第4話
土曜日の午前六時半を過ぎていた。
ナイロンジャンパーに袖を通したマナは、ショルダーバッグを肩にかけ、関山コーポの北側を東西に走る道を西へと向かった。乗用車がどうにか擦れ違える程度のアスファルトの道だ。右には畑地やビニールハウスが広がり、民家は点在する程度である。左は関山コーポの並びであり、三軒の民家が軒を連ねているが、その家並みが切れると、南に落ち込む斜面の先に新王子団地の家々が視界に入った。
自分の靴音と鳥のさえずり、遠くに車の往来する音が聞こえる以外に、音らしい音はない。小さな雲がいくつか浮かぶばかりの晴天であり、一連の怪異がなければ、穏やかな週末の始まりとしてマナの気持ちを和ませてくれたはずだ。
新王子団地の西の端を過ぎた辺りで、行く手の左にくだんの雑木林が現れた。左を雑木林、右を畑地に挟まれる形で、道はまっすぐに西へと延びている。民家は畑地の遠く先に何軒か窺えるが、人の姿はどこにも見当たらない。
二百メートルほど歩くと、雑木林の途切れるところに達した。このまま直進すれば、右は相変わらずの畑地だが、左は手つかずの草地となる。
マナは足を止めて南に正面を向けた。雑木林と草地との間に未舗装の小道があった。振り向けば、この小道は畑地の間を貫いて北へと延びている。
南に向き直り、未舗装の小道へと歩み出した。右に背の高い雑草が迫り、左には雑木林の下生えがせり出している。だが黒土の路面は乾燥しており、路上の雑草も少なく、ジーンズにトレッキングシューズという装備の効果もあり、歩行に支障はなかった。
未舗装路を百メートルも歩いただろうか――雑木林の木立がわずかに開いている箇所があった。人の通れそうな空間が奥へと続いている。どうやらここが雑木林の西側の入り口らしい。灌木の小枝がマナを拒むかのごとく左右から伸びているが、つまんで軽くひねっただけでそれらは容易に取り除くことができた。落ち葉や背の低い雑草を踏み締めながら、マナは雑木林の奥へと進み始めた。
いつの間にか鳥のさえずりが聞こえなくなっていた。車の往来する音も聞こえない。ゆえに、雑草を踏み締める音が際立ってしまう。静かに歩こうと何度か試みるが、それは無駄な努力だった。
枝葉が日差しを遮ることにより、一帯は暗然たる空気に包まれていた。朝日に照らされた先ほどまでののどかな風景と比べ、まるで別世界である。
いつの間にかカビのにおいが漂っていた。進むごとにそのにおいが強くなる。一週間前に鳥居の近くで嗅いだにおいだ。
静かに歩くのを諦めていたにもかかわらず、歩調が下がっていた。呼吸に乱れがあるのも自覚する。だが、どうしてもけりをつけたかった。明日ではだめなのだ。今週の水曜日から金曜日までのチャンスは、その日その日に二の足を踏み、逃してしまった。やるならば今日しかない。
新生活の基盤となる心のよりどころが、盤石であるはずのそれが、マナの中で崩れかかっていた。無論、何もかもが間違いであってほしい。それらを否定したい。だが、否定するにせよ肯定するにせよ、真実を確かめるには、一人で行かなければならない。
唐突に青空が見えた。木々が左右と正面の奥に遠のき、道は正面と左に延びている。見覚えのある場所だ。左の道の暗がりに朱色の鳥居が立っている。
マナは鳥居の手前で足を止めた。辺りを見回し、人の姿がないことを確認する。そして、新聞紙でくるんだものをショルダーバッグから取り出し、開いた新聞紙を乱雑に丸めてショルダーバッグに入れ、右手に残ったそれをじっと見つめた。
それは一本の文化包丁だった。普段の調理に使っているものだ。ほんの一瞬、刃先が鈍色の光を反射した。
文化包丁を右手に提げたまま、マナは足を踏み出した。カビだらけの鳥居をくぐり、暗がりの奥へと向かう。
歩調は相変わらず鈍かった。早々にことを済ませたいのは山々だが、汚泥にまとわりつかれたかのような重さを感じ、どうしても速度が上がらない。
周囲に目を走らせた。木々や下生え、黒土の地面は、薄闇の中で沈黙を守っているものの、いつでもマナに襲いかかれる態勢にあるように思えた。
マナはようやく祠の前にたどり着いた。先週と同様、開いた状態の観音開きの扉が、向かって右側のみ傾いている。
