第5話 羊と狼


 私の不要になったiPhone SE、ご承知のように、アップルのiPhoneでもっとも小さく、安くて、しかし、機能は最新というあれです。


 そのSEくんですが、今、余生を私の車のダッシュボードの上で過ごしているんです。


 しばらくの間、書斎の机の上にあって、何をすることもなく、所在なく過ごしていたのですが、そんなSEくんが、おいらはまだまだ使えるよ、おいらの能力は一応最高レベルにあるんだぜって、私に盛んに問いかけてきたのです。


 そんな声が私の耳元にささやかれて、私、それもそうだよな、SEくんには何の落ち度もない、このおいらの気まぐれで、というか、あまりに小さくて、見にくくなった君を捨てて、XS Maxさんに乗り換えてしまったのだから、本当に申し訳ないと思っているんだと、そんなことを考えていたのです。


 そうだ、SEくんにも活躍の場を与えよう。


 最近のニュースを見ると、「煽り」運転で事故などという話題が多いようです。

 ハンドルを握ると、人はその本性を表すと言います。

 羊のように大人しい人間も、一度ハンドルを握ると、狼のように猛々しくなると言いますから、そんな狼に出会ったらえらいことだと思ったのです。


 ニュースを見ていたら、煽られた車に付けてあったカメラが、その狼を退治したという話題がありました。


 狼は、煽るばかりではなく、脅しをかけるために、車から降りてきて、恫喝をします。

 しかし、そこにカメラがあることを知ると、明らかに態度に変化が見られました。

 一瞬、狼は、ためらいを見せたのです。


 羊は、ただ、運転席に座って、狼の一挙手一投足を録画しておけばいいのです。


 このときも、煽って、恫喝し、タイヤを蹴飛ばし、ガラスを叩いた狼は、撮られたビデオが証拠となり、警察に捕まったと言います。

 この狼も、ごくごく普通のおっちゃんだったと言いますから、ハンドルというのは、本当に怖いと思ったりもしたのです。

 

 さて、羊のような運転者である私も、狼に襲われたら、怖いと思っているのです。


 だから、車に録画機能のカメラを付けていれば、恫喝されることもなく、こちらがきちんと法を守って通行していれば、横暴な言い分、脅しにも対することができると考えてはいたのです。


 しかし、意外に、高いんです。その機械。

 それに設置も面倒なような気がして、それでこの件はほったらかしになっていたのです。


 だから、SEくんにその役目を担ってもらえないか、そう考えたのです。

 強面の人や、強引に迫ってくる方に弱い私など、道路上でそんなことをされたら、きっと、羊以下の存在になってしまうに違いありません。


 だったら、SEくんにその役目をしてもらおう、そう思ったのです。


 そのために、必要なものは、ダッシュボードにSEくんを固定する器具と、SEくんに運転中に何かあった時に録画してくれる機能を持つアプリです。


 固定器具はアマゾンで購入、アプリはある保険会社の無料アプリを使って、今、私のたまに乗る車のダッシュボードで余生を送っているというわけなのです。


 港に行く時も、体育館に行く時も、買い物に行く時も、SEくん、運転席の前にあって、活躍の場を与えられて、嬉しそうに、前方を見張ってくれているのです。

 例えば、追突などあれば、自動的に録画されますし、不遜な輩が出てきて、この気弱い私を恫喝しようものなら、私は、アプリの画面にある「録画」ボタンを押せば、すべてを証拠映像として撮っておいてくれるのです。


 しかし、何事も良いこともあれば、そうでないこともあります。

 SEくん、アプリの力を借りて、私にしばらくほったからしにされた腹いせなのか、私の運転を厳しく判定するのです。


 やれ、前方不注意が多いとか、急発進だとか、車間距離が狭いとか、言ってきて、それがやたらと耳障りなのです。

 しかも、大げさな音響効果でそれを訴えてきますから、私、ドキッとするのです。


 運転くらい自由にさせてよ。

 道を走っていれば、時には、おっといけない信号が変わったって急発進くらいするよ。

 前を行く車が、のろのろ走っていれば、苛立つこともあるよって、私、思うのです。


 しかし、SEくん、そういう輩がいるから、とんでもない事故が起きるんだ、お前様もいい歳をしているんだから、短気はダメだよって、そんなことを言っているような気がするのです。


 そんなことを想像すると、あおり運転なんて、誰でもする可能性があるのだなぁって、思ったりするのです。羊であるべきはずの運転が、誰にでも狼に変容させるのが車って代物なんだとつくづく思ったりするのです。


 私のSEくん、私たちの中に潜在する羊と狼のことを、私たに思い起こさせてくれたのですから、ありがたいと思わなくてはなりません。

 あの小さな体で、私を不測の事態から守ってくれていると思うと、なんだか、愛着が増してくるのです。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

意匠の国の旗 中川 弘 @nkgwhiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