風船と少女

張文經

 

「必ず帰るから、待っていなさい」

 そう言って、軍服を着た父は絹枝の肩に手を置いた。父は少しだけ眼を細めたが、微笑みかけているのか、朝日が眩しいのかは知れなかった。絹枝はその顔の皺に、安らかさと悲しみとの混ざったものを感じた。それは胸の中にもくもくと甘く満ちて、息苦しくなった絹枝は顔を伏せた。

「しっかりしなさい」

 母の松枝がそう言って、針を投げるような眼で絹枝を見た。ゆっくりと眼を上げた。肩に掛かっていた熱が優しく飛び立った。

「ではね」

 少し頷いてから、父は、二人に大きく笑って見せた。それから小さく敬礼すると、すぐさま振り返って去っていった。その背中を見つめる二人の眼の中で、何かが緊張していくようだった。母が何を考えているのか、絹枝にはわからなかった。秋が始まろうとしていた。空は少しずつ高く、陽は少しずつ丸く変わっていくようだった。取り巻く山肌の緑も霞み、風だけがただ鋭かった。下女も出払ってしまっていたために、父がいなくなってしまうと、母親と娘は広い家に二人きりになった。


 絹枝は他の女の子と高城少尉について騒ぎはしなかった。風船工場の長である少尉はまだ、二十五、六と若く、非常に整った顔をした美丈夫であったし、背も高く、軍服も良く似合っていた。しかし、おとなしい絹枝には彼の口髭は威圧的に見えたし、腰から下げたサーベルは不気味に思えた。それに絹枝は、もう十六だったのにも関わらず、まだ娘になってもいなかったのだ。だから彼女は、女学校の同級生たちがきゃあきゃあと騒ぐのを、恥ずかしいような、困惑するような面持ちで見ているだけだった。

「絹ちゃんは真面目だもの」

 昼休みに、初子が庇うように言った。

「勉強もずっと一番だったし、この風船作りだって、一番の要の仕事を任せられているじゃないの」

 そう言いながら、彼女はおにぎりを頬張った。初子の頬のふくらみと、微かな赤みを見て、絹枝は少しだけ安心した。初枝はよく笑う、少しのんびりしたところのある少女だった。友人の多くはない絹枝に、この快活な少女はどこか輝いて見えた。彼女は誰からも好かれたし、彼女自身も全ての人を好いているようだった。絹枝はそういう彼女と一緒にいると、自らも少し明るくなれるように感じた。しかし、初子には、絹枝には理解できないところがあった。それは例えば、初子が花を散らすような香りを纏っていることだった。例えば、時たま、彼女の元の性格からは考えつかないほど不機嫌になったり、また、ぼんやりとして見えることだった。そうした時、初子の眼は、澄んで、遠くを望むようだった。

 あれはなんなのだろう、初ちゃんは好きだけど、私にはわからないところがある…… 休憩が終わってしまうと、絹枝は風船の中で考えた。そうした考え事をしながらも、絹枝は素早く、風船の肌を検査していった。照明を内側に乱反射して、風船の中はぼんやりと白く、眩しかった。和紙のまっさらな白い手触り、その穏やかに枯れた香り、それは目視だけでも彼女の中に充満していった。上から下へ、上から下へ、絹枝の眼はスルスルと風船の内部を孕んだ。

 初子がこのような地味な仕事を、要の仕事と呼んだのは、これが全行程の最後に当たる確認作業だったからだ。勤労動員の女学生たちはまず、和紙を作る。こんにゃく糊を作る。彼女らは、細長い眼のような形をした大きな和紙の片を、こんにゃく糊で貼り付けていく、そうやって球を作るのである。風船に傷があってはいけない、随分遠くまで飛ばすのだから。そのために、最後の検査を行うのが、絹枝の受け持つ仕事だ。この仕事には、工場で働く女学生百五十人ほどのうち、四人しか割り当てられていなかった。彼女らは風船を膨らませて、中と外の足場から傷を探すのだ。最後に大丈夫と言えば大丈夫、駄目と言えば駄目、である。高城少尉も含めて、皆、この行程が重要なのだと言った。確かに重要なのだが、甚だ退屈な仕事であったし、一つの風船に、多くの人数を割くことはできなかった。この仕事が絹枝に任せられたのは、彼女の学業面の優秀さが関係していたのか、彼女の家が町を代表する家であったから、重要な仕事にやったほうがいい、という誰かの思惑によるものなのか、はたまた、何かの偶然によってかはわからなかった。それでも、絹枝は自分が評価されたのだと信じた。常々絹枝に厳しく接する母の松枝も喜んでくれた。

「中入っていい?」

 外から声があった。その高く、だけども少し間延びした声は初子のものだった。その時、風船の点検に当たっていたのは絹枝一人だった。

「いいわよ」

 そう答えるとすぐに、和紙と和紙の間の窓から初枝が顔を出した。少しだけ顔を赤らめて、しかし微笑しながら彼女は言った。

「だいぶ、痒くなってきちゃったの」

「あら、でもそんなものだと思ったわ」

 絹枝は初子の方は見ずに、検査を続けた。幸いにして、傷は見られなかった。背中で、はさり、と初子が作業着を脱ぎさるのを聞いた。続いて、ぷつり、ぷつりと虱を潰す音がした。

