まだ暗いうちに寮を出たのに、新幹線に乗るころには空はすでに明るくなっていた。列車の本数が少なくて、途中のターミナル駅で三十分ほど待たされたせいだった。

 あまり早起きに慣れていないわたしはまだ幾分眠気が残っていて、桜さんに手を引かれながら、おぼつかない足取りで新幹線のドアをくぐった。そして彼女と共に座席を確認し、桜さんの分の荷物も一緒に受け取って、旅行鞄を座席上部の棚に揚げた。桜さんは少し遠慮したような声で、ありがとう、と言った。うちの方が背ぇ高いんやし、別にかまへんよ、とわたしは答えた。

 途中のキオスクで購入したペットボトルの飲み物と、小さなバッグだけを持って、桜さんの隣に座った。

「着くころにはお昼を回ってしまうんでしょ? やっぱり随分と遠いね」

 後ろの人に会釈をして、座席を倒しながら。桜さんが呟くように言った。

「昔は上野駅から十六時間かかったらしいけど。……それに比べたら早くなったのかな」

「そやねぇ。そうかもしれん」

「あ、お弁当作ってきたから。お昼はそれでいいよね?」

 わたしは驚いて、まじまじと桜さんの横顔を見つめた。

「いつ間に?」

「あなたが寝ているあいだに、よ」

 桜さんはくすくすと笑った。

 発車のアナウンスが流れ、列車が滑るように駅を出発する。街並みが後方に、するすると流れていく。空は灰色に曇っていて、淡い鈍色の光をその中に湛えていた。

 窓際に座った桜さんは、手にしたペットボトルのコーラを握りしめたまま、じっと窓の外を見つめていた。

「……少し離れただけで全然景色が違う」

 目を凝らすと田畑ばかりが広がっているのが、わたしにも見えた。やがてトンネルに差し掛かると窓に映った桜さんと目が合った。彼女は感慨深げな表情を浮かべていた。

「たまたまそういう場所を走ってるだけとちゃうのかな。これから東京駅で乗り換えになるんやし。ビルなんかも、きっとようさんあるんと違う?」

 そう言ってみたが、桜さんは黙っていた。

 たぶん。自分がこれから行く場所を、殊更遠いところだと思い込もうとしているのだろう。わたしにはその気持ちが少しだけわかったので、それ以上は何も言わなかった。自分自身とは関係のない場所、縁遠い場所。そう思っている方が、きっと心は楽なのだ。桜さんにとっても、そしてたぶん、わたしにとっても。

 列車は山あいや鄙びた集落、そしてビルの立ち並ぶいくつもの大きな街を通り過ぎながら、北に向かっていく。けれどわたしの弱々しい視力の瞳には、それらは全部、同じに見えた。


 ——久しぶりの父からのメールを、わたしは驚きの目で見つめることになった。内容は七月の下旬に真打ちに昇進した長兄と親子二人会を演るので、燈も観光がてら遊びに来ないか、というものだった。画面をフリックすると場所は青森県の弘前と書かれていた。父の生まれた場所だ。

 少し迷ってから父に直接電話をかけてみた。すぐに、もしもし燈か、という声が返ってきた。それは久しぶりに聞く、父の声だった。

「今、電話しても大丈夫?」

「構わないよ。メール、見てくれたのか」

「うん」

「それで?」

「落語は聞きにいかんよ。義兄さんとは顔を合わせとうないもの。うちはもう、そういうの、嫌なの」

 電話の向こう側で、父が押し黙るのがわかった。

「でも、父さんには会いたい」

「うん」

「……わがまま言うてもいい?」

「いいよ。言ってごらん」

 わたしはスマートフォンを持ち直して、反対側の耳にあてがった。そして部屋を見回した。今日は日曜日で、桜さんはバイトに出かけている。まだ帰ってくるまで、時間はある。

「友達と一緒でもいい? ……だって、ずっと父さんと一緒には居られへんのやろ?」

「まあ、そうだな」

 口籠もりながら父が返事をした。

「あと、な。会う場所は弘前やなくて、……下北でもええ?」

「また辺鄙なところだ。一体どうして?」

「うち、父さんの家族の近くには居とうないもの。弘前には父さんの親族も、落語の関係者も多く来てはんのやろ? それに」

 ……行きたい場所があるんよ。わたしは目を瞑って、小さな声で言った。父は少しのあいだ黙していた。父が何を考えているのか、わたしにはわからなかった。わたしが何を考えているのか、父にはたぶんわからないだろう。