カビだらけの祠を前にして、引き続き周囲に目を走らせた。森閑とした暗がりの中に動くものは何もない。
「出てきなさいよ」
挑発したつもりだが、声に覇気はなかった。
「あなた、人間や動物を食べるんでしょう?」意図して声に力を入れた。「ここに人間が一人いるわよ。さあ、早くでてきなさい」
文化包丁の柄を握る手が小刻みに震えているが、化け物を真っ向から信じているわけではない。ささやかな威嚇は、トリックを仕組んだ何者かを嘲笑すべく口にしたまでだ。
時間の流れが感じられなかった。
自分自身の呼吸音がやけに耳につく。
背後から、右、左、と目を配るが、なんら動きはなかった。
正面に視線を戻すと、お辞儀をするかのごとく、祠がこちらに向かって傾いていた。
マナは息を吞んだ。
その背後の地面が隆起しているため、祠が土台石ごと前に傾いているのだ。
「わたしはだまされない」
見えない犯人に言ったつもりだった。
地面の隆起は十センチ程度の高さだったが、マナが目を瞠っている間にますます高くなっていった。そして、隆起が三十センチを超えた辺りで、ついに祠は音を立ててうつぶせに倒れてしまう。土台石だけが盛り上がりの斜面に残っていた。
「こんなの、うそよ」
マナが首を横に振っている間に、隆起の成長は二メートル前後の高さで止まった。まるで小さな富士山だ。隆起の範囲は三メートルほどの直径であり、そのへりはマナの足元近くまで迫っている。盛り上がった部分に生えている背の高い雑草はそれぞれ、根づく地面が傾斜したため、その角度のぶんだけ斜めに傾いている。隆起の頂である直径三十センチ程度の範囲が水平であり、そこに生えている五、六本の草だけが垂直に立っていた。
マナは我に返り、盛り上がった地面に正面を向けたまま、一歩だけあとずさった。同時に、文化包丁を逆手に待ち返る。
「トリックなんて暴いてやる」
奮い立ち、文化包丁を頭上に振り上げた。アスファルトが相手では無理かもしれないが、土ならば刃が通るはずだ。そして手品の種明かしをするのだ。
安穏な生活を取り戻し、井上夫婦と末永く付き合っていきたい――そんな願いを込めて、身を屈めつつ一気に右手を振り下ろした。
甲高い金属音とともに右腕に衝撃が走った。
隆起の裾に突き刺さるはずの切っ先が欠け、どこかに弾け飛ぶ。表面のあちこちを微妙に波打たせている隆起だが、まるで石のように固かった。
「うそ……」
マナの中にあった筋書きに反した展開だった。次の手立てが思いつかない。
なすすべがなく、地面の隆起に正面を向けたまま、ゆっくりとあとずさった。逆手に持った文化包丁は刃先が欠けているが、構えは肩の高さに保っている。
マナの歩調に合わせるかのごとく、隆起がゆっくりと迫ってきた。うつぶせに倒れた祠が脇へと押しやられるが、土台石は元の位置に残ったままだ。そして、斜めに傾いた背の高い雑草は隆起がその場所から去ることにより垂直に戻り、隆起が差しかかった地面に生えている雑草がそれぞれ新たに傾く、というこの繰り返しが、あとずさるマナの面前で繰り返された。
やがて鳥居を通過し、開けた場所へと差しかかった。
あと五メートルほど後退すれば、雑木林の外へと繫がる道が左右に見えるはずだ。外へと至る最短ルートは、右、すなわち新王子団地側である。このまま相手を刺激せずに後退し、道が見えた時点でそちらへ一気に駆け出せば、うまく逃げきれるかもしれない。否、むしろその選択しかないだろう。
考えがまとまった次の瞬間、不意に雑草に足を取られてしまった。バランスを崩したマナは、右手の文化包丁を後方へ飛ばし、尻餅を突く。とっさに、傍らに落ちている一メートルほどの長さの細い枝を右手で拾った。
隆起が鳥居をくぐった。その裾が鳥居を前後左右に揺らす。柱と貫、それらと隆起との間隙はほんのわずかだ。
鳥居の揺れが収まると、隆起の裾はマナの足先まで達していた。尻餅を突いた状態で後退しながら、手にした枝で隆起の裾の辺りを横に払う。多くの雑草は枝に当たってしなったが、一本の雑草は鋼のように固く、その一本に当たった時点で細い枝がへし折れてしまった。引き続き、枝のへし折れた部分で裾野の波打つ表面をひっかくが、落ち葉も小石も、土の一粒まで、石版に刻まれた彫刻のごとく微動だにしない。固い雑草が一本だけでないことも知った。