「絹ちゃんは真面目ねえ」

「そうかしら」

「私なんか、作業抜けてきちゃったのよ」

「それはよくないわ」

 生真面目な絹枝は空返事をした。ぷつりの音が止んだ。何かを堪えるように、初子は珍しく、押し黙っていた。

「ねえ」

 初子の声はいつになく重かった。その調子に絹枝はハッと目が覚めるように、冷たい水をでもかけられたように感じた。絹枝は振り返って初子を見た。その目は照明の光を載せて、少しだけ潤んでいるようだった。絹枝は何も悪いことはしていないのに、責められているように思った。少し焦れったいようにも感じた。初子の裸は絹枝の眼に、優しいものに思えた。その胸の膨らみと、滑らかな肌とは、息に合わせて緩やかに起伏した。和紙の匂いに、あの花を散らすような香りが混じった。絹枝は漠然と、自分の体と、初ちゃんの体とは何がこんなにも違うのだろう、と思った。しかし、それを別は悪いこととは思わなかった。ただ初ちゃんは初ちゃんらしいのだ、自分にはわからないのだ、そう口の中で呟いた。初子はじいっと、絹枝を見た。風船の中の空気が薄いせいか、彼女の頬は常より紅潮していた。

「絹ちゃんはその、まだなんでしょう」

 初子は恥ずかしそうに言った。

「まだって、何が」

 絹枝は困惑した。

「ううん、なんでもないの」

 初子は目線を再び服に落とした。

「でもね、これは絹ちゃんにしか言えないと思って」

「何を」

 初子の頬に一層の茜が射した。

「私ね、高城少尉とね」

 絹枝は、何も言わずに、ただ初子の顔を覗き込んだ。初子は俯くようになって、その頬は、今度は却って蒼白になっていくようだった。彼女の不思議なほどに真っ赤な唇から、今にも何かが零れ落ちそうで、しかし、流れ出ずにいた。

「いいえ、やっぱりやめておくわ」

 そう言って初子は顔を上げた。彼女の顔は、いつもの快活な少女に戻っていた。歯が白く光った。困り果てた絹枝を尻目に、初子は服を被ると、風のように風船から去っていった。

「絹ちゃん、それじゃあね」

 絹枝は困惑したまま、風船から顔を出して、走っていく彼女を見送った。少しだけ開いた工場の入り口から、いつの間にか傾き出した陽が、朱色に射していた。

「じゃあね、また明日」

 絹枝は、動揺しつつも、返答した。少し悲しいような気がした。次の日に、初子は工場に姿を見せなかった。母に聞くと、彼女はその日限りで親戚筋の農家の、出征を控えた一人息子の元に嫁いだのだった。絹枝にちゃんとお別れを言えなかったことを悔いていて、いずれ手紙を書くとのことだった。


「しっかりしなさい」

 父がいなくなってからというもの、松枝はよくそう口にするようになった。お父さんが戻ってくるまで、私たちが真面目に耐えて、待たなくてはいけないの。そう松枝は言った。絹枝は強く頷いて、それに従おうとしたが、本当は何に耐えなければいけないのか、父が本当に帰ってくるのかもまだ知らなかった。時に、全く話さずに、家の中で二人過ごした。そんな時には、沈黙が鉄のように、固まっていくのだった。家は一層に広くなっていくように思われた。


 絹枝は真面目に風船の点検を続けた。やがて空襲が始まったが、絹枝たちの住む、山間の小さな町は、忘れられてしまったようで、被害を受けたことは一度もなかった。絹枝にとって空襲の記憶とは、隣町が焼かれている光景でしかなかった。彼女は一度、防空壕に逃げるまでの間、立ち止まって、その景色を眺めたことがある。隣町は赤く、絵の具に浸かったように見えた。その上で、星々が、熱に歪んで見えた。届くはずのない炎が、胸の奥を優しく撫でて、警報の音も、人々の声と、その走る音も、遠のいていくようだった。なんでこんなに静かなのだろう。いや、なんでみんな逃げているのだろう。こんなにも静かで、全ては穏やかなのに。そういう感覚が、絹枝の中に芽生えた。

 ふとその時、一緒に立ち止っている人が後ろにあるような気がした。絹枝は振り返った。遠くに佇んで、こちらを見ていたのは母の松枝だった。絹枝は初子に見つめられたあの時のように、自分が何か悪いように思った。松枝の眼は冷たく、その顔は厳しかった。それでも、絹枝は母がこちらに駆け寄ってくるだろう、そうして自分の手を引いて一緒に逃げてくれるだろう、と思った。しかし、母はただ氷のように見ているだけだった。時間が流れているのかどうか、やがてわからなくなってしまった。きっとほんの一瞬のことのはずなのに、絹枝はとても長い間のように感じた。母は動かなかった。そうしているうちに、どこからか、高城少尉が走ってきて、こちらには眼もくれずに、母の手を引いて行ってしまった。その握った感じはとても力強くて、どこか不吉に思わせるほどだった。走っていくとき、母はこちらを見なかった。絹枝は透明な何かが、胸につかえたような気がした。


 それから二、三日してから、絹枝の家は、妙子を引き取った。妙子というのは、絹枝の従妹である、彼女より二つ程年が下の少女だった。彼女はそれまで隣町に住んでいたのだが、彼女の両親が町を長く離れなければいけなくなったために、一時、絹枝の叔母にあたる彼女の母が、我が子をこちらへ預けて行ったのだ、そう松枝は説明した。

「あっちも色々と大変なようだから」

 松枝はそう付け加えるように言った。

 妙子は、幼児のまま成長を止めてしまったかのように、頭が弱かった。隣町にいた時には、国民学校に通わせられたものの、ろくに文字も計算も覚えられず、その上授業の合間に騒ぎ出してしまうというので、すぐに通えなくなってしまっていた。家事をやらせようにも、料理など火や刃物を使うものは任せられなかったし、むしろ母の邪魔をするばかりだったようで、そうした態度のために、勤労動員にも行っていなかった。彼女は隣町にいる間、ずっと気ままに遊んで暮らしていたようだった。妙子は幼児のようだった。彼女はあらゆる場所を風のようにすり抜け走って、笑顔の花を投げ散らした。町の人々は、そうした妙子を見て、皆緊張した頬を緩めた。そうして、「たえちゃん、たえちゃん」と言って可愛がった。彼女の子どもらしさと、くりくりとした、透き通った眼と、爽やかな黒髪と、常に絶やさない笑い声とには、どこか人を優しくするようなところがあったのだ。絹枝には厳しい松枝も、妙子には優しく接した。

「おばさん、おばさん」

「何? たえちゃん」

「お父さんとお母さんは、どこ?」

「お父さんもお母さんも、たえちゃんのために遠くでお仕事しているのよ」

「そうなのー」

 妙子は起こったことも、前に聞いたものも、すぐに忘れてしまうようで、何度もそんな質問をした。その度に松枝は辛抱強く答えるのだったが、そういう母の姿を見ていると、絹枝は他の人を見ているような、変な感覚に襲われるのだった。一方、絹枝は町の多くの人とは違って、妙子のことを好いてはいなかった。理由はわからなかったが、彼女は、ほんのうっすらとした嫌悪と、憧れの眼で、彼女を見ていた。絹枝は、妙子のことが自分に近しいものだと思ったのだ。他の人たち、特に松枝や高城少尉のような大人が、「たえちゃん、たえちゃん」と言って可愛がっているのを見ると、なぜだろうか、それは間違っている、正しくない、と感じてしまうのである。しかし、絹枝はそうしたことを漠然と、綿雲のように頭に並べるだけだった。言葉にして考えてはいけないもののように彼女は思ったのだった。絹枝も、周りから浮かないように、妙子のことを「たえちゃん」と呼ばなければならなかった。

 絹枝はそうした曖昧な感情のために、妙子とはあまり話さなかった。それでも、妙子は絹枝のことを嫌っていないようで、「絹ちゃん、絹ちゃん」と呼んで懐くのだった。絹枝は妙子を煩わしく感じ、彼女を自分にのしかかる鎖のようだと思った。日中は風船作りに駆り出されて、そのために妙子のことを考えないで済むことを、絹枝は嬉しく思った。彼女は風船の中にいる時、最も自由なのだと感じた。風船の中には母も、妙子もいなかった。集中している時には、共に点検している同僚も目に入らなかった。ただ和紙が白く照っているだけだった。そこでは、時間も薄く引き延ばされて、白く、平坦に、平和に続いていくように思われた。何もかもが、そうやって自然と、忘れられていくように思えた。

「きーぬちゃん」

 外から声がした。それは春の川に踊る光のように、ちらちらと軽い声だった。絹枝の中に膨らんでいた、柔らかい忘却は、霧となって消えてしまった。

「きぬちゃーん、いないのお」

 外の声は妙子のものだった。どこから入り込んだのだろう、たえちゃんの声だ。絹枝は怪訝に思うと同時に、かすかな苛立ちの種を自分の中に見つけた。絹枝は聞こえないふりをして、ずっと和紙の白を眼でなぞり続けた。

「絹ちゃん、呼ばれてるんじゃないの」

 横で作業していた同僚が言った。

「あ、そうなの、気づかなかったわ」

 仕方なくそう言って、絹枝は風船の外に出た。

「たえちゃん、私は今仕事してるんだから、来ちゃダメよ」

 絹枝はそうとだけ言った。自分の中で、何かがじんじんと、破裂しそうになっているのを感じ、それを無理やりに抑え込んだ。しかし、妙子は、こちらを見てはいなかった。彼女はさっきまで絹枝が入っていた風船に、見とれていたのだった。その眼は、まるで星を載せたようにきらきら光っていた。彼女はまだ本当に子供なのだ、そう思ったために、絹枝の中の怒りは、萎えていくようだった。

「わあ、こんなに大きな風船、あたし初めて見たわあ」

 その口はぼんやりと開かれたまま、閉じなかった。絹枝はどこか虚しいような気分になった。彼女の揺籠としての、白い球体、その優しさと、さらさらとした、肌触り。和紙の匂い、植物の引き延ばされた墓標。忘れ去っていくこと。私の居場所。結局たえちゃんも私も…… しかし、絹枝はそれ以上には考えなかった。愚かに、空を飲むように開いたままの、妙子の口、それは形を保ったまま、ゆっくりと、回遊する大きな魚のように、また飢えたように、風船に引き寄せられていった。絹枝はばねが弾けたように、焦って妙子の腕を掴んだ。無意識に、憑かれたように体が動いていた。

「やめなさい、ね」

 そう絹枝は言った。その声は枯れ枝のように掠れて、弱かった。響きには怒りよりは、懇願が込められた。絹枝の眼は、声とは違って、毅然と据えられた。指は、不思議なほど柔らかく滑らかな妙子の肌に、ぐにゅうと食い込んだ。妙子は絹枝を見た。その眼に、絹枝は何か冷たいものを覚えた。感情がそこには載ってはいなかった。ただ、風船を見ていた時と同じように、罪もなく光りながら、しかし、確かに絹枝の姿を反射していた。たえちゃんは、ここにはいないのだ、そんな妙な考えが、当然のもののように芽生えた。妙子の眼は絹枝を映したが、しかし、何をも捉えていないのだった。絹枝は鏡写しになった自分を見ながら、ぼんやりと考えた。風船の表皮を追うように、疑うことなく。ああ、私は綺麗じゃないんだ、私は、私のことなんか見たくない。絹枝は眼を逸らした。けれど、妙子の眼は、無慈悲な雨となって彼女に注がれたままだった。それは矢のように絹枝の胸に刺さった。

「痛い」

 そう、妙子は小さく言った。糸と糸が擦れるような、かすかな声だった。絹枝の腕は自然と力をなくして、妙子から離れた。

「ふふっ」

 そう小さく、息吐くように笑って、妙子は駆け出した。絹枝は空蝉のように取り残されて、そのまま一人で立っていた。それ以来、絹枝は自分の姿が、何かに反射しているのではないか、自分の姿が、突きつけられているのではないか、と恐れるようになった。そうして、不安に思えば思うほど、絹枝は風船の中に籠るようになった。

 その日の晩のことだった。絹枝と、松枝と、妙子は三人で食卓を囲んでいた。彼女らの食卓は豊かだった。なぜだろうか、玄米ではあったが、米を食べることができたし、時には肉を食べることさえできた。父がいなくなった頃と比べて、大概の物資は減っていたが、食事だけはむしろ豊かになったようだった。そうしたことを、絶対に他人に言ってはならない、そう母は何度も言った。妙子は両頬に食べ物を入れながら、訳もしれず、今にも吹き出しそうに笑いをこらえていた。そうして、小さく、噛んだものが歯の上で粘着する音を立てていた。絹枝はしかし、昼のことのために、なんとはなく、それを注意する気にはならなかった。松枝はそうした妙子を可愛らしいと思うようで、笑顔で見ているのだった。

「ねえ絹ちゃん」

 唐突に妙子が、くすくすと笑いを堪えつつ言った。

「何」

 絹枝は怯える心に気づかぬふりをして、椀の底に眼を注いだまま応じた。

「あんな、大きな風船、何に使うの?」

 彼女の方を見ずとも、その息の火照りと、あまりに明るい瞳が感じられた。あれはね、海の向こうの敵国に爆弾を落とすために使うのよ、敵国民を一人でも多く殺すために使うのよ、そう口にしようとした絹枝は、横から、重い視線を感じた。母が、諭すような、厳しい眼つきで、彼女を見ているのだった。ああ、こうしてはいけないのだ、こうしては、自分は悪い子なのだ、そう思って絹枝は口をつぐんだ。

「ねえ、なんで、なんで」

 駄々を捏ねるように妙子は言った。しまいには絹枝にしがみついて、その腕を小さく揺するようにして「ねえ、ねえ」と言った。絹枝は、答える言葉が浮かばなかった。反対に、母に逆らって、真実を言ってしまいたい欲求に駆られた。それは彼女の中で大きく、大きく膨らんでいって、顔の皮膚の下でどくどくと高まった。言ってしまったらどうなるだろう、たえちゃんは傷つくだろうか、いや、笑ったままだろうか、きっと笑ってるに違いない。でもその方が、母さんは困るのだろう。

「たえちゃん」

 松枝がゆっくり言った。その言葉はゆっくりとしかし、鋭く響いた。

「たえちゃん、あれはね」

 松枝は先よりもっと緩慢に口にした。

「戦争が終わって、たえちゃんのお父さん、お母さんや、あと戦争に行ってる全部の兵隊さんが戻ってきたら、一斉に、お祝いで、お空に放すのよ」

「へええ、見たいなあ、綺麗だろうなあ」

 そう言って、妙子は再び口をぽあ、と開けた。今度は眼線が、想像しつつ、空を泳いでいた。松枝は、自分を説得するように、しかし、少し悲しげに付け加えた。

「もうすぐよ、きっとみんな帰ってくるわ」

 絹枝は何も考えないように、何も考えないようにと頭の中に何度も刻み込んだ。そうして、椀の底にこびりついた玄米の一粒一粒を箸でつまんでは、含んで行った。


 妙子が風船作りの工場で働くようになったのは、秋が冬に変わりつつある頃だった。妙子自らが松枝に懇願したようだった。町の人たちに気に入られているとはいえ、働かずに、遊んでばかりいる子どもがいるというのは、あまり都合のいいことではなかったから、松枝もこれを喜んだ。彼女は和紙を貼り付けて、風船の膜の元を作る仕事だったから、絹枝は働いている間、妙子に会わないで済んだ。高城少尉を通して松枝が話を回したらしく、妙子の前で、女学生たちは風船のことを「戦争が終わって、みんなが帰ってきた時に空に放つもの」として扱った。たえちゃんがそんなに大切なの。絹枝はしばしばそんな誤魔化しに目眩を感じた。

