神様に愛されているのは僕だけ

枕木きのこ

僕だけ

 夢の中で夢であることを自覚することを明晰夢、と言う。

 人々はその自覚を持って、記憶の整理と言われている夢を自在に操れるようになる。

 要するに、その場での神となるわけである。


 夢の中で夢であることを自覚しているのに、自分は神ではない、という理解もまた、脳内にあった。

 と言うのも、眼前で手をこすり合わせる巨大な蠅が、有無を言わさず、——神だ、という観念を叩きつけてきているからだ。


 明晰夢自体も、おやおやまさか、と思う事態だというのに、さらに目の前にまったく想像だにしていない神の姿が在って、しかも気持ち悪いくらいに「これが神だ」と腑に落ちるのだから、もしかしたら自分は狂ってしまったのかもしれないと感じたところで、誰に責められることでもなかろう。

 ましてや自分だけの夢の中だし。


 ともかく。ともかくである。

 その巨大な蠅が、複眼にあまたの僕を反射させながら言うのである。


「君の願いを一度だけ叶えよう」


 ■


 大抵夢というのは忘れる。それは睡眠中に見るものも、将来についての考えでも。いつの間にか忘れているのが通念で常識で、さらにそれを気にしないのが当然の思考展開である。

 にもかかわらず。

 

 制服に着替え食卓に着くと、エプロン姿の母は後ろ姿のまま、

「早く食べちゃいなさい」

 と声を投げてきた。

 目玉焼きと、トマトとレタスのサラダ。トーストの上にベーコンが載っている。これ以上母は何を作っているのか、トントン、と小気味いい包丁のリズムが鳴っている。

 

 今日を終えれば夏休み。宿題は七月中に済ませて、八月の中旬からは友人らとサマーキャンプだ。空白はいくつもある予定表だけれど、どうせ宿題は後ろ倒しになるから、まあ、こんなものか、とも思う。

 

 終業式と、成績表の配布、掃除が終わって荷物を詰め込んで。

 三々五々、部活に帰宅に、教室はやがて空っぽになる。


 計画的に生きるのが賢い生き方なのは知っているけれど、知っていることとできることはまったくの別問題で、だからずっしりと重いリュックは戒めというに相応しく、足はなかなか進まなかった。


 ——という言い訳である、ということの自覚はもちろんありながら、僕は周囲に視線を走らせ、あの子の姿を探している。


 名前は知らない。歳も知らない。ただ、同じ学校の制服を着ている。

 通学路が途中まで一緒で、いつも一人で歩いている。

 ボブカットの隙間から見える横顔は、鼻がすっと降りていて、薄い唇は時折何かを口ずさんでいる。


 彼女を見ると、胸が高鳴る。顔が熱くなる。

 ——恋、というには、成熟していない。僕が。


 コンビニを通り過ぎ、車通りの多い国道から一本入った路地裏で、彼女の後姿を見つけた。ステップを踏むみたいな妙なリズムで、ちょん、ちょちょん、と歩いている。

 近づきすぎず、でも追い越す勇気もないまま、もちろん隣に並ぶなんて甚だ驕った行為にも及べず、ちんたらと後をつけている。いや、それはいい言い方じゃない。僕の帰り道でもある。


 振り返れば彼女と目が合う。あるいは、このまま射抜いてしまいそうなくらい、その黒くさらさら揺れるボブヘアを見ていた。世界から人の息が消えたみたいに、鳥のさえずりと、木々の葉擦れと、僕たちの足音だけが耳を衝く。


 あと十歩、の距離を保ちながら進む。繋がった糸を弛ませないように意思疎通しながら歩いているみたいに、僕たちの距離は一定だった。


 などと、無駄な考えを巡らせていたからだろう。


 急に曲がってきた車のスピードは、停止線をまったく無視したもので、ともすればそのまま塀にぶつかりそうですらあった。漫画でよく見る集中線がフラッシュのように目の前にちらついた――気がした瞬間、あ、ぶつかる、と思った。


 僕ではない。彼女に。


 その時僕は、どうしてか、夢のことを思い出していた。

 これも記憶の整理かも。死ぬのは僕ではないけれど、走馬燈というやつかもしれない。


「君の願いを一度だけ叶えよう」


 どこからどう声を出しているのか、あの巨大な蠅の声が、人も、鳥も、木々さえも凌駕して、僕の耳を、本当に突いたみたいに、衝撃を伴って頭で響いた。


「神様! お願い! 彼女を助けて!」


 声に出したかどうか。それすらもわからない。


 わ! ——と思う間もなく、車の衝突音がした。

 電柱がひしゃげ、電線が弛んだ。

 鳥が羽ばたいていく。風が頬を撫ぜた。

 

 ざわざわと人が集まる音でようやく意識が身体に戻った。

 目の前には名も知らぬ彼女がいる。


「——え?」

「え?」


 同じ表情で、同じ言葉をつぶやきながら、僕たちは見つめあった。


 蠅が僕たちの間を飛んで行った。




 ■


 夢の中で夢であることを自覚することを明晰夢、と言う。

 人々はその自覚を持って、記憶の整理と言われている夢を自在に操れるようになる。

 要するに、その場での神となるわけである。


 夢の中で夢であることを自覚しているのに、自分は神ではない、という理解もまた、脳内にあった。

 と言うのも、眼前で手をこすり合わせる巨大な蠅が、有無を言わさず、——神だ、という観念を叩きつけてきているからだ。


 明晰夢自体も、おやおやまさか、と思う事態だというのに、さらに目の前にまったく想像だにしていない神の姿が在って、しかも気持ち悪いくらいに「これが神だ」と腑に落ちるのだから、もしかしたら自分は狂ってしまったのかもしれないと感じたところで、誰に責められることでもなかろう。

 ましてや自分だけの夢の中だし。


 ともかく。ともかくである。

 その巨大な蠅が、複眼にあまたのを反射させながら言うのである。


「君の願いを一度だけ叶えよう」


「それなら、彼の特別になりたい! 一生忘れられない出来事を共有したい!」


 蠅は少し、笑ったような気がした。何も変わっていないのに。


「世界75億。君で40億飛んで5986番目だよ、その願いは」


 蠅はそのまま大きな風を起こしてどこかへ飛んで行った。

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