トリックにせよ本物の化け物であるにせよ、かなう相手でないことを再認識した。とにかくここから逃げなければならない。立ち上がりかけたが、足がもつれ、またしても尻餅を突いてしまう。
そんなマナをあざ笑うかのごとく、隆起の頂点のやや下、こちらに向いた斜面に、小枝で刺した程度の小さな穴が、音もなく生じた。その穴が一気に広がる。マンホールほどのサイズの穴だ。すなわち、人間一人を丸飲みできる大きさということである。
隆起の移動が止まった。逃げ出す機会とも受け取れるが、化け物のが次の動きのために身構えたのかもしれない。現に、隆起の表面は波打ったままだ。
全身が硬直し、マナもその場で後退を止めてしまう。助けを呼びたいのに、叫ぶことができない。なんの役にも立たない右手の枝をほうることさえかなわない。
犬の鳴き声がした。控えめな声が一度だけ、背後で立てられた。
尻餅を突いたまま振り向いた。
すぐ後ろに秀平が立っていた。ロンも一緒だ。秀平の持つリードに繫がれたロンは、仮の主人の横で全身を震わせている。
「しゅ……しゅうへ……さん……」
助けを求めようとしたが、ろれつが回らなかった。
秀平は不意にしゃがむと、ロンを抱きかかえて立ち上がった。激しく身もだえするロンが、何度も吠え立てる。
何が始まろうとしているのか、マナには予測できなかった。とはいえ、淡々とした様子の秀平に、この数日の間に振り払えなかった澱を感じてしまう。
カビのにおいが漂う中、大股にマナの斜め前に出た秀平が、なんの躊躇もなくロンを地面の隆起に向けてほうり出した。
悲しげな叫びを上げながら、ロンは漆黒の穴に飲み込まれてしまった。そのロンを追いかけるように、秀平に握られていたはずのリードも漆黒の穴にするすると吸い込まれる。
直後、漆黒の穴から霧のようなものが噴き上がった。ひとしきり噴き上がった赤いそれは、宙に漂うことなくすぐに消え失せるが、束の間、血のにおいらしき異臭をマナは感じた。
「イア! イア!」秀平が声を上げた。「ヌアクアズイ、フタグン、ンガガグ、ンガイ」
マナに意味など理解できるはずがない。だが、なんらかの呪文であることは知れた。
漆黒の穴がゆっくりと閉じるとともに、地面の隆起が低くなった。
息を凝らしてマナはそれを凝視するが、穴の名残は見当たらない。表面を波打たせることもなく微動だにしないだだっ広いわずかな盛り上がりが、そこにあるだけだ。
「今のが退散の呪文だよ」
振り向いた秀平が言った。
「うそです。うそだと言ってください。化け物なんて存在しないし、退散の呪文も……そんなものなんて最初からないんです」
マナは首を横に振った。
「うそはなだろう」秀平は笑みを浮かべた。「ロンを生け贄にしてまで君を助けたんだよ。本当は今日中に鶏を生け贄として用意して、明日の朝に決行するはずだったんだ。ロンには気の毒だけど、君を守ることができたし、化け物も退散した。結果的によかったんだ」
「化け物なんて存在しません。全部うそです」
否定したマナは膝立ちになると、秀平の前に進み、右手の枝でだだっ広い盛り上がりの表面をさっと撫でた。
土の粒は一つも飛ばなかった。地面そのものに固さがあるばかりか、小さな雑草までもが鋼のようである。
化け物の存在を証明してみせたようなものだった。しかし、だとすれば、化け物は退散したことにならない。退散の呪文の存在など認めたくはないが、その呪文の効力に対するわずかな期待は霧散した。
「化け物は退散したんだ。化け物は存在しない……ではなく、退散したからもうここにはいないんだよ」
などと言ってのける秀平を見上げたマナは、よろめきながら立ち上がった。唯一の武器となる枝は、まだ手放せない。
「全部、ほかの誰かが仕組んだトリックなんでしょう? 秀平さんがやったことではないはずです。ヌアクアズイなんて存在しないんです。秀平さん、こんな世迷い言なんて否定してください」
諦めたくなかった。秀平を信じたい。信じたいが――崩れかけた信頼を修復するのは、不可能に思えた。
