小さな魚
スヴェータ
小さな魚
やっと水道から水が出るようになったので、やれやれとばかりに鍋を右手に蛇口をひねった。すると鍋底にうっすら水が溜まったあたりで、小さな魚がピチャンとこぼれてきた。
ソフィア・コンドラチェワは驚いて一瞬鍋を落としかけたが、すんでのところで手に力を込め、事なきを得た。水を止めて眺めてみるとそれはそれは美しい鱗が窓からそそぐ日差しに照らされ、ゆらゆら、キラキラ瞬いていた。
上から眺めていたけれど、どうせなら横から眺めてみたくなり、捨てるばかりにしておいたジャムの瓶に水を入れた。そこに小さな魚を入れると尚いっそう輝いて、目を射るように鋭く感じられた。
「まあ、美しいこと。ぜひこの子は大切に育てましょう」
そう決めたソフィアは瓶からたらいに移し替え、スープを作るのも忘れて日がな一日それを眺めた。ただ眺めていたわけではない。ソフィアはずっとこの美しい小魚にふさわしい名前を考えていたのだ。しかし、どれもこれも陳腐に思えて、ああでもない、こうでもないと悩むばかりだった。
とっぷり暮れてもソフィアはまだ小さな魚を眺めていたが、時がそれほどに経っていることに全く気付いていなかった。この小さな魚は光の強さも、その色合いも、ゆらりゆらりと変えながら泳ぐのだ。
夢中になっていつまでも眺めていたソフィアがその経過した時をやっと意識したのは、最愛の夫が帰宅した時だった。
「やあ、ソーニャ。どうしてあんなに真っ暗な部屋で座っていたんだ?」
「あら、大変。あなた、帰って来たの?おかしいわ。さっきまで朝だったのよ」
「一体どうしたって言うんだ。何をしていたんだ?」
「ねえ見て。何故だか分からないのだけれどね、蛇口から魚が出て来たの。すごく綺麗でしょう。私、これを飼うことにしたわ」
「ええ?……ああ、そうか。魚が。そんなこともあるんだね。分かった。飼うといいよ」
「名前を何にしようか悩んでいるの」
「ゆっくり考えるといいよ。よく考えたものをつけてあげるといい」
夫が蛇口の方へ向かうのを横目にソフィアは尚も小さな魚を眺めた。少し遠くにいる夫に向かって、ソフィアは気持ち大きな声で話しかけた。
「ねえ。この小さな魚、とても不思議なの。強く光ったり、弱く光ったり。あとね、赤だったり、青だったり、時には虹色だったりするのよ。こんな魚、あなた知っていて?」
「ああ、そんなふうに見えるのかい。なあソーニャ、僕は言ったよね。君は蛇口に触れてはならないって」
「ええ、でも、スープを作りたかったのよ」
「ここにつけていたカバーはどうした?君が刺繍したカミツレの花模様の」
「それはここに。新しくライラックを刺繍したものができたから、それに交換しようと思ったの」
「それでどうして、スープを作ることになったんだ?」
「ええと、どうしてだったかしら」
ふとたらいの中を見やると、先程までとは比べ物にならないほど小さな魚は煌めいており、右に左にグルグルと回っていた。それからどうにも視線を反らせず、あっという間に酔ってしまった。ソフィアはかすかに唸り声をあげながら、小さな魚と同じように右に左に身体をくねらせた。
バシャン!と大きな音がした。夫は振り向き、たらいに顔を突っ込みブクブクと音を立てるソフィアを見た。起こしながら、ソフィアが夢中になっていた「魚」をつまみ、左手の薬指に戻した。
「全くどうしたものだろう。誰しもよく分からない病があるとはいえ、いつまでも治らないようではかなわない。神よ、そろそろソーニャを、私を、どうか解放してくださらないか」
夫はソフィアの欠けた歯を拾い、血を拭い、荒れた手の手当てをし、頭を抱えた。その日は神への祈りをやめて、ひたすらソフィアの目覚めを待ったという。
小さな魚 スヴェータ @sveta_ss
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます