第4話 そんな野暮なこと


 一人の指導者に対して、こそばゆいほどの、それも、定型的な敬意を表明する民衆の姿を見せられると、なんだかなぁって、そのような思いに駆られるのです。


 そんな国の人間っていうのは、楽な方へ、楽な方へと自分を持っていく人々なんだってそう思うのです。

 だって、独裁の国の民衆は、自分で考えなくていいですから。

 独裁者を讃え、忠誠を尽くせばいいだけの話なんですから、一番楽なんです。

 相手をこそばゆい言葉で褒め称え、全幅の信頼心を捧げれば、それでいいのです。

 悩むことも、迷うことも、思案することもないのです。


 学校が、生徒のスマホの持ち込み禁止を改めるって話が出てきて、文科省がその音頭を取っているって批判が出ていました。


 曰く、いじめの温床になる。

 曰く、年端もいかない子供が、害になる文章や写真などを読んだり見たりする。

 そんな言い分で批判がされています。


 一方、それを容認する方としては、災害時の子供の安全を守るために、スマホの機能、とりわけ、SNSを使うことで、安全を確保できるというのです。


 どちらもそれなりの理由があって、まっとうなことであると思います。

 こうした議論が、世の中の前進を図るんだと思うのです。


 かつて、電卓に関して、喧々諤々の議論がされた時期がありました。 


 そろばんを捨てて、あのような機械に任せれば、子供たちの計算能力は落ちてしまうというのです。

 しかし、電卓は便利この上ないものでした。

 だから、学校も当初の禁止から容認へと動き、今では、電卓を使うなんてという意見さえもなくなりました。


 ワープロが出てきたときも同様でした。

 漢字が書けなくなるっていうのです。

 確かに、そうであることは疑いようがありません。私だって、今、文章を書くときは、キーボードですから、漢字書き取り能力は衰えていることは確かなことだ思っています。


 でも、だから、社会的生活に支障をきたしているかといえばそうではありません。


 私が教師になった頃、女子はルーズソックスに長いスカート、男子は太いズボンが流行って、それが行き過ぎにならないよう随分とツッパル子供たちとああだこうだとやりあいました。


 程なく、女子のスカートは短くなり、今度は短すぎるとやり合うのです。


 まぁ、子供たちは顔ぶれが異なりますが、教師である私は同じですから、時代によって、真逆の指導をしなくてはならないことに、実は、可笑しみを感じていたのです。


 時代が、子供たちに影響を与え、教師である私はそれに振舞わされている。


 何かを禁止したり、制限をすると、子供たちは必ずと言っていいほど、その反対をしてくる。

 まるで、大人に反抗するようにって。 

 でも、そんなこと考えますと、いつだって、子供というのは、そうであったと思うのです。


 大人がタブー視していることだって、知らぬ間に学び、好悪の判断をし、来るべき時が来ればそれなりにおさまっていくものなのです。

 大人は、特に、学校という社会での大人、すなわち、教師というのは、そのことを忘れて、大上段に構えて、いつだって、子供たちを仕切ってやろうとしがちなのです。

 

 今回のスマホの一件でも、そうだと思います。

 それぞれまっとうな見解ではありますが、子供たちからすれば、なくてはならない道具に、もはやなっているのです。

 調べ物も、遊びも、さらには、才能があれば、それで創作もできるはずです。


 ものごとには、善悪が表裏一体として、常に付きまといます。


 悪だからと言って、それを排除すれば、善なる部分もまた排除されるのです。

 善なる部分を尊重して、そこに付随する悪を懲らしめるのが、むしろ、大人の役目なのです。


 まぁ、そうは言っても、その大人が、それに溺れて、悪さをしてしまう時代ですから、軽率にそれを認めるのもためらいがあるのですが、それでも、得るものが大きいという点で、あえてスマホをどんどん使わせたいと私などは思っているのです。


 だって、神話の時代から、人間は禁止されたことを破ってきたのですよ。


 イザナギは妻のイザナミを黄泉の国に訪問して、見てはいけないというのを見て、追いかけられました。

 鶴の恩返しでも、見てはダメというのを覗き見して、今度は逃げられてしまいました。


 きっと、古代の日本人は、何かをしてはダメっていうと、人間っていうのはそれを破ってしてしまうものだと知って、それを諌めるために、そのような物語を作って、後世の我々に教えてくれているのだと思っているのです。


 で、独裁の件はどうなの?って。


 そう、独裁政権下の人間というのは、あれはダメ、これはダメって、禁止ばかりされているわけです。もっとも、禁止というと、人間は反感を持ちますから、そう感じさせることのないよう、巧みなトリックが使われているんです。


 禁止するのではなく、そうさせない方便を奨励するのです。


 独裁者を褒め称える人は、社会の有用な人物として賞賛され、その人物の心をくすぐってやるのです。誰もが人によく思われたいという気持ちが根底にありますから、そうあるべきであると思います。

 もし、それに異議を唱えれば、それは良からぬ人材であり、精神改造をしなくて、社会を担っていくことができないと思わせるのです。


 そんなことを、私、あちらこちら、日本の周辺にある国々で見るのです。


 ネット環境を制限し、好ましくなければ、遮断をしたり、情報を制限することを平然と行いますし、時には、やっているのに、そんなことはしていないと、まるで、子供のような嘘をつき通したりします。


 独善的なありようは、所詮、かくなる不自然さを導きます。


 人間社会から「禁止」なんて野暮なことをなくなることが、一つの未来志向であると思っているのです。

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