「八神さん、何を言っているんだ?」
秀平の笑みは薄ら笑いと変貌していた。その薄ら笑いが、ゆっくりと近づいてくる。
あとずさりたかったが、背後にはだだっ広い盛り上がりがある。退路を塞がれたマナは、向かって左の藪に足を踏み入れるしかなかった。
「化け物の存在も、秀平さんが化け物を呼び寄せたことも、信じたくなかったんですよ。ほかの誰かが仕掛けたトリックだったらよかったのに、それなのに……」
マナは涙声で吐露した。
「化け物の存在は肯定すべきだよ。もちろん、ぼくがトリックを仕組んだとか、ぼくが化け物を召喚しただなんていうのは、否定してほしいな。全部、多田さんがやったことなんだから」
秀平は言いながら、一歩一歩、迫ってきた。
「来ないで」
木の幹が背中に当たった。これ以上は後退できず、マナは右手の枝を秀平に向かって何度も横に振った。
「ぼくは君を助けた」
表情を変えずにマナに迫った秀平は、自分の目の前で振られる枝を右手でなぎ払った。
マナの唯一の武器が下生えの中に落ちる。
不敵な笑みを湛える秀平の顔が、目の前にあった。
「ぼくが退散の呪文を唱えたことでヌアクアズイは元の棲み処へと帰還した……そういうことにしておけば、それで済むんだよ」
秀平の右手が、マナの左胸に伸びた。自分でも認めるほどの大きめの乳房が、ナイロンジャンパーの上から揉みしだかれる。
「ぼくに犯されたいんだろう?」
夢の中で多田が口にした言葉だった。マナのあの悪夢を知っている秀平だからこそ出せる台詞だ。多田という人物に感じていた諸悪のすべてを、今の秀平に感じた。
「やめてください」
身をよじり、両手で秀平の右腕をつかんだが、マナへの陵辱は止まらない。
弄ばれながら、否定できないことを悟った。化け物が存在することも、秀平の魂胆も、すべてが事実だったのだと。
払拭できなかった澱――すなわち、唯物論者でありながらあまりに素直な反応として魔道書に頼る、という違和感は、マナの思いすごしではなかったわけだ。しかし、それを認めたところで問題は解決できない。この現状では秀平を糾弾しても同じことだ。
「よしなさい秀平さん」
突然の声に、マナと秀平は鳥居の反対側に目を向けた。
芳美が立っていた。マナが飛ばしてしまった文化包丁を右手に提げている。
とっさに秀平はマナの胸から右手を離した。
「八神さんの言うとおりよ」暗く重々しい声で、芳美は言った。「さっきの呪文は退散の呪文ではないわ。秀平さんは化け物のご機嫌を取りたかっただけ。よかったわね……秀平さんの望みどおり、化け物はそこでおとなしくじっとしている」
芳美の言葉を受け、へつらうような笑みを秀平は浮かべた。
「なんで君がここにいるんだ? 生け贄用の鶏を調達するために出かけたんじゃ……」
「あなたこそ、どうしてここにいるの?」
この状況を目の当たりにしてどう思うのか、それが窺い知れないほど、芳美の表情は人形のように生気がなかった。
「いや、ぼくは……」
笑みを浮かべたまま、秀平はマナから一歩離れた。
「あなたは『死霊秘法断章』を解読するために家に残っていたのよね?」
芳美にたたみかけられ、秀平は答える。
「そうなんだけど、ちょっと気になることがあって、ここに来てみたんだ。ロンの散歩も兼ねてさ。そうしたら、八神さんがいて……」
「八神さんのあとをつけていたでしょう? わたしね、車をコンビニの駐車場に停めて、あなたのあとをつけてここに来たのよ」
それに対する応答はなかった。秀平の顔から笑みが消えていく。
「ここ数日の間」芳美は続けた。「あなたは仕事から帰るなり、ロンの散歩に出かけた。そしてそれが済んでから、お風呂に入って食事をして、『死霊秘法断章』を開いた。ロンの散歩はいつも関山コーポの前まで行くのよね。そのために、八神さんに気づかれないようロンを手なずけたわけね。ロンはちょっとやそっとのことでは吠えなかったわ。いじらしいというか……ロンじゃなくて、あなたがよ。……わたしね、いつも、あなたを尾行していたの」
秀平は否定するどころか、だんまりを通している。見つめ合う夫婦は、互いに無表情だった。