 妙子は思いの外真剣に働いているらしく、工場で彼女が悪く言われることはなかった。むしろ彼女は持ち前の無縫さのために、他の女学生たちに可愛がられているようだった。絹枝は、妙子が可愛がられるほどに、自分が圧迫されるように思った。少しずつ、足場を無くしていくようだった。彼女は隠れるように風船の中に入っていった。そうして、和紙の白い肌を眺め続けた。そうしている間、彼女は妙子のことを考えないで済んだし、さらには、自分のことを考えることさえなかった。ただ、うっすらと、照明に頬を火照らせて、白をなぞった。絹枝は和紙に触れさえもしなかった。穴など開けてはいけないからだ。そうした制約は、絹枝に奇妙な好奇心を抱かせた。撫でていったなら、どんな風だろう。そう絹枝は考えることもあった。それは摩擦して、手を掠れさせるだろうか、それとも、ただ冷たく滑って行くだろうか。思いの外柔らかいかもしれない。絹枝はそうした夢想を崩さないために、とても用心した。思えば、和紙の手触りなど、家の障子と似たようなものなのだ、けれども絹枝は、風船をあくまで特別なものと、信じたかった。そうすることで、初めて絹枝は自分が風船に守られていると、思うことができた。

 そこには優しく、気怠く、静止した幸福があった。いつまでも続いていくものにも思えた。外にいる時には、たくさんの不安と、期待が彼女につきまとった。もし、町に空襲があったら、家が燃えてしまったら、それとも、戦争が終わって、お父さんが帰ってきたら、そうした考えが、絹枝の頭の中に渦を巻いた。しかし彼女はそれらを芽のうちに摘んでしまう。だから、一層、風船の中は静かになる。時折、一人で作業することができる時には、彼女は、照明の輝きが優しく金を帯びたものにも思えた。それは液体となって、風船の中を、いっぱいに満たした。絹枝は一人、眠るように佇んだ。

 そうしている間にも、冬は深まっていった。木々は枯れ葉を落とし、少しずつ、透明になっていくようだった。その姿と、冬の鋭い空気に、絹枝は少しだけ救われるように感じた。自分もそうして妙子のことや、母のことを忘れていきたいと思ったのだった。思い出すのは初子のことだった。急な別れから長く経って届いた手紙は、自分の筆不精に対する詫びと、嫁ぎ先での苦しいが幸せな生活が書かれていた。こちらを気遣う言葉に触れながら、絹枝は初子の姿を思い浮かべた。初ちゃんは私と違って、とても綺麗だったな、たぶん私になんだかあの子がわからないような気がしたのは、きっと、そのせい。今もわからないのだけれど。そう考えつつも、絹枝はまた初子に会いたいと思った。彼女の紅潮した頬を想って、少しだけ暖かい気持ちになった。しかし、手紙の最後の文面に、絹枝は自分の胸をわずかに荒立てるものを見つけた。そこには、徴兵に行ってしまった夫はとても良い人だということ、苦しい時期だけど、夫が帰ってきたなら、子どもを産みたいということが、率直な調子で書かれていた。絹枝は急に、初子を遠くに感じ出した。初ちゃんはもう私とは違うんだ、もう私と同じ風船の中にいた、あの初ちゃんではないんだ。胸の内に冷たい針が浅く、しかし何本も刺さっていくようだった。それでも私は、変わりたくない、変わりたくない。そう強く、何かを恐れるようにして、絹枝は念じた。絹枝は返信を書かなかった。


 金色のまどろみ。優しく温かい海にいて、あぶくを飲みながら、私は目を開けない。私は風船の中にいる。風船と、海と、一つになって眠っている。ぼうん、ぼうん、鈍く叩く音がして、誰かが入ってこようとしているのがわかる。私は眼を覚ます。見えないけれど、私はそれがたえちゃんだと知っている。泣き叫んでそれを止めようとする、でも、気付いた時には、私は風船の外に放り出されている。風船は、たえちゃんを乗せて昇っていく。ねえ、私がいけないのかしら、なぜ私はそこいてはいけないの、そう言おうとするけれど、口を開くことができない。泣くこともできない。私はただ、空を見上げる。何も言えないのは、きっとこの青のせいだ。口を開けると、それが流れ込んできてしまうだろう。私はただ見上げる。気付けば、風船は他にも無数に浮かんでいる。そのどれもが、空に吸われていく。どんどん、真っ白に、透明に、なっていく。私はただ見ている。なんで。それさえもわからずに。