「わかった。旅費はわたしが全て持つよ。仔細はまたあとで」

「父さん」

「……なんだい?」

「ありがとう。好きよ、お父さん」

 馬鹿だな。そう言い残して、電話は切れた。

 ふと気づくと、夕暮れがひっそりと部屋を浸していた。赤い果実のような日の光が、部屋をまだらに染め上げている。もうすぐ夜が来る。わたしはぼんやりと外を見つめながら、桜さんにはなんて話をしよう、と考えていた。


 八戸に着くと、わたしたちは新幹線を降り、強張った体を伸ばした。思わずうーっという声がお互いの口から漏れた。七月の末なのに、頬に当たる空気は冷ややかだった。わたしは北の地にいるのだ、と改めて思った。

 青い森鉄道の列車に乗り換えるとき、空を見上げた。いつの間にか頭上にはくっきりとした青空が広がっていて、小さな雲が東に向かって流れていた。どこからか蝉の声が聞こえていた。それは静かにわたしの胸に染み入って、わたしを違う誰かに変えてしまうように思えた。

「燈さん? どうしたの?」

「……なんでもない」

「そう? もうすぐ電車が出るよ。ほら」

 桜さんがそっとわたしの手を握った。わたしはその手を握り返して、彼女のあとをついていった。

 古びた列車はカタカタとゆれた。蛇腹の遮光カーテンがレトロな雰囲気を醸し出していた。運転手さんだけの小さな電車が、駅をいくつも過ぎていく。客は少ない。わたしはぼんやりと、過ぎていく駅やクリーム色の天井を見ていた。

 どのくらいそうしていただろうか、不意に桜さんが歓声をあげた。桜さんにつられて窓の外を見ると列車のすぐ向こう側に海が広がっていた。黒々とした潮はどこまでも穏やかで、波間に日の光が反射して、キラキラと輝いていた。

 こんなに海の近くを走るのね。桜さんがため息と一緒にそう言った。

「そうだ。車内でお弁当を食べましょうか。朝早かったから、わたしお腹ぺこぺこで」

 わたしは桜さんの横顔を見つめた。目尻がほんのりと赤く、色づいていた。


「……旅行? ええと、申し訳ないんだけど、わたし、金銭的にそんな余裕なくて。ごめんなさい」

 以前彼女から、奨学金を借りていることや、自身の学費や生活費をほぼ全て自分で賄っていることは聞いていた。そこにどんな理由があるのかまでは訊かなかった。それは、簡単に訊いていい部類のものではない気がしたのだ。

「うちな、父さんに会いに行くんよ」

 わたしは申し訳なさそうな表情を浮かべている桜さんに、静かな声でそう告げた。

「うちの家はちょっと複雑で……父さんはうちの他に、本当の家族がおってな。うちは、お妾さんの子なんよ」

 桜さんは何も言わずにわたしを見ていた。

「せやから、ひとりで会いに行くんは……なんや気が引けてしもて。旅費のことなら心配せんで。こっちで全部どうにかするから。だから」

「……どうしてわたしなの?」

「うち、あんたのほかに友達おらんし」

「それで、どこに?」

「青森。下北半島って知ってはる? 恐山とか」

 桜さんの肩がぴくりと動いた。桜さんから桃の匂いがした。以前いつだったか、桜さんがイタコの話をしていたのを、わたしは覚えていた。

「いつ?」

「七月の最後の土曜日と、日曜日」

 そう、と呟いた桜さんの声は、少しだけがっかりしているようだった。もしかしたら夏の大祭典の日程を考えていたのだろうか、と思った。思ったけれど、わたしはそれを口にはしなかった。

