幼い私は、そのいたわしさの中に、えも云われぬ美しさを感じておりました。かぼそい骨の浮き出た御手で頬を撫でられたときの、うれしさと哀しみが混ざりあったあの心地は、幼い私の心には美しいとしか判ぜられなかったのでございます。かつて雪笛を奏で、一途に守り通した御手は、なににも代えがたい私の宝でございました。

 さような母さまを夢見て、幾たびも枕を濡らしました。この身が屋敷の奥に閉ざされているのを嘆いているのではありませぬ。母さまにもう二度と会えぬと思うと、かの荒ぶる神の嘆きもかばかりかとため息をこぼさずにはおられぬのでした。

 かの御神の母君さまがおわします根の国に、私の母さまもおられるのだと思うと、やるせないような、それでいて胸の内に宿ったあこがれの焔が、じんわりと身をあたためるような心持ちがいたします。

 恨みも苦しみも、この豊葦原に捨て置いて、どうか千種の花の群れ咲く国で、心清らかに眠っていただきとうございます。

玉雪ぎょくせつ

 私の名を呼ぶ声に、はっと顔を上げますと、そこには眉間に皺を寄せた姉上さまがいらっしゃいました。どうやら昨夜はあのまま寝入ってしまったようで、頬を濡らした涙が乾いて、いささかかゆみを覚えながら目をこすりました。

「お前の笛はいったい何です。息を吹き込んでも音を立てず、雪も降らない有様とあっては、私が嘲弄されるだけ。伯父上さまにご覧に入れようと思ったのに、とんだ恥をかきました。きっとお前が細工をしたのでしょう。申し開きをするのなら、今すぐここで吹いてみせなさい」

 姉上さまがこの寒々しい部屋までお越しになることはめったにありません。それだけによほど腹を立てておいでなのでしょう。しかし姉上さまのご機嫌の如何を案じている場合ではありません。あの雪笛が私の、ひいては母さまの手元に戻る契機がようやく巡ってきたのですから。

 私は姉上さまから笛を受け取って、すっと構えました。笛の木肌はすっかり冷えきって、これでは音が出ないのも道理といえば道理ですが、姉上さまが一刻も待てないご様子とあっては仕様がありません。この機を逃せば、次はいつになるのやら。

 すっと息を吸って吹きますと、もの悲しい音色がこぼれ出ました。雪原を流れる小川のように、音の連なりは次第に冷気を帯びて流れ出まして、外にははらはらと粉雪が降りはじめました。

 姉上さまはしばらくあっけにとられたご様子でしたが、はらりふわりと舞う雪をご覧になると、顔色を変えて私に告げました。

「伯父上さまがお呼びです。今すぐその襤褸を脱いで、身なりを整えてきなさい」

 たちまち下女たちがわらわらと現れて、やれ体を清めるの、やれこざっぱりとした衣に着替えるのと慌ただしくなりました。

 声を聞き知っていても、はじめて顔を見る下女たちにこうしてかしずかれておりますと、妙な心地がいたします。常日ごろ彼女らが姉上さまの陰口をたたいているのを襖越しに聞いておりますゆえに、私の胸はどきどきと高鳴りました。

 まるで親の敵を目の前にしたかのように、荒々しい所作で体を拭かれているうちに、私は思いがけぬことに気づきました。あるいは私の背を拭くこの娘にも、郷里に残してきた母がいるのかもしれません。きっと娘が拭いたいのは私の背ではなく、遠く離れた母のものなのでしょう。

その寂しさ、寄る辺のなさを、姉上さまをあしざまに云うことで慰めていたのではなかろうかと私は思い至ったのでした。

「その……お前にも母君がおわすのだろう?」

「なにか」

 いたわりの言葉を投げかけようとして返ってきたのは、下女のつめたいまなざしでありました。私ははっと口元を抑えましたが、その抑えた手を別の下女に掴まれて、湿らせた木綿の布で荒々しく拭かれるのを茫然と見つめるほかありませんでした。

母恋しさに駆り立てられた、己のうつろな空想に過ぎぬことを、あたかもまことであるかのようになぞらえて、さも哀れむようにいたわろうというのは、浅ましいことなのでしょうか。