「八神さんの動向が気になったんでしょう?」芳美は無表情のままだった。「これまでのこと……事件の真相に気づいてしまったんじゃないか、ってね。大丈夫よ。だって、わたしだってあなたのしたことを知ってしまったんだもの」
「何を言っているのか理解に苦しむな。それよりさ、さっきの呪文は退散の呪文ではない、だなんて、君にわかるのかい?」
秀平が論点をずらそうとしているのは明白だった。マナにさえわかる程度の、稚拙で無味乾燥なあがきだ。
「わたしの現役時代の専任は社会科だったわ。あの当時、江戸時代の文化に興味があったから、仕事の合間に古典を勉強し直していたのよ。あなたが付属図書館から借りてきた偉そうなタイトルの本、中学の教科書に載っている古文を読むことができれば、概ねは理解できるわ。にわか仕込みで古文を覚えた数学専任のあなたより、わたしのほうがあの本を理解しているはずよ。あなたが仕事に出かけている間に読ませてもらったけど、ほんの数日だったけど、それだけで十分だったわ」
芳美は問われるままに答えた。それによって秀平は墓穴を掘ったことになる。
「あなたが、呼び寄せた人以外の人でも退散の呪文を唱えて追い返せる、ということを発見したのは、おとといだったわね。本当にそれ以前は知らなかったみたいだけど、あなたの古文の読解力なんて、その程度なのよ」
「にわか仕込みだから正確には唱えられなかったかもしれないけど、結果的に八神さんは助かったじゃないか」
秀平の弁解に芳美は肩をすくめた。
「確かに助けたわ……八神さんにあんなことをするためにね」そしてため息を落とし、続ける。「あなたは大学内で知り合った若い女性と関係を持っていた。それも複数と」
芳美はそう言うと、わずかに眉を寄せた。
「そんなの、根も葉もないでたらめな話だよ」
秀平はなおもあがきを見せるが、芳美は落ち着いた様子で言う。
「職員や学生、付属図書館の学芸員……わたしが把握しただけでも三人はいたわ。でも実際にはそれ以上の数みたいね」
「把握、だって?」
「あなたが『死霊秘法断章』をうちに持ち帰ってきたあの日から、わたしなりに調査したの。というより、あの魔道書をあなたが借りたこと、くれぐれもご内密に、とお願いするつもりで付属図書館の館長に電話したんだけど、館長の様子が変なのよね。あの魔道書をあなたに貸したのは事実だったみたいだけど、何か隠し事があるみたいで。だからね、ほかの関係者に、あなたのこと、いろいろと尋ねてみたのよ。わたしだって神津山大学の卒業生よ。話のできる顔見知りの職員は何人もいるわ」
「だからって、そんなでたらめな――」
「大学内で噂は広まっているのよ」芳美は秀平の話を遮った。「あなた本人だけが、大丈夫だ、って思い込んでいるだけ。でも、相手の女の子たちは噂に気づくのよね。だからあなたから離れていく。噂が広まれば、どんなにあなたが言い寄ろうとも、もう誰もなびかないわ」
それらは概ね、裕美恵が語ってくれたことと重なった。
* * *
「井上先生がご近所なのね。でも、彼は好色漢よ。気をつけてね」
* * *
秀平の不貞を信じたくはないが、裕美恵の忠告を受けたうえでの芳美の言葉は、マナにとって決定打となった。
「そうしてモテない男となったあなたは、モテ始めた多田さんに嫉妬した」
芳美の声は冷めていた。
鳥居の手前に目を向けると、平べったい盛り上がりが微動だにせずそこにあった。ただの地面の隆起にしか見えないが、息を潜めている化け物なのだ。そんな化け物と、苦し紛れの弁解を続ける秀平とが、同質の穢れを有しているように思えてならない。
「だからあなたは、多田さんを殺した」芳美は言い放った。「おおかた、仲よくなった学芸員のお姉さんから『死霊秘法断章』が付属図書館にあることを聞いたんでしょうね。付属図書館から『死霊秘法断章』を盗んだのも、耐火金庫を用意してその中に『死霊秘法断章』を入れたのも、多田さんの家に火をつけたのも、ヌアクアズイを召喚して使役したのも、ヌアクアズイに多田さんの家族や七海ちゃんを食べさせたのも、全部あなた」
「なんだよそれ……自分の夫に向かってなんてことを言うんだ。言いがかりもいいところだ。証拠はあるのか?」