「幾つか条件があるんだけれど、いいかな」

「ええよ」

「少しだけでもいいの。ひとりで行動できる時間が欲しい」

 わたしは小さく首肯した。それは父と会う約束をしていたわたしにとっても好都合だった。

「それと」

「うん」

「……旅費を全部出してもらうのは、嬉しいけれど、ちょっと困る。わたしも少し出させてもらっていい?」


 下北の駅には、本州最北端の駅であることを示す、看板が出ていた。けれどロータリーの向こう側には、見知ったコンビニエンスストアがあり、見知ったガソリンスタンドがあった。桜さんは少し眉根を寄せて、それらを見ていた。タクシーを拾って宿に着くと桜さんは荷物を置いて、少し出かけてくるね、と言った。夕ご飯までには帰ってくるから。

「うん。気ぃつけてな。うちも、父さんに会うてくる」

 思いつめたような表情の桜さんを見送ってから、わたしは服を脱いだ。そして持参していた着物に着替えた。帯を締めるときのシュルシュルという音を聞きながら、ふと部屋の暗がりに目が行った。静かな気配がそこにまだ、逡巡するようにわだかまっていた。

「お母ちゃんは行ってしもうたよ。あんたもはよ行き」

 わたしは最後にコンタクトレンズを外しながら、小さく呟いた。部屋の中からすっと桃の匂いが消えた。

 約束の時間に合わせて指定されていた小料理屋に赴くと、父は奥座敷で一人、手酌でお酒を飲んでいた。薄くなった髪を後ろになでつけていて、わたしによく似た細い目が、じっと目の前の料理を見つめていた。お前、お昼は、と訊ねるので、ここに来る途中でお弁当を食べた、と答えた。

「ん? その着物、椿のか」

「そやよ。絽と紗の合わせ織り。父さんが母さんにくれはったんやろ? うち、これが母さんの着物の中で、一番好きやの」

 わたしがそう言うと、父は薄く笑った。何かを懐かしんでいるような、そんなやわらかな笑みだった。

「父さんは? 何を食べてはるん?」

「味噌貝焼きだよ」

「みそか? ああ、雲丹やら帆立やらを貝殻の上で焼くやつやね。こっちの郷土料理なんやろ?」

 わたしがそう言うと、父はくつくつと笑った。

「そんな贅沢なものが郷土料理のわけがないだろう。もともとこの辺りは貧しい土地だったのだから。あれらはみんな、観光客用の食べ物だよ」

 父が手招きをして、わたしを呼び寄せた。わたしはそっと父の隣に座って、剃刀を当てたばかりのような、その鋭く白い顎を見つめていた。

「なら、これはなんやの」

「これは鮫の干物を焼いたものを、ほぐして入れてある。家庭で食べられている一般的な味噌貝焼きだよ」

 食べてみるか、と言われて、わたしは口を開けた。父はまるで雛に餌を与えるように、わたしの口の中に魚の身を入れた。

「熱っ。……でも、美味しい」

「お前はいい酒飲みになるな」

 父がまた、くつくつと笑った。わたしが肩にもたれかかると、父はわたしの髪をそっと撫でた。わたしは目を閉じた。あるいは母を抱くときも、父はこんなふうにするのだろうか。

「ずいぶん遠くまで来た気がしたんやけど。なんだか、そんな気がせぇへんの」

 家の造りもうちらの住んでるところとあんまり変わらんし。わたしがそう言うと、父は猪口の底に溜まっていた酒を干した。

「そうでもないさ。家の傍らの大きな石油タンクは目につかなかったか。それから、ここいらの家の屋根は全部トタン葺きで、雨樋もない。玄関には大概風除室が備え付けてある。それらは全部、厳しい冬の備えなんだよ」

「へぇ、そうなんや」

 もっとも、目の悪いわたしには、そんなことはわかりようもないのだけれど。……ううん、違う。きっと見えていても、意識の俎上に上がらなければ、見えないものはあるのだろう。