 ましてや、本来ならば仕える者と仕えられる者という立場にありながら、私は一族の恥と奥座敷に閉ざされてきた身でございます。ひとりの下女の心に思いを馳せたところで、互いに心を通わせ合う間柄にはほど遠いのは申すまでもありません。

 さらに申せば、下女たちが姉上さまの軽挙妄動をさげすんで、陰口をたたいている姿を襖越しに見聞きして、日々虐げられている己を慰め、幾分かでも溜飲を下げていたのはたしかです。姉上さまをせせら笑う声が聞こえてきますたび、私の胸の内がせいせいしたのは偽らざる本心でございました。

 今になって外の世界に連れ出され、その姉上さまよりもなお貶められても仕様がない身なのだということを、私はようやく悟ったのでありました。

 こうして下女のまなざしを一身に浴びておりますと、心根の卑しい己を披瀝して咎められているようで、一刻も早くこの場を去りたいという想いがこみ上げてまいります。

 それきり下女たちが一言も言葉を発さぬまま支度はできあがり、背を拭いていた下女の顔も覚えられないうちに、私は広間に通されました。

「伯父上さま、お呼びでしょうか」

「お前を呼んだのは他でもない、お前の母の遺した笛のことだ。このたび訳あって、当家の主たる私が引き取ることにする。異存はあるまいな」

 平生より部屋に閉ざされていた私にとって、伯父上さまはわずかに残された頼みの綱でありました。母上さまに疎まれ、姉上さまにつめたくあしらわれても、かつて母上さまを咎めた伯父上さまは何もかもよくご存じで、いずれはあの部屋から連れ出してくださるだろうと、わらにもすがるような思いでいたのです。

 それがよもやこのようなお言葉を頂戴しようとは夢にも思いませんで、私はしばらくの間二の句を告げずにおりましたが、ようやく言葉を絞り出しました。

「しかし、この笛は亡き母のただひとつの形見でございます。いかにも、この世にふたつと同じものはなく、私のような者が持っているのは分不相応なのかもしれません。それでもどうか母とのえにしを断ち切るようなむごい仕打ちはおやめください」

「ならぬ」

 伯父上さまは短く応じただけでしたが、傍に控えた母上さまがうるわしい朱唇を開きました。

「帝がこの笛をご所望になっておられるのです。聞き分けなければこの国を追われても仕方ありませんよ」

 私はいよいよ言葉を失いました。母さまが自らのお命を託された品を手放さねば故郷を追われ、たとえ伯父上さまの命に従ったとしても、暗い座敷の奥で一生を終えることになるでしょう。

無論のことながら、私は外の世界とてよくよく存じませぬ。国の外に出たならば、それはすなわち死を意味しましょう。さりながら母さまの形見を失ってまで永らえるのは、私の本意ではありません。

 母上さまが紅に彩られた口元をゆるめておいでなのは、この雪笛を手土産に、再び宮廷の華に返り咲きたいというお気持ちのあらわれなのでしょう。生前、屋敷の奥に閉ざされて、母上さまに虐げられた母さまが、根の国に群れなす花々のなかに眠られてなお苛まれるのだと思うと、私はいてもたってもいられなくなりました。

 手向かいするにも刃はなく、私にあるのはただ雪笛ばかり。されば残された道はひとつしかありますまい。

 私は雪笛を手に駆け出しました。たちまち追っ手がかかりましたが、抗うすべはただこの笛のみ。たまらず構えて吹きますと、にわかに天に雲がわき上がり、まもなく吹雪が吹き荒れはじめました。

 荒れ狂う雪吹雪に目の前が白く煙り、着替えたばかりの衣は見る間もなく濡れてゆきます。雪雲を呼んだ身ではあれど、私とて人の子なれば、やせ細った身が凍えるばかり。追っ手はどこに居るとも知れません。

 たちまち降りつもる雪に足を取られ、身動きもとれなくなりました。このまま母さまの形見の品を胸に抱き、帝に背いて国を棄て、名もなき骸となるのでしょう。お優しい母さまの子として生を受けたのが私のよろこび、私の誇りでありました。ならば母さまの形見の品に殉ずるのが私の最後の務めでありましょう。

