第5話「逢いたいから」

 木曜日の朝、リヴィングで読みかけの推理小説を開きながら、ダージリンティーを飲む。

 平日の休みは久しぶりだった。先週の土曜日に遅番で勤務したので、代休をあてられた。誰もいないリヴィングは広すぎて、私ひとりではどうしたってもて余してしまう。テーブルに置いたCDラジカセから、古内東子の歌声がきこえる。

 

 古内東子。二十年近く前、高校時代に流行っていた覚えがあるが、当時付き合っていた人の影響でX JAPANやL'Arc〜en〜Cielが好きだった私にとっては、別に嫌いではないもののまるで興味の対象外というべき歌手だった。先週、神楽坂のバーで偶然耳にした後、家の近所の中古CDショップで彼女のアルバム『恋』を購入したのだ。どうして衝動的にそんなものを買ってしまったのか、今となってはよくわからない。それでも、この静寂を纏ったリヴィングで気晴らしとして流すぶんにはX JAPANよりも適していることは確かだった。

 アルバム二曲目の『ブレーキ』は、この前バーで流れていた曲だ。都会的な雰囲気を演出するキーボードとエレキギター、そのバックで控えめにリズムを刻むドラムに魅了されながらも、彼女の生ぬるく、それでいてこの上ない哀切あいせつを帯びた歌声がやけに心地よく耳をなでた。 


 秋悟とは、半年以上寝ていない。

 もとより、男との行為に特段の快感を覚える質ではなかったけれど、独身のころから、女は結婚したら夫の性欲を満たすために定期的に体を捧げるものと根拠なく、同時に疑いもなく思っていた。秋悟は、セックスなど度外視して私を惹きつけ離さなかった。長く形のよい指も、ほどよく厚みのある胸板も、また木訥ぼくとつながらも心ばせがあり品のよいところも。秋悟が私の生活に溶け込めば溶け込むほど、仮にそれを手放したり掠奪りゃくだつされたりしても、特別支障がないような気がした。


『恋』は、最後の数曲以外は似たような曲調ばかりで、ほとんど区別がつかなかった。


 アルバムを最後まで聴き終え、ふと、古瀬さんに会いたいと思った。彼のぬるま湯に溺れて、動けなくなりたいと思った。秋悟を愛すれば愛するほどに、古瀬さんの顔が見たくなる。タバコを喫うときの皺の少ない横顔、後輩と話すときの気の抜けたような笑顔。それらを、一秒でも早く見たいと思う。推理小説はちっとも頭に入らなかった。


 昼休みに電話をすると、古瀬さんは喫煙所にいた。電話越しに、彼のタバコの芳香が伝わってくるようだ。ベランダで晴れ晴れとした冬空を背に、私もタバコを喫っている。


「昨日も会って、明日も仕事に行けば会えるのに。でもね、私、どうしても今日、あなたに逢いたいの」

 返答に時間を要すると踏んで、再度タバコを口に含む。

「そうだね、それがいいと思う」

 意表を突かれたのは返答が思いのほか早かったからではなく、古瀬さんの声があまりに普段と同じ調子だったからだ。


 いや、本当は、そこまで予測していたのだと思う。私の左脳はたぶん、トータルの私より三手先を読んでいた。秋悟は今日から二日間、出張で博多に行っている。     

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