「十一月にもなれば雪が積もり始める。本格的な冬が来れば、ひとの背丈を超えて積もる。ここは、そういう土地なんだよ」

 わたしは父の猪口に、酒を満たした。父は黙ってそれを干した。

「そういえば、友達はどうしたんだ」

「連れなら一人で出かけて行かはったわ。会いたい人がおるんやて」

「友達って、もしかして聖、か?」

「……ちゃうよ。聖はうちのこと、従姉妹やって知らへんもの。うち、あの子の父親の葬儀にも、出てへんのえ?」

 聖の父親はわたしの父の弟だった。もう十年以上も前に鬼籍に入っていた。その人がどんな顔をしていたのかさえ、わたしは知らない。彼女のことを知ったのだって、名字が父と同じ砂塚だったから、気になって調べただけだ。今更聖にそのことを話すつもりもなかった。

 耳に蓋をすることはできない。知らなくていいことなんて、この世には山ほどあるのだから。

「わたしのことを恨んでいるか」

 父が言った。

 わたしは再び目を閉じて、

「もう一度髪を撫でてくれたら、それでええよ」

 と答えた。


 日が暮れて、夕食間際になってから。桜さんは憔悴した面持ちで宿に戻ってきた。

 どこかで泣いてきたのだろうか。目の周りが腫れて、瞳は赤く潤んでいるように見えた。

「桜さんの用事は済んだの?」

「うん。そう、ね。済んだんだと思う。……ありがとうね、燈さん。ここまで連れてきてくれて」

「ううん。それで……少しは楽になれた?」

 わたしは桜さんに訊ねた。彼女の周囲には、いつもの桃の香りのような気配が、まだ静かに漂っていた。

「……どうかな。よくわかんない」

 夕食のときもあまり言葉を交わさなかった。少し気詰まりだった。けれど貝殻に雲丹と帆立の乗った贅沢な味噌貝焼きが出て、わたしは思わず笑ってしまった。桜さんはどうしてわたしが笑っているのかわからない様子で、小さく首を傾げていた。それから少しだけ気が抜けたように、唇の端に小さな笑みを浮かべた。

 一緒に温泉に浸かり、そのあいだに敷いてもらっていた布団に入って早々と部屋の電気を消すと、耳に痛いくらいの静けさだけが残った。暗闇の中でわたしは桜さんにじっと見つめられているのを、不思議なくらいにはっきりと感じていた。

「眠れへんの?」

「ねえ、燈さん」

 わたしが訊ねると、桜さんは熱のない声でわたしの名を呼んだ。

「何も言わなくていい。ただ、わたしの話を聞いてもらえる?」

「うん」

「今日ね、わたし、イタコの人に会いに行っていたの」

「うん」

「……驚かないのね」

「驚いてるよ。それで?」

「前に燈さん、自分の家は少し複雑だって話をしてくれたよね。わたしの家も……少し、複雑でね。わたしは」

 そこで桜さんは言葉を噤み、沈黙した。わたしも黙ったまま、彼女が再び口を開くのを待っていた。夜の暗い色がまるで溶けた液体のように、わたしたちのあいだに流れていた。

「わたしはずっと、実の兄と、……性的な関係を持っていたの。そして、兄の子を妊娠してしまった」

 告白が闇に響いた。わたしはどう返事をしたらいいのかわからずに、固唾を飲み、じっと耳をそばだてていた。

「わたし、赤ちゃんを堕したの。それがいいことなのか、悪いことなのか、もう、わたし自身にはわからない。それはすでに起きてしまったことだから。取り返しのつかないことだから。仕方がなかったなんて言わない。でも、せめて産まれてこなかった赤ちゃんがわたしを恨んでいるのかどうか、それだけでも知りたいと思ったの」