「あなたのその狼狽ぶりが証拠よ。根っからの女たらしは、あなたのほうだったわけ」
明言され、秀平は口をつぐんだ。
マナが抱いていた懸念は覆されることはなかった。秀平の沈黙がそれを物語っていた。
「それはそうと、何か変だと思わない? まだ気づかないの?」
芳美に問われた秀平は、無言で目を泳がせた。答えを見つけられないらしい。無論、マナも同様である。
呆れた様子の芳美が、微動だにしない平べったい盛り上がりに視線を向けた。
「その化け物、あなたの支配下にないのよ」
そう告げられ、秀平は目を丸くし、背後の異形に目を向けた。
今は芳美が薄ら笑いを浮かべている。
「さっきのあなたは、ごちそうをあげただけよ。おとなしくさせたのは、このわたし。だってその化け物、昨日からこのわたしに従属しているんだもの」
詭弁とも思える言葉を受け、秀平は芳美に向き直り、なおも腑に落ちない表情を呈した。
「使役するのに必要な生け贄は、昨日の午後、ここで差し出したわ」芳美は自分の下腹部を左手でさすった。「芽生えたばかりの命をね」
そしてようやく、秀平の乾いた唇が開く。
「ぼくの子……」
「わたしはあなたと違って伴侶以外の子をもうける気はなかった」芳美は秀平に目を向けて言った。「そうよ。あなたの汚らわしい血を受け継いだ、汚らわしい子よ。こうなった今では、一人目を流産してよかった、そう思えるわ」
薄ら笑いの中に狂気を滲ませた芳美は、右手の文化包丁を突き出した。欠けた切っ先が秀平に向けられる。欠けているとはいえ、それはほんの数ミリだ。殺傷能力は十分に残っているだろう。
「まさか、妊娠していたなんて」
呆然とした顔で秀平は口走った。
「情けない夫」
吐き捨てるように返した芳美が、続けて何やらつぶやいた。語感は先ほどの秀平の呪文に似ている。彼女はつぶやきながら、否、詠唱しながら、突き出した文化包丁をそのままに、一歩、前に踏み出した。
あとずさろうとした秀平だが、自分の背後の異形を一顧し、足を止めた。
「何をするつもりだ?」
秀平のその問いに答えず、一歩踏み出した位置で立ち止まった芳美は、秀平の背後に目を向け、詠唱を続けた。
視界の端で何かが動いた。マナは鳥居のほうに目を向け、それを凝視した。秀平も身をよじってそれを見ている。
モグラの通った跡のごとく、地面が細長く盛り上がっていた。平べったい盛り上がりの手前側の端からそれは生じており、その先端が、秀平の足元をかすめて芳美のほうへと、音もなく、ミミズのようにのたくりながら伸びていく。一方で、平べったい盛り上がりは徐々に小さくなっていった。
詠唱を終えた芳美が、秀平に視線を戻した。
「お腹の中の子を差し出すとき、こうしたのよ。今回はね、あのときよりも、もっとすごいことになるわよ。全身よ、全身。あの本をちゃんと読んでいない秀平さんには、わかるはずがないでしょうけどね」
細長い隆起のその先端が、彼女の足先に達しようとしていた。
「あなたもここで儀式を執りおこなったんでしょう?」陰湿な笑みで、芳美は秀平を見つめた。「ここなら人目はないし、雰囲気もいいしね。だからわたしもここで生け贄を差し出した」
細長い隆起はその先端を左右に分けた。そしてそれぞれが、芳美の左右の靴にへばりつく。地面の一部に見えるそれらが、灰色のウォーキングシューズと同化した。
「あなたは涼子さんと颯來ちゃんを生け贄にしたんでしょう? どうやって儀式の場に連れてきたの?」
だが、秀平は首を横に振るだけで、答えを返さない。
「多田さんの不貞を出しにしたんでしょう?」
問いを重ねられ、秀平は頷く。
「そうだよ……それで奥さんをここに呼び出したんだよ」秀平は震えていた。「娘のほうは、お母さんが雑木林で倒れている、と偽りを伝えて、あとから誘い出した」
秀平の答えを聞いた芳美は、笑顔で目を細めた。
「必死だったのね」
呆れたような物言いだった。
異形と同化したウォーキングシューズが肥大した。靴だけではない。ストッキングの脛も太ももも膨れ上がり、肥大化は下半身から上半身へと上がっていく。
「わたしの表面が侵されていく」
笑いながら言った芳美が、文化包丁を下生えの中にほうり投げた。