 朝冷えが酷かった。肌に、霜が降るかと思われるほどだった。絹枝は目覚めたものの、彼女には珍しいことに、布団の中に沈み込んで、長く、起き出ようとはしなかった。隣の布団にはすうすうと寝息を立てて、妙子が眠り込んでいた。絹枝は昨夜の夢を思い出そうとしていたけれど、頭に刻まれているのは、いくつかの破片のみで、それらはつながらずに、きらきらと笑うだけだった。少しだけ悲しいような気がした。しかしそれはただの気分なのだと思った。お腹が少しだけ、痛いな。陽はまだ上りきっていないようだったけれど、目覚めなくてはいけないとわかっていた。微笑むような布団のぬくみも、絹枝には十分ではなかった。そろそろ初雪が降りそうね、そんなことを誰かが言っていたっけ。

 障子に近付いてくる小さな足音があった。絹枝は再び目をつぶった。ゆっくりと障子の木の、擦れ合う音があった。絹枝は薄眼を開けて、二人の寝顔を眺める母を見つけた。しっかりとは見られなかったから、母がどんな表情をしているのかは知れなかった。ただなんとなく、絹枝と妙子の上を、滑っていくような、そんなぼんやりとした眼が注がれているように思った。もしかしたら、それは絹枝自身がぼんやりとした視界に母を置いていたからかもしれなかった。一人物思いに耽っている時よりも、却って辺りは曖昧に、まどろむようだった。何も起こらず、何も許されてないのに、世界は溶けていきそうだった。母はほどなく障子を閉め、絹枝はそれに合わせたように、浅く、短い眠りに入った。その睡眠のために、絹枝には自分たちを見ていた母の姿が、現実のものだったかわからなくなってしまった。初雪が降るという話も、夢の中のことだったどうか、思い出せなくなった。しかし、全てが混じり合ったわけではなかった。絹枝は再び目覚めると、寒い道を踏みしめて、いつものように工場に向かった。

 絹枝はいつもにも増して、点検に集中した。他の女学生は全く眼に入らなかったし、辺りの音も後景に遠のいた。思い出すように時折、腹痛が彼女に食い込んだが、それさえも彼女を駆り立てるだけだった。何にも触れず、何をも壊さなかった、ただ、見ることによって彼女は風船の内側を舐めまわしていった。視線の針は、真っ平らな表面をくぐり、その奥の繊維の一つ一つまでも突き刺さっていった。それらは解け、千切れて、絹枝体内に振っていった。長い時間の間に、繊維は優しく折り重なって、無数に白さを固めていった。彼女はだんだん、自分が白くなっていくように思った。これでいい、これでいいの、そう彼女は思った。彼女は高揚しつつ、しかし、だんだんと穏やかになっていく自分を感じた。これでいいの。そう、これでいいの。

「ねえ、絹枝さん」

 絹枝の夢の膜を割って、声をかけたのは、顔見知りの女学生だった。それは、彼女がその日三球目の風船を点検し終えて、次の風船に移ろうとしている間だった。絹枝はぼんやりとした苛立ちと、また、思いの外寒いということと、お腹が痛いということを、思い出したように感じた。相手の少女はどこか怯えて見えた。

「何」

 絹枝は、そう言うのが精一杯だった。相手は丸い眼を伏せては、上げて、と繰り返し動かしていた。その遠慮の仕草は絹枝に、それまでには気付かなかった重い空気を感じ取らせた。それは厚い雨雲のように、女学生たちの上を、覆っていた。絹枝は自然と、現実に引き下ろされていくように感じた。

「あの、初ちゃんの話って、本当なの」

 相手の少女は、眼を伏せたまま聞いた。絹枝は何について聞かれているかわからずに、ただ困惑した。

「わからないわ、何のこと」

「知らないの」

 今度は少女の声に怒りが混じったようだったが、その語尾は、消えるように小さく掠れた。絹枝は黒々と育つ不安の泥を必死に抑えつつ、ゆっくりと聞き返した。

「わからないわ、何について聞いているの」

 少女は少しだけ息を吐き出したが、緊張は消えないようだった。少しだけ頷くように首を傾かせてから、彼女は話し出した。

「初ちゃんが亡くなったって話、知らないの」

 絹枝は自分の中の何かに、亀裂が入っていくのを感じた。


 絹枝は女学生との話を終えると誰にも言わずに工場を出て、母の元へ向かった。初子のことについて、母に問いたださなくてはいけない、そう感じたのだった。空では、知らぬ間に忍び寄っていた夕焼けが、黒い雲を喰らっているところだった。閃光が雲間から血のように鋭く溢れ出ていた。絹枝は走った。腹痛は先程より増しているようで、その重さは彼女の思考を混濁させた。走るに連れて拍動は速く強くなった。足が縺れた。しかし、彼女の頭はなぜ、という言葉に埋もれていた。なぜ初ちゃんは死んでしまったのだろう、なぜ母さんはそれを教えてくれなかったのだろう。