「それで、イタコさんに?」

「うん」

「イタコさんは、なんて?」

「あなたが探している子は、あの世には居ない。だから呼ぶことはできない、そう言われちゃった」

 わたしは暗闇の中で手を伸ばして、そっと桜さんの頬に触れた。頬は涙でしっとりと濡れていた。

「おいで。うちの根際に来たらええよ」

 布団をめくると、桜さんはそっと寄ってきてわたしの胸に顔を埋め、大きく息を吐いた。桜さんはいつまでも雨だれのような涙を零し続けていた。わたしは彼女を抱きしめて、悲しい涙の通り道に、そっと、唇を這わせた。


 目が覚めておはようの挨拶とともに、お互いの顔を見合わせた。恥ずかしげに目を伏せた桜さんの瞼は重く、腫れているように見えた。わたしが吹き出すと、桜さんは笑わないでよ、もう、と怒った顔をして、わたしの肩を軽く叩いた。

 浴衣から着替えるとき、わたしは少し迷ってから昨日と同じ着物を着た。桜さんはわざわざそんな嵩張るものを持ってきたの、と呆れた顔をしていた。

 旅館の近くのバス停までは歩いて五分ほどだった。ただ父に事前に聞いていた通り、バスの本数は驚くほど少なかった。典型的な車社会の土地なので、地域の住民は公共の交通機関を滅多に使わない。桜さんも穴があくほど時刻表を見つめ、乗り遅れると大変ね、と呟いた。

 恐山行きのバスが来るまで、わたしたちは一つの日傘に入りながら、夏の空を見上げていた。


 恐山、などと斯くも曰くありげな名称の土地だけれど、本来は鵜が逸れる場所、鵜逸れから名が付いたという説があるらしい。実際に恐山を形成するカルデラの中心地に存在する湖の名は、宇曽利湖という。恐山、というのは、後からこの地につけられた名称だ。かつては良質な湯治場として知られ、今も滾々と硫黄泉が湧き出ている。

 霊場としての恐山は貞観四年慈覚大師円仁開基となっているが、これも本当のところは定かではないらしい。慈覚大師開基とされる寺院は全国に数多くあり、この地に伝えられているものも、その伝説の一つであるとも言えなくはない。元々は慈覚大師開基とされている通り天台宗の寺であった。しかし十五世紀に寺が破却すると、その後は顧みる者もなく、百年にわたって荒廃したという。曹洞宗の僧侶が恐山を再興させたのは享禄三年。以後菩提寺として曹洞宗管理となっている。

 恐山の名を全国に知らしめたのはこの地に集まるイタコの口寄せであろうが、彼女たちは寺の管理とはなっていない。あくまでも在野の霊能者である。以前は門前市を成すといったように沢山のイタコたちが集まったものだった。しかし明治の新政府が文明的ではないという理由で取り締まりを始めると、その数は次第に減っていったという。今では夏の大祭典と秋参りのときにのみ、その姿が見られるくらいである。しかし昔から土地の人間は、人は死ぬとお山に行く、と言い、生者と死者の執り成し役としてのイタコを、今でも大切にしている。……と、まあ、これらの知識はほとんどが父からの受け売りなのだが。

 霊場は地獄めぐりののち、極楽浜で湖に接している。火山性のカルデラ湖である宇曽利湖は強い酸性を示しているという。そのせいかこの湖は透明度が高く、環境に適応した特殊なウグイのみしか生きて行くことができない。そしてこの湖の色は——。


 三途の川に掛かる赤い太鼓橋は閉鎖されていた。わたしはそれを横目で見つめ、小さく息をついた。バスの中にも硫黄の匂いが漂っていた。

 バスを降りてすぐに桜さんがずいぶんゆれたね、と苦笑を漏らした。そしてわたしの日傘を受け取り、それを広げた。わたしは桜さんの手を握りながら、彼女が自分よりも背の高いわたしに差し掛けてくれた傘の陰の中を、ゆっくりと歩き始めた。