 これが最期と、私は笛を高らかに吹きました。視界は白く染め上げられ、まもなく何も見えなくなりました。


 ちちち、ぴちち、と鳥が鳴き交わす声を聴いて目を覚ますと、いつの間にやら緑の葉が生い茂る木々に囲まれて倒れ伏しておりました。根の国はかように明るくはありますまい。母さまの元にもたどり着けず、うつろな魂となって常春の国をさまようのかと思いきや、はっと顔を上げますと、開けた野原に三羽の鳥が見えました。

 朱い鳥、青い鳥、そして翠の鳥が群れつどって戯れるさまはなんとも優雅です。よもや百禽園から逃れてきたかと思い、己の境遇も忘れて、すぐさま捕まえねばと身を起こして駆け寄ろうとしたところ、足がもつれて転んでしまいました。

 するとどこからか軽やかな笛の音色が聞こえてきたのです。笛の音が明るく響けば、三羽の鳥は羽を広げて首をそらせて舞い、寂しげな音に変われば、高天原に飛ぶ鳥もかくやと云わんばかりにうつくしい鳴き声を響かせるのでした。

 故郷でよく耳にした笛の音とは違い、まるで天の鳥がさえずるような調べに驚いていると、音はしだいにこちらに近づいてくると見えて、いよいよ鳥たちの舞い姿もあでやかになりましたが、ほどなくして音がぱたりと止みました。

「やあ、そこにおられるのはどなたか存じませんが、遠路はるばるよくおいでになりましたな」

 姿を見せたのは、透けるような薄絹が幾重にも重なった、まばゆい翠の衣を纏った若者でございました。手にした笛はよく使いこまれていると見えて、飴色にかがやいているようです。

「こちらはいずこでございましょう。常春の常世の国とお見受けしますが」

「常世の国は海の果て、ここは山中の奥地の里とでも云いましょうか。鄙びた地ですから、あなたのような客人がいらっしゃるのは本当に珍しいことなのです。鳥たちが朝から盛んに鳴き交わしていましたから、もしやとは思ったのですが」

「その鳥はよもや帝の百禽園から逃れたものではありますまいか」

「さあ、私は帝を存じませんのでね。しばしばあの国から使者がお越しになるので、あなたもそのうちのお一人かと思ったのですが、どうやら違うらしい」

「使者? ならばあなたさまは……」

 私の胸にかすかな記憶がよみがえってきました。あれは母さまが子守歌のように聴かせてくれたお話でした。百禽園をお造りになった先代の帝は、諸国より献上される珍しい鳥に目がありませんでした。百禽園には種々くさぐさの鳥が集いましたが、鳥飼には事欠くと見えて、しばしば帝は山中の奥地に住む鳥使いの村に文を送り、使者をお遣わしになったそうです。

 しかしそれは先代の帝の御代の頃で、まだ私が子どもだった時分の話でございます。今の帝のご治世となってからは、私の部屋までお話が伝わることもなく、いかなる方とも存じません。

 先の帝が求めた鳥使いは、この目の前にいる若者のお父上だったのでしょうか。

「ええ、私は鳥使いの血を引く者です。遠方よりお越しでお疲れでしょうし、よろしければ我が家でお茶を交えて話しませんか?」

「ええ、ぜひ」

 鳥使いは軽やかに笛を吹き鳴らし、三羽の鳥は舞い踊るように飛び立ちました。私は案内されるままに彼の後を歩いていましたが、日の光を受けて、翠の衣の裾がきらきらとかがやいていることに気づきました。

「変わったお召しものですね」

「ええ、これは少々仕掛けがありましてね」

 それきり黙って歩を進めるので、それ以上は私も問いかけず、まもなくして鄙びた家に辿りつきました。天井からは数多の薬草や、干し肉がつり下げられ、これまで目にしたことのない楽器の類が丁重に飾られている他は、さして目につくものはありません。

 鳥使いは私を居間に招いて座らせると、箪笥から茶道具を取り出して並べました。茶盤の上に載せられた、白磁の茶道具の数々に魅入られておりますと、鳥使いは茶道具を湯で温め、丁寧な所作で茶を淹れました。