 女学生が言ったことには、初子が死んだのは、二日前の夜のことだったという。都市の爆撃に向かった敵機が、事故か何かにより、目的地より前で幾らかの爆弾を落としてしまった、それが運悪く、本来空襲をされるべくもない、初子の嫁ぎ先の農家に直撃したのだという。しかしそれは、その近くにまで出かけたものが言う噂に過ぎない。だからこそ、女学生は、初子と親しかった絹枝に聞くことでその真偽を確かめようとしていたのだ。それに町の名家である絹枝の家なら、真実を先に知らされていてもおかしくはない。女学生の口ぶりからは、噂が同級生のほとんどに知れ渡っていることがうかがえた。母さんはわざと、私に知らせなかったんだ、たえちゃんにもしたように、私にも嘘をつこうとするんだ。絹枝は一層に足を速めた。腹が捩れるように痛んだが、そんなことはどうでもよかった。絹枝は走った。

 玄関に走り入り、速い、乱れた呼吸のままに靴を脱ごうとした絹枝は、他の靴に躓いてしまった。転びそうになった絹枝が振り返ってみると、彼女が踏んだのは常には置いていない、やけに大きな靴だった。それは軍靴だった。絹枝は深く暗い違和を家の中に感じ取った。それはドロドロと包み込んで、絹枝の臓腑を冷たく、不安に汚した。

「お母さん、お母さん」

 絹枝は叫ぼうと、声を張ったが、妙に声は乾いて、大きな声は出なかった。

「お母さん」

 絹枝は母を見つけたくはないように思った。しかしいるのだとはわかっていた。お腹の痛みが増した。辺りが黒く染まるように感じた。絹枝は母がどこにいるのか、わかっていた。けれど、そこを避けようとするように、家の中を見ていった。ああ、嫌だ。私は嫌だ。そうやって何もかもを投げ出したかった。逃げてしまいたかった。けれど、どこへも行けず、母を捜すしかなかった。縛り付けられたようだった。最後に残された間に向かい歩いていくと、痛いほどに、目頭が熱を集めた。

「お母さん、お母さん」

 絹枝は時間を引き延ばすことも、逃げ出すこともできずに寝床の襖の前に辿り着いた。絹枝は取手に手を掛けた。冷たい汗が全身から湧き出た。それは粘着質の重さで、彼女を動けなくしてしまった。寒い。お腹が痛い。ここを開けたくない。開けなくちゃいけない。私は嫌だ、こんなところにいたくない、早く風船の中に帰らせて、早く。じっとりと、汗は作業服に滲み出した。絹枝は襖を開けることも、振り返って去ることもできなかった。ただ石になったように、重く、そこに立っていた。絹枝はただ、歪んだ暗い中に沈み込んで行った。いつの間にか陽は落ちてしまったようで、辺りのものは色を奪われ、死んだような灰色に黙りこくった。全てが重く、重くなっていった。絹枝は何も考えられなかった。自分の心臓の音さえも聞こえなかった。体は冷たくなっていった。

 唐突に、襖がゆっくりと開いた。母がそこにいた。

「お母さん」

 松枝は問いただすような眼で絹枝を見ていた。それは空襲の晩の時よりももっと冷たく、厳しく絹枝を刺した。母の髪は嵐に打たれたように乱れ、結ばれてさえいなかった。着物は胸元が大きくはだけて、乳房が露わになりそうですらあった。母の肌は、淡い汗で灰色に光を載せていた。汗の匂いの汚れた感じが絹枝の頭の中を歪ませた。痛かった。絹枝は眼を逸らしたかったが、できなかった。代わりに涙が出そうだった。

「お母さん……」

 母は何も言わずにただ絹枝を見ていた。絹枝はその眼に、全身がぎゅうと閉まるのを感じた。絹枝は動けないまま聞いた。

「お母さん、初ちゃんは、初ちゃんは死んじゃったの」

 母は何も言わずに、小さく頷いた。しかし、絹枝は自分が本当に聴きたかったことがそれではないことがわかっていた。どうすればいいの、どうすればいいの、お母さん、私は悪い子なの。お父さんは何で帰ってこないの。私はどこに行けばいいの。初ちゃんは何でいなくなったの。お母さんはどこにいるの。ここはどこなの。私は、お母さんは何で今向かい合っているの。どうすればいいの。

「お母さん、何で……」

 それは絹枝の精一杯の問いかけだった。しかし母は答えなかった。言葉は夕陽の死体の中で、灰色に沈んでいった。涙がとめどなく流れた。

「絹枝、泣くのをやめて、みんなの元に戻りなさい」

 松枝は娘にただそれだけを言った。娘はくずほれる世界を眼の中に抱えたまま、家から彷徨いでた。


 夜になる頃に雪が降り始めた。それはまるで夜が空から光を剥がして落としていくようだった。思いの外大降りとなった初雪は、ひとひら、ひとひらこそ土に当たって溶けつつも、いつしか、うっすらと積もっていった。夜の何もないところから、白い繊維は降った。