 案内所を通り過ぎ、いざ入山料を払おうとしたときのことだった。少し待って、と桜さんがわたしに声をかけた。

「どないしたん?」

「ちょっと、いいかな」

 桜さんはわたしに日傘を手渡し、慌てて駆けていった。お手洗いだろうかとその背中を追うと、桜さん姿が売店の入り口に消えるのが見えた。

「何を買うてきたの?」

「ええと、ね。これ、なんだけど」

 おずおずと彼女が差し出したのは、赤い、風車だった。

「お線香の代わりに、と思って」

 わたしは何も言えず、ただカラカラと回る頼りなげな風車を見つめていた。桜さんはその風車を、大事そうに鞄の中に収めた。

 広い境内に人の姿は見えなかった。夏の大祭典が終わってしまって、人の足も途絶えたのだろうかと思い、わたしは強く桜さんの手を握った。桜さんは不思議そうにわたしを横目で見て、少しだけ目を細めた。巨大な卒塔婆や、積まれた石に挿してある風車、結ばれたわらじや手ぬぐいが、なぜか心に染みるようだった。

 途中お堂の中を見ると、遺影とともに、死者のための衣服が供えてある。また、花嫁人形がいくつも飾られているのが見えた。

「どうして花嫁姿のお人形が?」

 桜さんが小さな声で言った。

「死んだ子供に、せめてあの世ではいい人と結ばれてほしい……そういう親心やろうね。冥婚、いうんよ」

 わたしは言った。

「死んでしもうてもね、親は子供の歳を数えるのを、やめられへんのよ」

 桜さんは少し青ざめた顔で、そうかもしれないね、と言った。

 本堂のお参りが済んでから、わたしたちは境内にある地獄をめぐっていった。ところどころに石が積まれている。硫黄の匂いが一層濃くなったような気がした。

「足元大丈夫? 転ばないように気をつけて」

 わたしがまろびそうになると、桜さんは慌ててわたしの体を支えてくれた。二人で地獄をめぐっていると、本当にここが現世なのか、わからなくなった。そもそもこの世とあの世の境目がどこにあるのかなんて、誰にわかるというのだろう。

 桜さんは水子地蔵の前に差し掛かると、足を止めて、手を合わせた。そして鞄の中からさっきの風車を取り出し、そこに供えた。桜さんの風車は他の風車と同じように、カラカラと回り続けている。

 賽の河原を抜けて極楽浜に着くと、風が強く吹いていた。湖を囲む山々の葉ずれの音が、十重二十重に響き合っていた。

 昨日、父に燈が行きたい場所というのはどこなのか、と訊ねられたとき。わたしは恐山だと言った。父が昔わたしの瞳の色をまるで宇曽利湖のみのもようだと言っていたのを、決して忘れていなかったから。

 目の前に広がる湖は、エメラルドグリーンの水を湛えている。夏の光を反射しながら、キラキラとみのもを輝かせて。

「ここで死んだ人の名前を呼ぶと、その人に通じるらしいえ。魂呼び、言うんやて」

「……わたしには、あの子の名前を呼ぶ資格なんてないよ。だって、あの子に……名前をつけてあげることすら、できなかったんだから」

 わたしは桜さんを見つめた。

 桜さんははらはらと涙を流していた。

「その子は、本当ならいつ産まれてくるはずやったの?」

 彼女の傍らにいる小さな桃の匂いが、風に揺れた。

「三月。春の花の……きっと、桃の節句の頃に」

「なら、それにちなんだ名前にしてあげたらええんやないのかな」

「わたしには……無理よ。決められない」

「じゃあ。……うちが決めてあげる。その子の名前は、花、や」

 桜さんは一瞬驚いた顔をした。そして一度唇を引き結ぶと、大きな声で、

「花っ」

 と叫んだ。

「花っ、花っ!」

 その声は幾重にもこだましながら、湖の向こう側に消えていった。彼女の周囲を漂っていた気配が溶けて、どこかに流れていった。

 ……かつてこの地に赴いた住職が、あまりにも寂しい場所だからと、桜の木を植えようとしたという。しかしこの地には根付かなかった。厳しい土地であればこそ、自生している木でなければ、生きていくことはできないのだ。

 わたしは夏の日差しの中で、涙を流しながら叫び続ける桜さんを、じっと見つめていた。

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夏の桜 月庭一花 @alice02AA

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