ブレーキ

サンダルウッド

第1話「知性的な所作」

「今日、少し残れるかな?」

 斜め向かいに座る古瀬ふるせさんが、日誌を入力する手を止めて尋ねる。


「すみません、今日はちょっと用事が。急ぎの仕事ですか?」

 終業を告げるベルが、狭苦しい事務所に場違いな音色を運んできた。


「そっか。それなら大丈夫だよ。悪かったね」

 視線をパソコンへと戻し、古瀬さんは日誌の続きを入力する。

 

 本当は、なにも用事なんてなかった。早く帰りたくないとさえ思っていたので、むしろ残業の誘いはありがたいものだった。

 秋悟しゅうごの帰宅は今日も夜中だろう。平日はいつも二十三時前後だし、特に金曜日は職場の後輩と飲みに行くやらなにやらで、日付が変わってから帰ることも少なくない。


 古瀬さんは、少し優しすぎると思う。いや、“ぬるい”と言うべきだろう。

 

 後輩がなにかミスをしたときも、「次は気を付けるようにね」なんて笑って言うだけだ。今日も、短期入所の利用者の服薬忘れという小さくない事故があったのに、その件の報告書を作成したのはミスをした当人ではなく古瀬さんだった。夜勤明けで疲れているだろうから書かせるのは気がとがめた、なんて言っていたけど、明けだろうとなんだろうと自ら省みる機会を与えなければ、後輩はこの先も同じ失敗をする可能性が高い。


 古瀬さんの場合、でもそういうケースは今回に限ったことではなかった。お人好しなのか下を育成する気がないのか判然としないものの、強く言って後輩に嫌われたくないから、ということではないだろう。彼はそういうことを気にするタイプではなく、むしろ無頓着に近いと思う。


 ただでさえ管理職で多忙なのに、そういう余計な仕事まで抱え込んで毎日二時間も三時間もサービス残業をしているわけだから、はたから見ていてなんだかなあと思ってしまう。奥さんとは「倦怠期だな」なんて半笑いで話していたけど、そういうぬるさが影響しているのかもしれない。

 

 私は、でも古瀬さんのことを好もしく思っている。

 古瀬さんのぬるさには時に微かないら立ちを覚えもするが、決して雰囲気が良いとは言いがたいこの職場においてある種箸休めのような存在と化していることは、私以外の職員も衆口の一致するところだろう。

 

 彼の言動で特に好感を抱いているのは、車椅子の扱い方だ。

 利用者の車椅子のブレーキを解除するとき、どの職員も一様にガチャンと大きな音を響かせる。それが普通で、いちいち気にするようなことではないのだけれど、私はそれがどうしても耳障りに感じていた。

 古瀬さんは、ブレーキを外すときに決して音を立てない。誰しもせわしなく、なかば機械的に支援を進めるなか、「出発しますよ」とか「お疲れ様です」といったひと言とともに、悠揚ゆうよう迫らぬ動作でブレーキにそっと手をかける様は知性的で、きっと利用者も心安く思っているに違いない。


 そうしたこまやかな振る舞いに加えて器量も悪くないから、実際、利用者からの――特に女性の――人気も高い。目鼻立ちの整った顔は、笑うと若いころの田中健たなかけんにちょっと似ている。背は少し低めだけど。

 私も現場で一緒になると、いつのまにか利用者よりも古瀬さん――顔というよりは、何気ない仕草や手つき――を見ている時間のほうが長くなっていることがあり、現場リーダーとしてそれはまずいだろうと、後で喫煙所に行ってひとり反省会をものの三十秒ほど開く、なんてこともあった。われながら、ばかばかしくて笑ってしまう。私には秋悟がいるのに。


 今夜は、でも一人になりたかった。古瀬さんと呑気に残業なんてしていたら、そのぬるま湯に染み入ってしまいそうな気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る