鳥居の手前を見ると、平べったい盛り上がりがなくなっていた。細長い隆起の後端が、秀平の足元を通過し、芳美のほうへと向かっている。
今や芳美の姿は見る影もなく膨らんでいた。胸も腹もまるで力士のごとしであり、セーターははち切れんばかりである。二重顎の顔も別人にしか見えない。
「悪かった芳美……悪かったから、もうやめてくれ」秀平が涙声で訴えた。「そいつと離れて、もとの姿に戻ってくれ」
しかし芳美の肥大化は止まらなかった。特に頭部の肥大化が著しい。二重顎から上の部分が、膨れた胴体とほぼ同じ大きさに成長していた。とはいえ、額がとてつもなく広がり、目や鼻、口など、顔を構成していた部位は元の位置に残っている。巨大な肉団子と化した頭部の下部に、顔の部位が集中しているのだ。毛髪はそのまま頭頂部に残っているが、頭部自体が肥大したため、小さなかつらにも見えた。
細長い隆起のすべてが、芳美に吸収された。
「あははは」芳美が笑うと、彼女の身につけているものが弾けた。「ヌアクアズイが、わたしと一つになる」
肥大しすぎたそれは、いくつかの肉団子が連なった肌色の固まりであり、すでに人間の姿ではなかった。肉塊の表面にへばりついている何枚かの切れ端は衣服だったものだが、肉塊と同化している可能性も否めない。
「あなたが八神さんやわたしにヌアクアズイの存在をほのめかしたのは」重たそうな頭を前後左右に揺らしながら、かろうじて人間のものとわかる口が芳美の声を紡いだ。「犯行を偽装するための手段の一つ、そうよね?」
「そうだよ」嗚咽混じりに秀平は答える。「多田のやったことにしておきたかったから、こいつの正体をほのめかしておいたんだ。八神さんの動向が気になったのは確かだよ。でもそれは、じっとしていてほしいからじゃなく、行動に出てほしかったからなんだ。そして興味を抱いた八神さんは、首を突っ込みすぎて、ヌアクアズイに食われる。そうすれば、事件の真相を嗅ぎ回る人間は消えて、すべてはうまく収まる……そのはずだった」
あまりに残酷な言葉だった。秀平に抱いていた威厳や信頼はすでに消え去っているが、身を引き裂かれるこの思いは、未練がましい自分がまだ残っていることを物語っていた。
「なるほどね。でも」肉塊は続ける。「多田さんへの報復は八神さんと知り合う前にしているでしょう。誰かがヌアクアズイの存在に気づいて、しかもその誰かが魔道書の存在を知っていて、ヌアクアズイと魔道書を結びつけなくちゃ偽装した意味がないわ。多田さんに横取りされたかわいい恋人……学芸員の子ならヌアクアズイや魔道書を想起することはできるでしょうけど、地面の盛り上がりの噂が彼女に届かなければ意味がない。……せいぜい、魔道書を元の場所に戻すリスクを恐れて、あたかも、多田さんが盗んだ、そんなふうに見せかけた。それだけのこと。違うかしら?」
肉塊が口にした仮説を秀平は肯定も否定もしなかった。もっとも、図星なのだ、と混乱するマナでさえ悟ることはできた。
「挙げ句の果てに、八神さんまでも自分のものにしようとした。そうしてから、口封じのためにヌアクアズイに食べさせる。そんなところよね」
気づけば、マナは涙を流していた。はたして秀平の涙と同質の涙なのだろうか――マナは自分の涙にさえ穢らわしさを感じてしまう。
「七海ちゃんを襲わせたのも、あなたよね?」
「そうだよ」泣きながら、秀平は答えた。「ヌアクアズイは腹を空かせていたんだ。誰かを食わせなければ、術者であるぼくが食われてしまうかもしれなかったから」
「つまり、ヌアクアズイが手に負えなくなった、ということね。でもこれで、そんな心配から解放されるわ」
肉塊はそう言うと、左腕と思われる固まりをゆっくりと前に突き出した。芳美の左腕だったはずなのだが、肉に埋もれてしまったのか、その先端に指らしき部位は確認できない。
「何年もの間、あなたはいい夫を装ってきた」
突き出された部位の先端が大きく膨らんだ。
「結婚する前から不安だった」
紛れもなく芳美の声だ。
「あなたの周りには、いつも若い女性たちがいた」
膨らんだ先端に、大きな穴が開いた。
「そして、不安は現実となった」
先端が高く持ち上げられ、大きな穴を下に向けた。その真下に秀平が立っている。