 絹枝は町を数時間、腹の激痛を抱えながら、あてどもなく歩き回った。たくさんのなぜは、一つに撚り合わさって、腹の奥底から彼女を押し潰そうとするかのようだった。雪の冷たさは気にならなかった。その白さは彼女の痛みを和らげも、強めもしなかった。仕事の終わる時間を待って、彼女は工場に入った。普段は鍵の閉まっている入口が今日に限って開いていたことを、絹枝は何かの小さな優しさだと感じた。彼女はねじ切れそうな痛みを抱えて、風船の中に身を横たえた。全てをなかったことにしてしまいたい、全てを忘れてしまいたいと願いながら、絹枝の眼は、ひたすらにその内壁をなぞった。まどろみの海を、何もない優しい白を。彼女は祈るように風船の肌を眺めた。しかし、白は彼女の中に流れ入らなかった。それはただ押し黙って、彼女を囲い込むだけだった。その薄い壁から、彼女は切り離されてしまったように感じた。しかし、不思議とそのことに悲しみを覚えはしなかった。反対に、赤黒い塊が、彼女の奥底に蠢いていた。それは絹枝の内側にある、たくさんの怒りや疑問を、次々と飲み込んでいき、彼女の体の内側に粘り着いた。そうして、炎を付けられたようにゴオゴオと渦を巻き、荒れ狂った。それは耐え難い苦痛となって、内側から絹枝を食らっていった。やがてそれは、絹枝自身と一つになるかと思われるほどに膨れ上がった。そして新しい海になって、彼女の中から溢れ出そうとした。絹枝は反射的に作業着を脱ぎ捨て、足場の上にうずくまった。赤黒い炎が苦痛とともに、恥部から湧き出た。それは細く、小さく咲いていった。そして足場を擦り抜けて風船の白を染めていった。赤く。黒く。絹枝は次々と風船を汚していった。あッ。こういうことだったんだ。絹枝は漠然と何かがわかったように感じた。それは何かでしかなく、そして、それがわかることには一滴の幸せもなかった。ただ痛みだけが、溢れて、絹枝の中と外にあった。ああ。でもこういうことだったのね。うずくまった絹枝の下で、風船は燃え盛り、やがては破けていった。ああああ、痛い。あの晩、たくさんの人が燃えて、叫びながら、死んでいったのね。

 全てが溢れてしまうと、絹枝は立ち上がった。そして風船の白い肌を破いて、外の世界へ出た。


「絹ちゃん」

 風船から出た絹枝に妙子が声を掛けた。その顔はいびつに歪んでいた。彼女は怒っているのだった。妙子はその表情のまま駆け寄ってきた。ああ、この子は何も知らないんだ。絹枝は妙子を真っ直ぐ見据えた。

「風船壊しちゃって、いけないんだあ」

 妙子は残骸を指差して言った。

「あたしの、お母さんと、お父さんのための、風船なのに」

 そう言いながら、妙子は大きく首と肩を揺らした。彼女の昂りが、鼻息になって、絹枝の頬に触れた。絹枝はしかし、怒りを感じはしなかった。少しだけ躊躇いながらも、静かに、絹枝は問うた。内部の血の海が彼女を、遠くへ、ゆっくりと連れて行こうとしていた。

「この風船、本当は何のために作っているか知っているの」

 妙子は口を丸に開いて、答えた。

「あたしのお母さんと、お父さんに、送るの」

 そうして微笑した。心臓が、打つたびに血を吐き出しているようだった。この子だって、知らなくてはならない、傷つかなくてはならない。理由もなく、そう信じていた。痛みが世界を貫通していなければならないと思った。

「この風船は人を殺すためのものなのよ」

 妙子は首を傾げた。絹枝はもう一度、今度はなるべく優しく言った。

「みんな嘘を吐いていたのよ。これは爆弾をつけるためのものなの。私たちは人を殺すためにこれを作ってきたの」

 妙子の頬は少しずつ色を失っていった。笑顔は解けていった。そうして小さく震え出した。眼球は光を奪われて、闇に沈んでいくようだった。

「いや、いや、いや、いやああ」

 妙子は金属を引き裂くような音で叫んで、耳を塞いだ。そうして、小さく、小さく身を屈めた。絹枝は妙子の背中に手を当てて、慰めようとした。それが本当のことなのよ、と言おうとした。しかし、妙子は急に立ち上がって、絹枝の手を振り払った。

「あたし、全部知ってたもの、全部、知ってたもの」

 声は細く振動していた。それが妙子のなけなしの嘘であることは、彼女の両眼からとめどなく零れる光でわかった。妙子はそれだけ叫ぶと、走り去った。

「たえちゃん、待って」

 絹枝は走って追ったものの、大量に抱えた赤が彼女に重くのしかかって、追いつくことはできなかった。絹枝が最後に見たのは、妙子が降りしきる雪の中に消えていくところだった。雪の花弁がかすめるたびに、幼子のような背中と、泣く声は揺れて、薄らいでいった。妙子は遠くで、次第に透明になって、そのまま消えていった。流れ散るような白い点々の向こうには、夜が大きく口を開けていた。絹子はただ見ることしかできなかった。

「たえちゃん、待って」

 絹枝の声は白に吸われて、響かなかった。どこからも答えは返って来なかった。ただ血が、再び絹枝の内壁を蝕んでいた。体が重かった。痛かった。妙子は姿を消したまま、二度とは現れなかった。

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風船と少女 張文經 @yumikei

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