 差し出された聞香杯もんこうはいを受け取り、茶杯に移して香りを聞きますと、清香と呼ばれる緑茶の香りがかぐわしく匂い立ちます。勧められた蓮の実の砂糖漬けを口に含めば、ほんのりと甘い実のほくほくとした食感が口の中に広がります。

 ついさきほどまで暗い座敷に閉ざされていたのが嘘であったかのようです。桃源郷というものがこの世にあるのならば、まさにこのような処を云うのでございましょう。

「どれひとつ、余興をお見せしましょうか」

 鳥使いは手を叩いて三羽の鳥を呼び寄せました。朱い鳥と青い鳥、翠の鳥が輪をなして、首をそらして舞い踊るさまは美しいものでしたが、やがて朱い鳥は姿を変えて傾城に、青い鳥は歌人になりました。

 傾城の憂いをおびたまなざしは、どこか母さまを彷彿とさせて、しなやかな手にはめた朱玉の指輪が妖しく光るさまは、幾人もの男を滅ぼしてきたことを告げているようでした。

 柳眉は切なげに寄せられて、首筋を撫でてしなを作る姿は艶めかしく、ひとたび色香に酔えば、夢もうつつも判じえなくなってしまうのでしょう。されども母さまと同じ水を産湯に使い、同じ香りに染め上げられた女人であるように感ぜられるのは、私のはかない望みに過ぎないのでしょうか。

 一見明るく華やいだ雰囲気の奥底に、姿形もさだかでない哀しみが眠っているような気がしてなりません。その哀しみは、母さまが亡きおりに真白い胸に抱いていた憂愁の容貌と重なって、私はあのえもいわれぬうつくしさを見いだしてしまったのでありました。

 私はたまらず傾城の裳裾に取りすがって、母さまの名を呼びましたが、傾城は指輪をはめた美しい手で私を振り払い、蠱惑的な面差しでふわりと笑みました。優しい母さまの面影を宿しながらも、母さまでない女人の姿に、くらくらと眩暈がいたします。

 この美しい手を取って、どこまでも逃げ延びていけたなら、どんなに幸せでございましょうか。淡雪の若やる胸に抱かれて、のどかな春の日にまどろみながら眠れたら、それがまことの歓びというものではありますまいか。

 私はすっかり舞い上がってしまい、歌人の詠む歌の調べにも耳を貸さずに、傾城をひたと見つめていましたが、やがて翠の鳥が見当たらないことに気づきました。

「翠の鳥はいずこに……」

「この茶はあの鳥の尾羽を溶いたものでしてね」

 鳥使いの言葉に意表を突かれ、私は茶杯の茶に目を落としましたが、やがて鳥使いの瞳がみずみずしい若葉の色に変わっていることに気づきました。

「よもやあなたさまの衣も……」

「ええ、翠の鳥の羽を織り込んだものです」

 そこで私はもう二度とあの国に帰れないことを悟りました。かつて母なる神は、ほとを灼かれて降りていった黄泉の国のものを口にしたため、高天原に帰るすべを失ってしまわれたのでした。翠の鳥の羽を口に含んでしまった私も、同じ道を辿るのでございましょう。

 私は意を決して問いかけました。

「この雪笛をご存じありますまいか。今は亡き母から授かったものですが、私は父を存じませなんだ」

「さて、私にわかることといえば、その雪笛の持ち主が、元は月雪げっせつ殿だったことぐらいでしょうか。それも宮中より遣わされた使者たちから伺った話に過ぎませんが。あの国には見事な笛があると小耳に挟みましてね。雪笛、蛍笛、として紅葉笛と。中でも雪笛は特に秀でた品だと聞きました」

 その名は紛れもなく、私の伯父上さまのものでした。

「よもや伯父上さまが私の父だとおっしゃるのですか。それでは母さまは伯父上さまと……」

「あなたがここまで逃れてこられたのも由なきことではありません。ここで私とともに暮らしましょう。さいわい雪笛はあなたの手の内にあるのですから、ここでいかようにも吹いて過ごせばよいのです。あの国を永久の雪に閉ざすこともできましょうし、朱い鳥に抱かれて、好きなだけ甘い夢をご覧になるのもいい。すべてはあなたのお気の召すままに」

 私はふと壁に掛かった銅鏡を覗きこみました。翠の瞳がまばゆく輝いてこちらを見つめておりました。

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