秀平は涙を流しながら見上げた。
穴の縁が下方に向けて唇のごとく突き出し、秀平の全身を頭から包み込んだ。袋状のそれが急速にしぼみ、何かがつぶれるような音がした。そして、芳美の左腕、と思われる部位が元の肉団子に戻る。穴は閉じながら正面を向くが、完全に閉じる直前に、先ほどと同様、赤い霧を勢いよく噴出した。
赤い霧とともにすぐに消失した異臭は、やはり血のにおいだった。不意に吐き気を覚えるが、マナはそれをこらえた。
「さようなら八神さん」
正面を鳥居に向けたままそう告げた肉塊が、秀平を飲み込んだ部位を下ろし、よたよたと歩き出した。歩き始めたばかりの赤ん坊のごとく、おぼつかない歩みである。
「あ……あ……あの……」
マナはやっとの思いで声を出すが、言葉にならなかった。
「これで終わりにしようと思ったけど」鳥居をくぐった肉塊が、よたよたと歩きながら背中で言った。「この化け物の食欲が許さないのよ。というより、女のさがが許さないのかもね」
かび臭い雑木林の中で肉塊の言葉が続いた。
「わたしの皮膚の裏側も盛り上がっていく」
巨大な頭を揺らしながら、肉塊がマナから遠ざかる。
「筋肉も骨も脳も、表面が盛り上がっていく」
芳美の声が次第に図太くなっていった。
「内臓も表の面と裏の面が盛り上がっていく」
ごぼごぼと泡立つような、女のものとも男のものとも思えない声だった。
「神経も血管も、わたしのすべてが……」
肉塊の後ろ姿が、下生えを踏む音を立てつつ、雑木林の闇に埋もれて行く。
「ほら見て……わたしの周りのものが、侵されていく」
奇怪な声が紡ぐ言葉が事実なのか、それともマナの気のせいか、幻覚なのか、肉塊の周囲の木々や下生えが異様なまでにゆがんで見えた。
なすすべがなく、マナはその場にへたり込んでしまった。
やがて、肉塊はマナの視界から失せてしまう。
改めて目を凝らすが、肉塊の姿がなければ、草木のゆがみもなかった。
雑木林の中は静寂に包まれていた。
代わりに、遠くに車の行き交う音が聞こえた。
仕事を終えて帰宅したマナは、風呂と食事を済ませると、テレビは点けず、すぐにベッドに入った。ここ数日の習慣である。
職場の雑談で、神津山大学の教員や職員、学生、神津山大学付属図書館の学芸員など、合わせて七人がこの数日の間に行方不明になった、という報道があったことを知った。もっとも、行方不明となった七人のうちの一人は、秀平だ。秀平を除く六人は、若い女であるという。テレビのニュースや新聞は、今でもその話題を取り上げているらしい。よってテレビの電源はどうしても入れられない。ニュースを見るなどもってのほかだ。無論、報道では芳美の失踪も取り沙汰されているらしい。
マナは警察の事情聴取を受けたが、それは一度きりだった。文化包丁はあの直後に下生えの中から拾い、処分してある。これでマナになんらかの疑いがかけられる確率は下がったが、自分の中から秀平と同質の穢れを払拭することは不可能となった。
岸本夫人と行き会うことはあるが、互いに挨拶を交わすだけだ。井上夫婦の話題はもとより、会話は一切ない。
懇意にしていた知人が行方不明になったということで、会社ではときおり裕美恵が慰めてくれるが、未だに彼女に事実は伝えていなかった。今後も伝えることはないだろう。
壁によりかかることも地面や床に足をつけることも忌まわしく感じられた。できることなら宙に浮かんでいたい。次のアパートに引っ越すのは五日後だが、それまでの間はそんなトラウマから逃れられないはずだ。否、どんなに遠くへ行こうとも、逃れられないのかもしれない。
背中を預けているベッドの面にさえ忌まわしさを感じつつ、南の方角に目を向けた。南向きの窓はすべて、昼夜を問わずカーテンを閉ざしたままである。カーテンがしっかり閉ざしてあるのを見届けると、わずかに気持ちが落ち着き、目を閉じることができた。
あれ以来、この部屋から新王子団地を――多田家だった空き地も、井上宅も、マナは一度も見下ろしていない。
匍匐する腫瘤 岬士郎 @sironoji
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