ブレーキ
サンダルウッド
第1話「知性的な所作」
「今日、少し残れるかな?」
斜め向かいに座る
「すみません、今日はちょっと用事が。急ぎの仕事ですか?」
終業を告げるベルが、狭苦しい事務所に場違いな音色を運んできた。
「そっか。それなら大丈夫だよ。悪かったね」
視線をパソコンへと戻し、古瀬さんは日誌の続きを入力する。
本当は、なにも用事なんてなかった。早く帰りたくないとさえ思っていたので、むしろ残業の誘いはありがたいものだった。
古瀬さんは、少し優しすぎると思う。いや、“ぬるい”と言うべきだろう。
後輩がなにかミスをしたときも、「次は気を付けるようにね」なんて笑って言うだけだ。今日も、短期入所の利用者の服薬忘れという小さくない事故があったのに、その件の報告書を作成したのはミスをした当人ではなく古瀬さんだった。夜勤明けで疲れているだろうから書かせるのは気が
古瀬さんの場合、でもそういうケースは今回に限ったことではなかった。お人好しなのか下を育成する気がないのか判然としないものの、強く言って後輩に嫌われたくないから、ということではないだろう。彼はそういうことを気にするタイプではなく、むしろ無頓着に近いと思う。
ただでさえ管理職で多忙なのに、そういう余計な仕事まで抱え込んで毎日二時間も三時間もサービス残業をしているわけだから、
私は、でも古瀬さんのことを好もしく思っている。
古瀬さんのぬるさには時に微かな
彼の言動で特に好感を抱いているのは、車椅子の扱い方だ。
利用者の車椅子のブレーキを解除するとき、どの職員も一様にガチャンと大きな音を響かせる。それが普通で、いちいち気にするようなことではないのだけれど、私はそれがどうしても耳障りに感じていた。
古瀬さんは、ブレーキを外すときに決して音を立てない。誰しもせわしなく、なかば機械的に支援を進めるなか、「出発しますよ」とか「お疲れ様です」といったひと言とともに、
そうした
私も現場で一緒になると、いつのまにか利用者よりも古瀬さん――顔というよりは、何気ない仕草や手つき――を見ている時間のほうが長くなっていることがあり、現場リーダーとしてそれはまずいだろうと、後で喫煙所に行ってひとり反省会をものの三十秒ほど開く、なんてこともあった。われながら、ばかばかしくて笑ってしまう。私には秋悟がいるのに。
今夜は、でも一人になりたかった。古瀬さんと呑気に残業なんてしていたら、そのぬるま湯に染み入ってしまいそうな気がした。
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